第49話 どうか愛しい貴方にご武運を
「ありすっ!」
焦った声で名前を呼ばれて、ショートしていた思考がようやく働き始めた。
喉元には冷たい感触。即ち斧。
目の前には怖い顔。無表情。
私は今、正に絶体絶命の危機に陥っていた。
「殺していいか?」
そう問う男の声は、あまりにも冷徹。
ひやりとした喉元の刃に、私は言葉を失っていた。
口の中が乾いていて、声が出ない。……言ってしまえば、怖い。
確実な恐怖が、喉の奥から込み上げてくる。
――いいわけないでしょっ、このウスラトンカチ!
そんなことを思っても、言葉には出来ない。
口にするなんて、絶対無理だった。……私に、それほどの勇気があればよかったのだろうけれど。
せめてもの望みに掛けて、私はちらりと視線を逃がす。
けれど――頼みのチェシャ猫は遠く、グリフォンは更に遠かった。……どさくさに紛れてあそこまで逃げたなあの野郎。
でも、たとえ近くたって、一歩でも動けば私の喉元の斧が振り切られるだろう。このまま待っていたってきっと……、同じ結果だ。
私が油断して、ジャックを近付けてしまったから。こんな事態を招いてしまった。
――ああ、馬鹿だ、私。結局足手まといじゃない。
「貴様に私怨はない。だが……、これも、陛下のためだ」
斧が、微かに、動く。
殺されるんだと思った。
――そのせいか、恐怖より、悔しさが立って。
声が出た。
「あっ――、あんたっ、馬鹿じゃないのっ!?」
斧がぴたりと止まる。私の声に、驚いたように。
顔を上げれば、目の前の怖い顔が、更に険しくなっていた。
「……何だと?」
「馬鹿じゃないのって言ってるのよ! 結局あんたがアリスに執着してるんじゃない!」
私はわんわんと叫ぶ。怒っているのは何も、私だけではないけれど。
だけど、叫び始めると言葉が止まらない。
いけない――と思いながらも言わずにはいられなかった。
何だろう。腹が立ったというよりは、悔しかったのかもしれない。
このまま、こんな風に、殺されてしまうのが。
今ここで死ねば――私の次の『アリス』がまた、犠牲になる。
それは分かり切っていた。そして私は、そんなことは絶対に嫌だ。
「女王様のためって言うけど、結局あんたが辛いからこんなことになってるんでしょ!」
「……貴様っ」
「女王様を本当に救いたいなら、アリスの奪い合いなんてやめるべきだわ!」
斧が再び喉につきつけられる。
微かに震える斧。怒っている、みたいだった。
当たり前だ――。だけど、私は叫ぶのをやめなかった。
ここで退いたってどうせ殺されるだけだ。怖いけど、それでも私は言うべきなんだ。
「アリスなんてくだらないものに囚われてるのは貴方も同じでしょう、見ているものが私か私じゃないかって違いだけで!」
「――っ!」
がっ、と喉元で衝撃が走った。
斧が一度離れて、また振り上げられる。――今度こそ、殺される。
こんなところで死ぬんだと思った。
お姉ちゃんも誰もいない、知らない世界で。
私は――
「そうそう、そうだよね。全く我が同僚は頭が固い奴ばっかりで困るなあ」
ガキンと、派手な金属音が響き渡った。
――え?
私は驚いて顔を上げる。
目の前には怖い顔――じゃない!
「……あ……」
「大丈夫? ありす」
にこりと優しい微笑が似合う、人懐っこい黒の瞳が私を捉えた。
ふわりと跳ねた亜麻色の髪が目について、私を庇うようにして怖い顔の前に立ち塞がる。
その右手には、斧を弾く長い槍。
彼は、まさか――。
「…………エースさん?」
「え、何その間」
私の驚いた声に、エースさんは困ったように苦笑する。
その向こうの怖い顔も微妙に渋い表情を浮かべた。
「ご、ごめんなさい、最近出番なかったものだから……ごにょごにょ」
「いや、読者さんは久しぶりかもしれないけどさ……君は別段久しぶりというわけじゃあ」
「だって影が薄ごにょごにょ」
「……うん、分かった、もういいよ」
はあ、と嘆息するエースさん。
……ごめんなさい。何かごめんなさい。だって本当に影がごにょごにょ。
「――何の真似だ? エース」
エースさんの向こうで相変わらず怖い顔をしているジャックが、恐ろしく低い声でエースさんに問う。
普通に聞いたらそれだけで竦んでしまいそうな声だけれど、エースさんは慣れているせいなのか、けろっとして答えた。
「何の真似って……戦ってる真似?」
……あ、今ぶちっていった。何かがぶちって。
「――ふざけるなっ!」
がきんと、槍を弾いて斧がエースさんの喉元につきつけられる。
「エースさん!」
「荒れてるねえ、ジャック」
けれど心配する必要もなかったらしく、エースさんは槍の柄を器用に使っていとも簡単に斧の軌道をずらした。
な、何か戦い慣れてる、みたい……。
城の兵だって言うから当たり前かもしれない。けれど、私としては気が気じゃない。もう、心臓がばくばくいってる。
「ありす、この馬鹿は任せてくれていいよ。仲間の不始末は責任を持って片付けなきゃね」
「で、でも……」
「いいから。そこの二人を連れて戻ってて、みんなもうそろそろ戻ってると思うから」
槍を容易く操る横顔からは、余裕が見受けられる。
相変わらず無表情――と思ったジャックの顔には、いつの間にか、怒りと焦りの色が浮かんでいて。
