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「嘘」

 さあ、本物の嘘つきはだれだ





【問:この世界は何でしょう?】





「――さて。ようこそ、穴を真っ逆さまに墜ちていく途中のお嬢さん」


 瞼を持ち上げれば、私は元の世界ではなく《その中》にいて。

 《その中》では、私のことをずっと待っていたらしい彼が、そんなことを口にした。見覚えのある『にやにや』笑いをぶら下げたまま。


「まずは君が無事に真意(こたえ)に辿り着けたことを祝おうか。おめでとう、最初で最後の本物のアリス」

「……あり、がとう」

「どういたしまして。《夢見の国》ではもうじゅうぶん楽しんだのかな? なにやら満足そうな顔だけれども」


 だれ。――なんて、聞くまでもない。

 黒い頭にくっついた三角形のモノと、楽しそうに細められたその金色の瞳が、彼が何者なのかを雄弁に語っている。


 黄金色の、ひとみ。


 私は高鳴る心臓を落ち着けようとゆっくり呼吸をしながら、口を開いた。……平常心、平常心。


「……それは……どういう意味、なの?」

「ここまで来たら、君だってわかっているだろう。ここが、君が望んだゴール地点だ」


 《その中》は、暗くもなく明るくもなく、せまくもなく広くもない――とても形容しがたいような、そんなところだった。

 ゴール。……口の中で呟いて、私はそのつり目がちな双眸を見つめる。ゴール、ね? 帰る前にそんなイベントが用意されてたなんて、誰も教えてくれなかったけど。


「君はゲームをクリアしたんだ。クリアしたらエンディング、当然のことだろう? これはいわばエンディングさ」

「……こんな胡散臭いエンディングなんて聞いたことないけど」


 どう見たって、ここがエンディングに相応しい場所には見えない。そう指摘すると、彼は軽く肩を竦めた。


「手厳しいなあ。そうだね、ハッピーエンドだったならもっと明るくてもいいのかもしれないけどね」


 ハッピーエンドだったなら? ――なら、これは彼に言わせれば『何』エンドなわけ?

 驚いて目を見開けば、彼は面白そうにくすくすと笑った。


「いや、バッドエンドではないよ、少なくともね。それは今までの彼女たちのことだ――まあ、今までの彼女たちは『主人公』ではなかったのだから仕方がない」

「……どういうことよ?」

「君もうすうすは気付いているだろう」


 はぐらかすみたいに曖昧な言葉を重ねる、彼。

 ……うすうすは気付いているだろう。

 そう言われて、思い当たることがなかったわけではない。でも……口に出すことができなくて、私はそっと目を伏せた。


 彼が何を言わんとしているのか。

 それは――

 それは。


 私が素直に元の世界に帰りつくのではなく、《こんなところ》に辿り着いてしまった理由。



【問:誰が嘘をついたのでしょう?】



「ある意味、ここもエンディング前の分岐点かもしれないね。君の答えによってエンディングが変化する」

「…………」

「ああ、それからもし君が答えること自体を拒むなら、君はこのまま――なんて言うんだっけ? そうそう、ノーマルエンドへと移行するさ。君がそうしたいならそうすればいい」


 私がただ黙って聞いていると、ただね、と彼は言った。


「ただ、君はここに辿り着いた以上、違う選択をするつもりなんだろう? 君は深層心理でそれを望んだんだ。だからここに辿り着いた」


 ――だから、君は答えなければならない。

 そんなようなことを、彼は言外に告げた。……答え。

 彼は言う。私が持っているそれこそが、今道を切り開く『答え』なのだと。

 でも、私が抱いているこの小さな『違和感』が、本当に『答え』と呼ばれるものなんだろうか? ここが分岐点だ、と彼は言ったけど……もし、答えを間違ったら?


「安心するといい。答えを間違ったところで、君になにか起こるわけではないから」

「……そうなの?」

「言っただろう。ゲーム自体はクリアしてるんだ。僕は君を殺したりしないさ」


 ……じゃあ、答えを間違ったら、どうなるの?

