第42話 絶望と覚悟、猫の残酷なる誘惑
「処刑……!?」
私が立ち上がるとともに、ガタンとテーブルが揺れる。
でも私はそんなことは気にせずに、目の前の人にずいっと迫った。
「そ、それ、本当なの!?」
「はい。陛下は間違いなく、そう仰りました。本当のことでございます」
嘘を吐いている様子はない。それだけに、ショックは大きい。
それは信じたくない事実だから。
「――それでは、確かにお伝え致しましたので」
兵隊の服をきちっと着こなした彼は、無表情でそう言い放ち、無表情のまま礼をする。
そしてそのまま、無駄な動きなど一切せずに歩いていった。私から、遠ざかる方向へと。
憎らしいほど完璧なその歩み。その事実を何とも思っていないような、機械的な口振り。
でも今はそんなものをいちいち怒っている場合ではない。
「うそ……」
私は、掠れた声でそう呟いた。
絶望。――今、その言葉が一番似合うのは、きっと私ね。そんな馬鹿げたことを思いながら。
「あ、ありす? どうしたの……?」
「な、何か……悪い、報せ?」
ディーとダムが、不安そうに私の顔を覗き込んでくる。
でも私は、その問いには答えられなかった。
二人に笑顔で大丈夫だよと、そう言ってあげられる余裕すらなかったの。
「……そっか、違ったんだ……。私を、逃がすため……だったんだ……」
視界が真っ暗になり、私はその場に座り込む。
周りの声も聞こえない。
ただ響くのは、ただ機械的な声。
さっきの言葉。
『――グリフォンの公開処刑日が、2日後に決定致しました――』
絶望とは――きっと、この気持ちを指すための言葉なんだろう。
――あーあー危ないなぁー
――せっかくお城から助け出してあげようと思ってたのにー
――もう〜乱暴なんだから〜♪
――ごめん、手滑ったぁ〜
最低最悪、超アバウトでマゾヒスト。
そんな奴で、……そんな奴だったはずなのに。
大嫌いだったはずなのに、何で――?
「グリ、フォン……」
何で涙が出てくるの。
泣いたって何も変わらないのに、どうにもならないのに。
悲しいの? 悔しいの? 辛いの、それとも何。怖いの?
「――何があった? ありす」
ふいに、帽子屋さんが私の肩に手を置いた。
「帽子屋、さん……」
「何か悲しいことがあったのなら、――もし俺たちに話せることなら、話してほしい」
笑っているとも困っているともつかないような、曖昧な表情で優しく語りかけてくる帽子屋さん。
多分、それは私の気持ちを汲んでのこと。
傷付けないように、――優しくと。
「……帽子、屋、さん……っ」
また涙が溢れてきた。
何て泣き虫なんだろう。私。
止まれといくら願っても、涙は止まない雨のように流れ出す。
「グリフォンが……、グリフォンが……っ!」
私は拙いながらも、全て話した。
――彼に助けてもらったこと、彼が処刑されてしまうこと。
私が何も返せないままに、死んでしまうかもしれないということ。
それから、彼を助けたいということ……。
全部話して――話したら、帽子屋さんは優しく微笑んで、頷いてくれた。
「――助けに行こうか? ありす。このまま待つより――助けに行く方が、いいだろう」
彼の言葉。
いいの? 思わず彼を見上げれば、優しい笑みが背中を押してくれて。
「行くか、行かないか。俺はありすの決定に従うつもりだから」
――私の答えは、勿論YES。
何もしないで怯えているより、自分の無力さに打ちひしがれているより。
そっちの方がいいに決まっている。
たとえ綺麗事と笑われても。
――さあ、もう涙を拭いて。
私はもう逃げたくないから。
「うん、行こう、帽子屋さん!」
今度は――私が助ける番。
☆★☆
かつ、かつと廊下を歩いていく。