――大丈夫、かな。
私はそんな気がしてきた。エースさんって強かったんだ、意外と……。とか失礼なことを思いながらも。
「……分かりました」
エースさんは強い。……それが超人的な強さじゃなくても。
私と同じただの人でも、彼がそう言うなら、任せようと思う。
……いやぶっちゃけ、私が弱いだけなんだけど……。
足手まといになりたくないから。
だけど――。
「でも、グリフォンだけは、残していって下さい」
「えええええ!? 俺!?」
驚いたように叫ぶグリフォンに、私は笑顔で頷く。奴は横暴ーとか叫んでいたけれど。
エースさんは引き締まった表情で、私を見た。
「……。それはまた、どうして?」
「2対1って、卑怯でしょう」
「……そうだね。卑怯だ」
エースさんが頷くのを見て、私は続ける。
「卑怯な真似までして勝てないほど、二人は弱くありませんよね?」
エースさんは目を見開く。
驚いてるみたいだった。……当たり前か。
でも、私が言いたいのはそれだけじゃない。
「それに、卑怯な真似までして相手を殺すほど……、二人は薄情じゃないでしょう」
ますます、エースさんは驚いた顔をした。
――そう、もしかしたら、というかきっと……、私の考えが甘いのかもしれない。この世界じゃ、おかしいのかもしれない。
だけど、死んで欲しくなかった。誰にも。殺して欲しくなかった。
だから私は笑顔のままで、そんなことを言う。
――エースさんはそんな私の思いに気付いたようで、微かな笑みを浮かべて頷いてくれた。
「そうだな。――同僚だから、情けの一つや二つかけてやらないと」
ちょっぴり悪戯めいた笑みを閃かせ、エースさんはざっと身体を反転させる。
私は、どこかほっとした――彼がこういう人でよかった、って。
いや、俺薄情だからーとか言われて殺しちゃったら、私の責任だ。そんなの、重すぎるもの。
だから、よかった。
「え、いや待ってよありす。自己完結しないで。何で俺? 何で俺なの? 猫がいるんじゃんかあ」
「あんたがいいのよ。……ちょこまか逃げやがって、さっきは私を助ける気なんか微塵もなかったみたいよね」
「ちょっ、あ、ありす。口悪いよおー!?」
私は逃げ出そうとするグリフォンの襟元をむんずとつかんでエースさんに渡す。
「はい、じゃあこのろくでなし、よろしくお願いしますね」
「うん。分かった、任せてよ」
私は笑顔で、エースさんも笑顔で。
ただグリフォンだけがめそめそと情けなく泣いていたけれど。
これで一件落着かって、ちょっとだけ思ってしまった。
けれど、私がいなくなってしまうということを悟ったのか――
「待てっ、アリス! 逃がすか――!」
ぶわっと突風のように、ジャックが狂った目のまま走ってきた。
狂っている。そう思えるほどには、狂気を孕んだ目。
両腕で振り上げた斧がぎらりと光る。歪んだ表情が、怖い顔を更に強調するみたいで。
速い。それはやっぱり風のように、速かった。
「――っ!」
「ありす!」
エースさんの槍は間に合わず、チェシャ猫の声は響くだけ。
その間にもどんどん距離は縮まって――
私は、私の死に顔を想像する。
「もう……、ありすったら人遣い荒いんだから――」
だけど、その時グリフォンが動いた。
「――でもそのくせ無防備なんて、ずるいよねえ?」
――がんっと、またも派手な打音。
グリフォンが斧を素手で受け止めていた。――素手で。
「ぐ、グリフォン……?」
「やるっきゃないよね、もう。ありす側についた俺が馬鹿だったのか、それともそれは賢明な判断だったのか……」
しかも、ぐいっとそれを押し退け。
――地面に、叩きつける。
「最後までありすが生きてなきゃ、俺の負けじゃない? 馬鹿なんて呼ばれたくないし、守ってあげる」
……ありえない、と一瞬思ってしまった。
てっきり私、グリフォンってエースさんやチェシャ猫よりも弱いものだと……
だけど、違った。この人素手で斧を――素手で。
呆然とする。
……もしかして、こいつ。
「ほら、チェシャ猫、早くありすを連れてって? ここは引き受けたから」
「了解」
ぽかんと口を開けたまま固まる私を軽やかに抱き上げて、チェシャ猫は走り出す。
抵抗もない。反論も――できない。
……だって、あいつ……。
「ぐ……、グリフォンって、強かったの……?」
「え、ありす今さら気付いたんだ」
チェシャ猫の当然そうな反応にもただ驚くばかり。
え、嘘とか思ったりする。一番弱いと思ってた。気の弱さでは一番なのに!
悪いけど、信じられない気持ちが心の中で渦巻いてる。
だけど……同時に、安堵もしていた。
死なない、ね?
「グリフォン――」
私はその名前を風に流し、どんどん遠くなっていく二人の背中を見つめる。
前はやけに小さく見えた背中が、何だか、すごく、頼もしく見えた。
――大丈夫。死なないでね――
私は小さく、ご武運をと呟いた。
祈るなんて今さら、どうかしてるけれど――
……何だろう。
何でこんなに、どきどき、するのかな……。
久しぶりに早めの更新です*……いつもこのペースで更新できたらいいのですが。
何だかんだでグリフォンが活躍しちゃうよね!
チェシャ猫の立つ瀬がないよね!
仕方がないのでチェシャさん、次回頑張ります。
それまで、付き合って下さると嬉しいですー*