 どうもならない、ってことはあるまい。たとえ些細な違いにしろ。


「なに、エンディングが変わるだけだ」


 彼はそう言って微笑んだ。


「君が答えを間違えば、分岐はハッピーエンドに移行する」

「え……え? え、待って、答えを間違ったらハッピーエンド……なの?」


 合ってたら、じゃなくて? と聞くと、彼は鷹揚に頷いた。


「そうさ。だから、君が幸せな結末を望むのなら、でたらめな答えを言えばいい。だれも笑いやしないからね」


 どういうことなんだ……答えを間違ったらハッピーエンド?

 意味がわからない。大体、それなら答えが合ってたらどうなるの?


「ただし、エンディングはあくまでゲーム上での話だ。ゲームが綺麗に終わろうと、その先にどうなるかはわからないだろう?」

「え……」

「たしかにハッピーエンドは幸せだ。今までのアリスとは違い、君は《夢見の国》を救った救世主として後々まで語り継がれるだろうね。みんなも君に感謝する、そして君も元の世界に帰ることができる――が」


 が?

 ごくりと唾を呑み込む。……逆接(しかし)


「その小さな違和感を抱えたまま元の世界で生きることは、君にとって幸せかい?」


 小さな違和感。――彼がそう口にした瞬間、まるで悪戯でもバレたかのように私の心臓はどくりと脈打った。

 ……このひとは、なにもかもわかって言っているのか。私が抱えている違和感も、私が元の世界ではなくここに辿り着いた理由も――私が、なぜ迷っているのかも。

 わかっていて、そんなことを言うのか。



【問:彼もしくは彼女は、何のために嘘をついたのでしょう?】



「ありす、真実を知りたくはないかい?」


 そっと差し伸べられた手は、魔性だ。


「いや、君はもしかしたら既に真実を知っているかもしれないから――正確に言えば、塗り固められた嘘を暴きたくはないか、だね」


 私は目を閉じる。……目を閉じてなお、その金色の瞳が脳裏から離れない。

 わかってる。わかってはいるんだ、私がどうするべきなのか。……わかってる、けど。


「君が答えを全て口にすることがつらいなら、僕が導いてあげよう。君が真実を望むなら正しい答えを口にして、幸せを望むのならばでたらめを言えばいい」


 声は言った。

 私は小さく息を吐き、瞼を持ち上げる。

 ……望むべきは真実か、幸せか。

 ほんとうは、わかっている。私はどうするべきだったのか。

 私が真意(こたえ)を見つけた瞬間から、ずっと胸のうちで燻っていたひとつの『違和感』。

 私はどうするべきなのか。……わかっていた。だから――。



【問:違和感の正体は何でしょう?】



「――まず、ひとつ」


 彼が長い人差し指を立てた。


「君は白兎から聞いたはずだね。ゲームは何年間隔で行われていた、と言った?」

「……5年、よね」

「その通り。じゃあもうひとつ。最初のアリスは今から何年前に来たんだっけ?」

「500年前。500年前にシロンと出会って、穴に落ちたの」

「これもご名答」


 金色の目を愉快そうに細める彼、……ふしぎと不快にはならない。

 ただ、心臓がどくどくと早鐘を鳴らしている。

 この先の質問は……わかりきっている。だけど、聞かなきゃいけない。私は。


「それじゃあ、もうひとつ。君は、何代目のアリス?」


 ――そんなの。


「100代目、よ」


 彼はますます目を細くした。


「あたり」


 ――彼は、なにが言いたいのか。

 ここまでして、私になにを導かせたいのか。

 ……ゆっくりと息を吸う。動悸はちっともおさまらない。



【問:違和感の理由は何でしょう?】



「……逆に、聞くわ」


 彼は私と目を合わせた。

 だから私は、続きの言葉を口にする。


「《夢見()の国》の人たちって、そろいもそろって幼女趣味(ロリコン)なわけ?」


