第52話 名も無き男の告白
踏み出したのは、――禁断。
「……護れなかった……?」
思わず私は聞き返した。
帽子屋さんの言う、『護れなかった娘』。
――まさか、なんて思って。
そんな私の気持ちを察したのか、帽子屋さんはふっと笑った。
淡い微笑。切ない。
「あぁ、そうだよ……彼女はアリスだった」
やっぱり……と私は思う。
ぎゅっと、膝の上に置いた手を強く握った。何だか心が痛い。――私も結局は、アリスだから。
「まあ、そんなことはいいんだ――そんなことを話すために呼んだんじゃあない」
「あっ、ご、ごめんなさい、私……」
「いや。気にしなくていいよ」
相変わらず柔らかく微笑む帽子屋さん。……何だか、優しすぎて申し訳ない……。
聞かれたくなかったことだったらどうしよう。うわああ恥ずかしい、デリカシーのない子だ私。ごめんなさい帽子屋さん。
「実はね、ちょっと、聞いて欲しいことがあったんだ」
「聞いて欲しいこと……?」
何だろう、と私は身を固くする。
私に聞けることならー! と、本当は叫びたいが、私が彼の力になれるとは到底思えない。聞くだけでいいなら聞きますけど。こんな奴で本当ごめんなさい……。うう。
「聞くだけでいいんだ。もしかしたらありすの力になれるかもしれない……、と思っただけだから」
帽子屋さんはやっぱりふわりと微笑んだ。
優しすぎるよ、帽子屋さん……。あの猫とは大違いだ。泣けてくる。
私の力なんて。むしろ私が貴方の力になりたいです。
「……あのな、ありすは変に思ったことがないか?」
「変に……?」
この国の人たちって大抵変ですよね、という科白はかろうじて呑み込んだ。
帽子屋さんの言葉を茶化すだなんてとんでもない。
特に帽子屋さんの表情は、真剣だ。そんなことしたら私は悪人よ。
「ミルクや、ディーやダム。女王やジャック、エースも。あいつらにはちゃんとした名前がある」
「な、名前……ですか?」
「ああ」
そう言われてみればそうかも……。突然の言葉だったけれど、すんなり呑み込むことができた。
私は小さく頷く。
そういえばそうだ、女王様も最初会ったときに自己紹介されたなー。ハートさまって言ったっけ。ハク君とかもそうか。
でもそれがどうかしたのかしら。
「そうしたら、帽子屋さんや公爵夫人は何か……称号っぽいですよね」
「そうだ。――役、って言うんだけどな、ここでは。役しかない名前なしが、俺たちだ」
役。
――確かに。帽子屋や公爵夫人っていうのは、役だ。
「他にもチェシャ猫や、眠りネズミ、グリフォンとか……とにかく、そういう奴ら。俺たちには、名前がないんだ」
名前がない――どうして?
役があるのに名前がないなんて、変な話だと思う。逆ならまだ納得できるものの。
私は疑問に思ったことを素直に、そのまま尋ねる。
「名前がないって……どうして、ですか?」
「失くしたんだ」
帽子屋さんは、さらりとそう告げる。
――そのせいで思わず、私もさらりと流してしまうところだった。
失くした?
名前を?
「失くした、という表現は正しくないな。――正確にはないんだ、最初っから」
「ない、って……与えられなかったんですか!?」
「あぁ。ありすの世界では、生まれた時に名を与えられると聞いたが――この世界では、そうもいかない」
生まれたら名前を与えられるのは、当たり前のことだと思ってた。――常識が通じない世界だというのは分かっていたのに。
何だか、くらくらするくらい。そんなことがあるなんて。
「俺も、名前がないんだよ――」
帽子屋さんは優しく微笑む。
そうして。
「――だけど……俺は、本当は一度、名前を与えられたんだ」
え? と呟く。
与えられて、る?
それじゃあ何で、と私が聞くと、帽子屋さんはちょっとだけ困った顔をした。
それさえも綺麗なのに、すごく、寂しげ。
「今はもうない。……失くしてしまったんだ、その――アリスだった娘の、言葉を」
アリスだった娘。……さっき言っていた子のことかな。
十中八九、そうだろう。
でもそれを失くしてしまったっていうのは、どういうことなんだろう?
「アリスは名前のない住人たちに、名前を与えてくれるんだ。――勿論、アリスが自分で選んで与えなきゃ駄目なんだがな……けれど、気に入った相手になら、何人でも名前を与えられる。そういう決まりなんだ」
ゆったりと昔話をするように、帽子屋さんは語った。
アリスには、そういう意味もあったんだ――。
初めて聞く話に、私は思わず聞き入る。他人事ではないもの。
「その子はな、そんな条件の中で――、俺にだけ、名前を与えてくれた」
帽子屋さんは寂しそうな表情のまま、微かに笑みを浮かべて言う。
それって、特別ってことじゃ……。
いつの話かは分からないけれど、何だか、他人事と思えず嬉しくなる。
――でも、失くしたって、帽子屋さんは言ったわよね……。
「その名前を失くしたって、……あの、一体どういうことなんですか? あ、あの、言いたくなかったら勿論いいですけど……」
「護り切れなかった――だから、失くしてしまったんだよ」
ぐにゃりと歪む帽子屋さんの表情。
それは見ていて痛々しいほど、苦しそうだった。
思い出しているんだ――聞いては、いけないことだったかも。
聞いているこっちさえ、辛くなってしまいそうだ。
「失くしてしまったんだ。……世界で一番大切な、その言葉を」
泣きそうだ。と、感じたのは、私だけだったかもしれない。
だけど、彼の言葉には、きっと嘘はない。
そう感じた。
「もう――本当は、その子のことさえ、よく思い出せないんだ」
無理に微笑んだような、苦しげな微笑。
やっぱり泣きそうだ。帽子屋さんは、今にもその透き通った瞳を、こぼしてしまいそうだった。
失ったのは、言葉だけ?
それなら何故――そんなに、悲しい顔をするの。