第35話 白兎の願い
初めて彼が、“私”を呼んだ。
―――いや、違うの……そうじゃなくて。
そうじゃない、ええと……何が言いたかったんだっけ。
こんがらがって分からない。
彼は今、何て言った?
私の聞き間違いじゃないならば、それはとても信じられないような言葉。
「あの―――呪い、って……」
私しかいないと、そんなことを言われても。
戸惑うばかりの私には、どうしようもない。
でも彼の瞳は真剣で。
首を横に振ることは、どうしてもできなかった。
「呪いなんです。それをアリスに告げないのは、ルール。まだ僕は、ルールを破れません」
「まだ、って……」
「まだ、貴女を元の世界に帰すことはできないからです。……ごめんなさい、“味方”が全員揃った時、また会いましょう」
「そ、そんな……全員なんて……、あ、あの! わ、私はどうすればいいの……!?」
ぱっと立ち上がるハク君を見て、私は慌てて上半身を起こした。
背中がズキリと痛んだけれど、そんなことを気にしている場合じゃない。
「――ただ、生きて下さい。これは、お願いです」
淡く揺れる赤い瞳が、とても悲しげに映った。
生きるのなんて、――それは私の望むこと。
でも、この国では難しいことかもしれない。
「では、また必ず会いましょう――“アリス”」
それは私を呼んだのか、違う“誰か”を呼んだのか分からないけれど。
ハク君は、引き止める間もなく、私に疑問と混乱ばかりを与えて木々の奥へと消えてしまった。
「……私、これからどうしよう……」
ため息混じりに漏れた呟き。
ただ、味方に会えることを祈るばかり。
また捕まったりするなんて―――絶対に、ごめん。
動かすと痛む身体を無理やり起こして、森の中を歩き出した。
☆★☆
「―――何の、真似だ? グリフォン」
主人“だった”人の厳しい声が、俺を責めるように響いた。
――こんなところまで追いかけてくるとは、執着してたのは案外ご主人の方かもねえ。
悠長にそんなことを考えて、俺はくすりと笑う。
「真似も何も……。俺は、アリスを逃がしただけだよー? それに何か文句でも」
「あるに決まっているだろう!? お前、誰に飼ってもらってると思っている?」
脅すようなその声も、怖くなんてない。……聞き過ぎたせいかな。
まあ、いいや。
彼がそれで俺を従わせられると思うなら、思う存分笑ってやろう。
「飼ってもらうのは、飽きたかなぁ。そろそろ、自由ってものが知りたいと思って」
怒りに青くなっていく彼の顔。
本当に短気なんだから、やってらんないよねぇ。
俺をそこまで束縛したいか、なんて、聞いたらまた怒るんだろうけど。
「……ふざけるなよ。お前、死にたいか?」
「キミに殺してもらわなくても、どうせアリスを庇った罪で死刑だよ? 味方でもないのに彼女の手助けをするなんてねぇ、我ながら馬鹿みたい」
自嘲気味に笑ってみせる。
あーあ、退屈だ。ねえ、こんなひとと話していても楽しくないよ。
俺、何でこんなひとのところに留まり続けてたんだろう?
不思議に思うくらいにね。
「……それなら、何故アリスを逃がした?」
「何でって……、そうだね、強いて言うなら……」
その理由は、俺には似合わない綺麗事だけど。もしかしたら、あの少女には似合うのかな。
「――賭けてみたかったんだ。新しい世界を見せてくれる、強い少女に」
この馬鹿が、とご主人は俺のことを罵った。
でも、俺は自分のやったことが間違いだとは思っていない。
ただ、それが正しいと証明される頃には―――、俺はこの世にいないのかな。
「―――せいぜい、苦しんで死ねばいい。お前など、この国のクズだ」
彼は、そう吐き捨てて去っていく。
その背中を見て、俺は嘲笑った。クズでもいいや、とはさすがに言わなかったけれど。
ねえ、俺はこの国のはみ出し者なら大歓迎だよ?
呪いという鎖でつながれたこの国からはみ出して、他のものも見てみたい。
「ねえ……、愚かなのはお互い様だよね」
夢を見ているだけということに気付いていても、醒めたくないと悪夢に縋りつく俺達は。
馬鹿か阿呆かと罵って、輝くガラクタのその価値を見ていないんだから。
アリスなんて、どこまで価値のあるものなんだろうか。
それより、“彼女個人”のその意味が――俺は、愛しい。
「……頑張れ、アリス」
――どうでもいいけど、さ。
あの少女の“本当の名前”――、知りたかったな。