 ――かすかな静寂が下りる。

 私のいたって真面目な、しかしふざけた言葉に、彼はそれでも唇に笑みを乗せた。


「いいや。――そりゃあ中にはそういう輩もいただろうがね。嗜好はそれぞれだろう」


 楽しそうな、口調。……弾むみたいな声音で彼は続ける。


「君が聞きたいのは、つまり、こういうことだろう? アリスの平均年齢は何歳だったのか――と」


 頷く。彼にはきっと、なにもかもお見通しなんだろう。隠す気も起きない。


「年はもちろんそれぞれだったけどね。大体15くらい、かな」

「……それが、平均?」

「ああ。……君の望む答えは手に入ったかい?」


 その問いにも私は頷いた。

 ……私の違和感は正しかった。そして多分、理論も。

 だからね。



【問:答えは何でしょう?】



「それじゃあありす、ファイナルアンサーを聞こうか。――君が感じた違和感の正体は、なんだい?」


 5年間隔で行われる《アリス奪い合いゲーム》。

 500年間も続いていた呪いと約束。

 呪いを終わらせた(アリス)は、100番目の生まれ変わり。

 そして――アリスの平均年齢は、15歳。


 ここまで言われればサルだってわかる。


 明らかにおかしいのだ。5年間隔で行われるゲーム、だって? 私は100番目の生まれ変わり?

 ――馬鹿言わないで。私は14歳だ、つまり2代前のアリスがここに来た時には既に生まれていたはずなのだ。

 ありえるわけないでしょ、普通。5年で生まれ変わりなんて、この国に呼ばれる時にはどんなに頑張っても5歳になるかならないかの幼女だ。ロリコン集団とか怖すぎ。


 つまり、答えは、《アリスの生まれ変わり》が、少なくとも私が100番目の生まれ変わりであることが嘘だということ――




 ……では、ない。


「……どうしたんだい、ありす? 答えは?」


 ごめんねと口の中で呟いた。

 残念ながら、私は素直でかわいい最初のアリスじゃないから。



【誤答:夢見の国の住人のうちのだれかがなにかのためにアリスの生まれ変わりと嘘をついた】



 それは正しい答えではない。

 私はたしかに100番目の《アリスの生まれ変わり》なんだ。

 5年間隔っていうのも嘘じゃない。ゲームが始まったのも、今からちょうど500年前。

 矛盾しているけれど、それらはたしかに本当のことだ。……本当のことだと、私は、言える。


 だったらなにが答えか、って?


「ルーシャ」


 私は《その中》ではじめて、彼の名を呼んだ。


「……なんだい?」

「最後の質問をするわ」


 平静を保ちたかったらしい薄っぺらい声で、しかし彼は動揺を隠しきれずに聞き返す。

 でも、ごめんね。私、あなたには騙されない。


「あなたは――なに?」


 彼の黄金色の瞳が、いっぱいに見開かれた。


「なに……だって?」

「私はどうしても、あなたが『彼ら』と同じだとは思えない」


 淡々と突き付けると、彼の顔には隠しきれなかった狼狽の色があふれた。

 ――ほんとうは、違う答えを言わせたかったんだろう。

 何でか、は知らないけど。……事実は事実だ。


「……ありす。……おそらく、その質問に僕は、たしかに答えるべきなんだろう」


 しばらくの沈黙のあと、彼はゆっくりとそう言った。困ったような笑みをたずさえて。


「しかし、僕の問いが先だね。君の答えを聞かなければ、僕はその質問に答えることができない」


 ……そう、ね。たしかにそうだ。

 それを言わせることは、つまり、彼の口から答えを言わせることに等しいから。


「教えてくれないか、穴に墜ちたお嬢さん。――君が出した、その答えを」


 彼は、彼らしくもない笑みを浮かべたまま言った。

 ……私の答え。

 じゃあ私は何を見つけたのか。何を真実だと思うのか?