覚悟が揺らがないうちに。私は、急いで行かなきゃならないから。
でもそこに――それを邪魔する、細い人影が。
「どこ行くの? ありす」
「あ……チェシャ猫」
紫の瞳を細め、壁に寄り掛かったチェシャ猫は笑う。
薄暗い静かな空間では少し、不気味な綺麗さを湛えていた。
言うべきか、言わざるべきか。少し迷ったけれど、私は彼の目をしっかりと見つめて。
「……グリフォンを、助けに行くの」
飾らず、偽らずにそのまま言った。
すると、紫の瞳が驚きに見開かれる。
「グリフォンを? 助けに――?」
「うん。私のせいで捕まってしまったから……私が、助けに行かなきゃ」
「捕まって、って……」
どういう意味? というように、チェシャ猫は首を傾げて私の目を覗き込んできた。
「……処刑、されちゃうの。明後日になったら……私の、せいで。だから、私が責任を持って助けに行く」
私がそう言い切ると、チェシャ猫はまた笑って。
今度は嘲るような笑い。
さっきのもそうだけれど……何だか、嫌な笑いだ。
「――それ、本気で言ってるの? ありす」
「当たり前でしょ! じゃなきゃ言わないわよ」
「……ぷっ」
堪え切れない笑いが漏れたように――チェシャ猫は、大声を上げて笑い出す。
「あはははっ! 助ける? グリフォンを――? 変なのっ!」
狂ったように。
怒るのも、躊躇われるほどの狂気を含んで。
「チェシャ、猫……?」
「――おかしいよ。そんなの、綺麗事でしかないでしょ? 言ったよね。犠牲がない世界は成り立たないって」
ちくり、と胸に何かが刺さるような気がした。
そう。確かにチェシャ猫は、そんなことを言っていた。
犠牲がない世界なんて――綺麗事でしかないと。
「グリフォンを助ける? それはつまり、女王様に逆らうということ。失敗して、ありすが殺されてもおかしくないんだよ?」
「で、でも私には……」
「責任がある、って? ありすが持てる責任なんて、どれほどのものさ。全ての事柄に、グリフォンの命にすら責任が持てるの?」
射抜くような冷たい視線。
口の端は吊り上がり、君の悪い笑みを湛えている。
嫌なものね。あんなに近く見えたチェシャ猫が――今はこんなに遠く見えるなんて。
正直泣きたい。前の私だったら、今ここで絶対泣いてる。怖くて、悔しくて。
でもね。残念ながら、今の私は違うの。
「いくら強く助けようと誓っても、ありすは無力でしょ。無駄なことはやめておいた方がいいと思うよ? 自分の身のためにもさ、彼の命は諦めなよ」
「――チェシャ猫」
私は強く、彼の名前を呼ぶ。
チェシャ猫は、少し驚いたように私の顔を見た。
「綺麗事かもしれない。無力かもしれない。でも――だからってあなたは、大切な人を見殺しにできるの? 自分のために誰かが死んでも、仕方ないかで済ませられるの」
「――それは……」
「グリフォンは私にとって、とても大切な人よ! あなたに文句なんて言わせないから!」
私はそう言うと、くるりと踵を返す。
駄目ね、私もまだまだ弱い。
涙が溢れそうになるのを堪えて、私はだっと走り出した。
方向なんて、周囲のことなんて気にも止めずに。
「――ふうん……」
知らず知らずのうちに、笑みが零れる。
さっきのような偽りの笑顔じゃなくて、今度は本当の笑みが。
「やるじゃん。ありす」
まさかあの少女がそんなに強いなんて―――彼女には驚かされることばかりだ。
だから好きなんだ。その強さが、俺には眩しくて。
とても、憧れる。恋い焦がれているんだ。
「――ねえ、ありす。ありすが覚悟を決めたなら、俺も最後まで付き合うよ?」
そのために俺はいるんだから、と小さく呟いて。
俺は彼女の、背中を追いかけていった。