 生まれ変わりは嘘ではなく、ゲームの制度(システム)が偽りなのでもなく、それは――



「これは、私の夢なんだよね」








 パリン、と世界が割れる音がした。

 砕けた世界の中で、彼はやはり淡く微笑んでいる。


「……知っていたのか」

「そんな気がしてただけ」


 その言葉は、つまり、肯定。

 それが正しい答えだってことだ。

 私はにっこり笑顔を作ると、『答え合わせ』をすべく口を開いた。


「夢なんでしょ? 《夢見の国》も、あそこにいた人たちも、ゲームも、何もかも。私が見ていた――っていうか、今も現在進行形で見てる夢」

「…………」

「だから矛盾が発生した。5歳にしかならないはずのアリスが15歳だったり、一代前のアリスが死んでから生まれなきゃならなかった私がずっと前に生まれてたり」

「……うん。そうだね」

「でも、それは全部夢だから、誰も『おかしい』なんて言わないでそれが当たり前みたいに矛盾を口にしてた」


 違和感の理由は、矛盾。そしてその矛盾に私以外の誰も気が付かないこと。

 違和感の正体は、この世界の正体。……この世界が夢である、という答え。



【正答:『夢見の国』は夢である】



 それが、私のファイナルアンサーだ。


 夢の中ではよくあること。明らかにおかしいことなのに、誰も不思議に思わず受け入れる。夢の中だからこそ許される、『矛盾』。


「私も実際、しばらく変だとも思わなかったけど。……でも、記憶を取り戻してしばらくして、同じ時に《私》が何人も登場することに気付いて混乱したわ」

「…………」

「100代分の記憶、って言われたらさすがにあやふやだけど」


 彼は何も言わずに私の言葉に耳を傾けている。

 ――おかしいよね。明らかにありえるはずのない事象なのに、それをだれもが受け入れているなんて。それが全部『嘘』だって言うなら、彼らは何故《約束されたアリス》でもない私に呪いを解いてなんて縋ったの?

 そもそも彼らには、私にそんな嘘をつく理由がない。

 そこまで聞いて、彼はようやく口を開いた。


「……ひとつ、聞いてもいいかな」

「なに?」

「生まれ変わりが嘘じゃない、って気が付いたのは何でだい?」


 ――本当は、嘘だと答えさせたかったんだろう彼が言う。

 何で嘘じゃないって気付いたか……そりゃあ気になるだろう。


「……あのね。ひとつはさっき言った通り、私が約束されてた生まれ変わりじゃないなら、ハク君が私に呪いを解いてって頼んだ理由がわからないから」


 約束されていた100番目のアリス。それが私じゃないなら、私に期待する理由もない。……たしかにハク君は私に運命を感じたのかもしれないけれど、私の他に本物の呪いを解くアリスが存在するはずなんだから。


「それに、それが嘘なら私が黒髪の意味もないでしょ?」


 私がもし違うなら、呼ばれたのは金髪碧眼の少女だっただろう。

 そう言うと、彼は軽く肩を竦めた。


「……全く、敵わないなあ」


 小さく閃いた笑み。降参、とでも言いたげだ。


「理由はそれだけかい?」

「ううん。あなたの言葉も、そう」

「僕の?」


 彼は驚いたように目を丸くするけれど……実際、彼の言葉がある意味決定的だったのよね。

 彼の言葉がなければ断定はできなかったかもしれない。それほど微妙だった。


「ルーシャ、言ったでしょ? 彼女たちは主人公じゃないから――って」


 彼はますます目を丸める。

 彼女たち――今までのアリスは主人公じゃなかったからバッドエンドなんだ、って。

 ……そこまで言えばさすが彼のことだ、私が何を言いたいのか察したらしい。

 その顔にありありと表れていた驚きを引っ込めて、代わりに苦い微笑を浮かべた。


「……じゃあ?」

「じゃあ、主人公は誰なのか、って話」


 今までのアリスは違った。違ったから、悲しい結末が待っていた。

 それなら主人公は、違う結末を辿るはずの主人公は――


「私、しかいないよね」


 自分で言うのもなんだけど。


「……そうだね。そうだ。たしかに君の言う通りだ」


 はにかむように笑む彼は、自分の失敗を認めたようだった。

 『主人公』。

 それを私として全体を見据えなければ、言える科白ではなかった。


「私が呪いを解く100番目のアリスじゃないなら、私が主人公になりえるわけがない。それに……夢の中で自分が主人公なのは、当然よね」


 夢は、そりゃあ悪い夢もあるだろうけど――基本的にはその人の深層心理が反映されるものだから。

 夢を見る私が主人公なのは、ある意味当たり前のことだ。


「……そう。正解だ、ありす。これは君の夢だよ」


 彼は厳かに言った。

 正解――私の答えは、違和感は、理論は正しかったのだ。

 私は微笑んだ。……微笑んだつもりだったけれど、本当に笑えていたかどうかは自信ない。かなり情けない顔になっていたかもしれない。


「……ねえ。何で、わざと答えを間違えさせようとしたの?」

「おや。『最後の質問』はさっき使ったんじゃなかったのかい?」

「……意地悪」


 にやにや笑いを取り戻して意地悪く言う彼に私は唇を尖らせる。そんなの、答えを出す前の話でしょ。大体、その『最後の質問』にも答えてもらってないのに。


「冗談だよ。……言っただろう? 間違った答えを言えばハッピーエンドだ――と」


 それは、聞いた。……それなら。

 それなら、彼は。


「僕は君を、幸せにしてあげたかった」


 ふいに笑みを消し、彼は言う。

 幸せにしてあげたかった。

 ……私を?


「僕は君が間違った答えを言おうと、それを悟らせないつもりだったんだよ。それを真実だと思わせてあげたかった」

「…………」

「それで帰れば、君は本当に幸せだっただろう」


 私が間違った答えを言って、でも彼はそれを真実のように扱って。

 私がそれを真実だと思い込んで帰れば――幸せだった、と言いたいのか。


「それが最善だと僕は思ったんだ。……だって君は今、幸せかい?」


 その問いに、私は少し逡巡してから首を振った。

 横に。

 幸せじゃ――ない。


「……夢、だったから」


 私の唇からこぼれた声。それは、少し、震えていた。自分の声じゃないみたいだった。


「夢だったの。覚めてしまう夢なの。……もうすぐ私は、この夢から覚めてしまう」


 ――幸せなんかじゃなかった。

 当たり前だ、私が選んだのはハッピーエンドじゃない。

 それが、私の選択なんだから。


「みんなは覚めてしまう夢だった。大好きな人、も、みんな……私が見てた都合のいい夢だった」


 私が愛したこの国は、ただの、夢。

 口にすると同時に、瞬いた目からもぽろりと何かがこぼれた。――熱い。大粒のそれが頬をすべり落ちていく。

 私が選んだはずなのに。私がそのことを、受け入れたはずなのに。


「私、は……っ、もう、みんなに会えない――」


 だけど、とても耐えられなかった。――私は受け入れたふりをしていただけだったの。

 一夜限りの夢。

 私は今まさにそれを見ているに過ぎない。

 みんなの声も、笑顔も幻だ。

 もう二度と見ることもないんだ。

 全部ぜんぶ、私が見ていた都合のいい夢。


 ハク君に連れられてこの国にやってきたことも、おかしなゲームに巻き込まれたことも、大好きな人ができたことも、ケンカしたことも、力を合わせたことも、約束したことも、女王様を倒して呪いを解いたことも、涙ながらにお別れしたことも――


 全部全部ぜんぶぜんぶ、私の夢なんだ。


「夢、は覚めたら、どうせ、ぜんぶ消えちゃうじゃないの……っ!」


 喉からひねり出した声は、自分の声だとは思えないくらいに悲痛な色に聞こえた。

 ――消えちゃう。忘れちゃうよ。あんなに楽しくて、あんなに大好きだって思ったのに。

 覚えていられないよ。いつしかそれは日々の中に埋没して、世間で言われるような、ただの『夢』に成り下がってしまう――


 私はきっとそれを忘れてしまう。いつかの夜、チェシャ猫がそう予言したように。


「……残念ながら、ありす」


 ――それでも、そう呟いた彼は、私とは逆に凪いだ海のような穏やかな声音をしていた。


「本当なら、ここは抱きしめてあげる場面なのかもしれないけどね。――僕は、君の大切な人ではないからそれはできない」


 きっぱりと言い切られる。

 冷たい人だ、と言いたかった。

 血も涙もない、と罵りたかった。

 ……だけどそんなわけがない。冷たい? そんなの嘘だ。

 彼の言葉は、限りなく、やさしい。


「たしかにこれは君の夢だ。……でもね」


 彼は私を抱きしめたりしなくても、その言葉が私の心に添ってくれている。


「忘れないで、ありす。それでも、この夢を見ていたのは決して君だけではなかった」


 たとえ、これが君の夢でも。

 その夢の中で、みんな夢を見ていたんだよ――と、彼は言う。

 ……私だけじゃなくて。

 みんな、みんなが夢を見ていたんだよ、って。


 あの人も、一緒に。


「……それに。君が見ている夢が、誰のための夢なのか、忘れないで」

「…………」


 私が見ている夢。見ていた夢。……誰のため、なんて。

 いつの間にか、涙は静かに止まっていた。――気分は、声を上げて泣いてしまいたいくらいだったけど。

 私は彼を見上げる。お月様みたいな、金色の瞳。


「……ねえ、ルーシャ。まだ、質問に答えてもらってない」

「うん?」

「あなたは――なんなの?」


 最後の質問を、私は再度投げ掛ける。

 彼は一体『何』なのか。

 問えば彼は、困ったように眉尻を下げた。


「……つまり、ありす。君は何が言いたいんだい?」

「他の人は、私の夢。私が作り出した夢の中の住人。……でも、あなたは、違う」


 彼だけは違うはずだ。

 じゃなければ、こんなことになるはずがない。

 私が自分の夢の中で「これは夢なんだ」と悟るわけがないだろう。たしかに明晰夢というのはあるけれど、私は“楽しい”夢を見たかったはずなんだから。

 気付かないはずだった。――これが夢だと告げる、彼さえいなければ。


「そうだねえ。逆に聞くけど、どんな答えだったら君は満足するんだい?」

「え……?」

「嘘だよ。君はきっと、僕も君の夢の一部さなんて言っても信じないだろう?」


 問いの形で投げ掛けられ、私はおずおずと頷く。……そりゃあ信じないけど。

 すると彼は満足そうに笑みを深め、そっと耳に顔を寄せてきた。


「それなら答えはひとつしかない。――僕は、《願い》を叶えるチェシャ猫さ」


 私は彼の表情を知ることができないまま、目を見開いた。

 ――《願い》を叶えるチェシャ猫。

 それは、……500年前の私が呼んだ《彼》。


「ここは、君の夢の中だから」


 私のことなどおかまいなく、彼は続ける。悪戯っぽく。


「君の《願い》を叶える存在が必要だろう?」


 ――それは。

 彼は、この夢の中で、彼だけは――


 彼こそが。


「……ねえ。ルーシャ」

「なんだい? ありす」

「嘘つきは、だれ?」


 私の急な質問にも、彼は変な顔をしなかった。

 ただ、笑って、彼は言う。


「言っただろう。嘘をつくのは彼らだと」


 ――そうだね。あなたはあの時、たしかにそう言った。

 あなたは……あなただけはいつも、私に正直でいてくれたから。

 目を閉じる。


「嘘つきは、私」


 そしてようやくその言葉を口にした。

 ――嘘つきは私だ。彼らが嘘をついたということは、つまり、そういうこと。

 私はずっと嘘をつき続けていたんだ。私自身に、対して。


 わかっていたはずなのに。

 ここを夢じゃないと否定してみたり、彼らに嘘をつかせたり。

 だれが本当の嘘つきか、だれよりも、私がわかっていたはずなのに。


「……ありがとう。ルーシャ」

「…………」

「あなたがいてくれたおかげだよ」


 それでも、彼だけはいつも私に誠実でいてくれたから。

 たくさんの嘘に塗り固められた中で、彼だけが、真実。

 ……彼だけは、夢じゃなかったから。


「……気は済んだかい?」


 やさしい声音に、私は頷く。

 もう――いいよ。

 終わらせよう。これはただの、夢だから。


「それじゃあありす、もう行くといい。君はもう目覚める時間だ」

「……うん」

「現実世界で、君のお姉さんが君を起こしているよ」


 言われて私は、少しだけ笑った。……変な起こされ方されてないといいなあ。

 それでも、目を覚まさなきゃ。夢をみたなら。心地好い微睡みのあとには、目を覚まして、私は――


「さよなら。《願い》を叶えてくれる猫さん」

「ああ、さよなら。ありす」


 私の生きる世界は、ここじゃない。

 愛した世界。それでも――ここでは生きられないんだろう。

 だけどね。だけどもし彼が言う通り、私が幸せだった通りに、この夢が私のためにあったというなら――




(いつかまた、あなたたちに巡り会いたい……)




 そう願わずにいられないくらいには、私は幸せな夢を見ていました。










 夢の終わりに向かって歩き出す少女を見送り、青年はかすかに微笑んだ。


「……ありがとう、ありす。じょうずに騙されていてくれて」


 彼はぽつりと呟いて、その美しい紫色の瞳を細めた――



次回、エピローグです。

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