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第100話 ゆめみるアリスの冒険

※感動のかの字もないです。

感動とか求めていらっしゃる方は感動できる曲を聴きながら読んでください。感動できます。曲に。


そんな感じの最終話、です。終わってないけど。

100話を抜いたらあと2話分、やっぱり感動はないですけどどうぞ最後までお付き合いくださいませ。

 パンッ――……


 小さな音を立てて、今まで保っていたなにかが割れた。

 張り裂けていく私。バラバラになっていく心と身体。

 私からきらきらと七色に輝く鱗のようなものが剥がれて、それらは目を見張るようなきらめきを放ったまま、空に昇って消えていく――



 ……気が付けば。

 私は、元の場所に立っていた。

 心臓にアリスの刃を受けたそのままの位置で私は立ち尽くしていたらしかった。


 部屋の中は打って変わって静かだ。

 あんなに吹きすさんでいた風もやみ、音もなく、ただ――


 ただ今は、彼女の泣き声だけが響いている。


「あ、あぁああ……」


 その少女は、私の目の前で泣いていた。

 顔を手で覆い、肩を震わせて。

 ……爛れて崩れたはずだった顔の跡はどこへやら、その姿は500年前の私と全く一緒だった。


「シロン……ごめん、ごめんなさい……」


 ――いや、あるいは、彼女がほんとうに500年前に生きたアリスだったのかもしれない。

 私よりもずっとずっと強い思いを持って、シロンを待って、ここに留まり続けていたんだ。

 しくしくと泣き続ける彼女に声をかける人は誰もいない。……誰も、口を開けないようだった。


 彼女は、私を通して――シロンの記憶に触れたのだ。

 そして、ようやく思い出してくれた。……あの頃の、自分(わたし)を。


「アリス……」

「わた、し、忘れてたの……」


 ぽろぽろとこぼれる涙が手で覆い切れずに床に落ちる。


「私、シロンを待ってたの……こんなことをしたかったん、じゃ、ないの……」


 ――愛されたかったんじゃないわ。愛したかったの、と彼女は言う。

 女王様の《願い》のせいでこぼれ落ち、歪められた彼女は――


 それでも変わらず、シロンを思って強く願い続けていた。


「ごめん……ごめんね、シロン……私……なにも、分かってなかったわ……」

「……アリス。泣かないで」


 私はそっと彼女に近付き、その手の上にそっと手を添える。


「あ……」

「大丈夫。……今からでも間に合うよ、シロンは、待っててくれてるから」


 その言葉の意味を、彼女は正しく理解してくれただろうか。

 ――大丈夫だろう。彼女は私、だから。

 ようやく少し顔を上げた彼女に微笑めば、少女は幼い顔を涙でぐしゃぐしゃにしたまま、笑顔を作る。


「ほん、とう……?」

「うん」

「シロンは、まだ、私のこと……待ってて、くれてるの……?」

「――うん」


 ずっと、あなたのことを待ってたよ。

 あんなに白い世界で、ひとりで、ずっとあなたを待ってた。……今も、待ってる。

 そう言えば、彼女はようやく、花が綻ぶように微笑む。


「ありがとう、ありす……」


 ううん、ごめんね。私のせいで。つらい思いを、させたよね。

 謝る私に彼女は首を横に振り、私を見上げる。


「ねえ、でもありす、できるなら最後にひとつだけ……お願い、聞いてもらっても、いい?」


 そう言って私に触れた彼女は、既に――


 触れたところから、私に同化し始めていた。


「アリスっ……!」


 女王様の悲鳴じみた声がどこかから聞こえる。

 でも、私の中に還りかけている少女はただ口の形で「ごめんね」と伝えるだけで、それ以上は言わない。

 いいよ、と私は頷く。私にできることなら、あなたの願いを叶えてあげる。


「私、帰りたいの」


 彼女の触れた腕が私の中に溶け込んで、彼女は潜るようにして私を見上げたまま、そう言った。


「ずっと、帰りたかったの……(あなた)の中に」


 私は抵抗しない。胸に触れる温かな光を感じながら、彼女にただ微笑を返す。


「帰り、たかったの……帰りたいの……あの人が大好きだった、あの頃に――」


 くしゃり、と歪んだ青い瞳からまた涙があふれ出す。

 それはとてもきれいで、透明な涙だった。


「あの人と出会ってっ……、一緒にいて、幸せだったあの頃に! お願い……、ありす、帰らせて!」

「――うん」


 大丈夫だよ。私は言って、その身体を抱きしめる。

 黄金色の光になって、私の中に還っていく少女(わたし)


「いいよ。……帰っておいで? 受け止めてあげるから」


 ――大丈夫だよ、今度はもう、違えないから。

 そっとささやけば、腕の中で、半分私の中に還りかけた少女が泣き濡れた頬でにっこりと微笑んだ。


「ありがとう」


 と。

 途端、彼女の身体は黄金色の光へと姿を変えて――


 私の中に、帰っていく。


「……お帰り。アリス」


 ようやく、一つになれたね。




「――アリスっ! アリスうううぅぅううああぁぁあああっ!!」


 後ろの方で派手な破壊音が響く。驚いて振り返れば、女王様がその手に握った鎌を無茶苦茶に振り回し、壁という壁を粉砕しているところだった。


「何故消えたっ! ――何故いなくなった! 私とともに生きるとっ、そう、約束したではないか!」


 500年もの間かかって造り上げた《理想のアリス》に裏切られ、彼女を失い……

 彼女の存在によってせき止められていた気持ちが、全てあふれ出てきたのだろう。

 その燃えるような両目から滝のように涙を流しながらも、鎌を振るうその拳には怨嗟の念が絶えない。

 ……最後に残ったのは結局彼女、か。

 ため息を呑み込んで私は彼女の方へ歩き出す、と。


「ちょっと待ってありす、危ないってば」

「――チェシャ猫」


 腕を引っ張られて引き戻された。……う、直視しづらい。そんなことを言ってる場合でもないけど。


「今の女王様に近付いたら何を言う間もなく木端微塵だって。……ほんと、さっきから無茶しっぱなしなんだから、俺の心臓がもたないよ」

「う。ごめん」

「謝るんならまずその危なっかしい行動やめてよね」


 ……シロンとまるで同じことを言われた。実はチェシャ猫ってシロンの生まれ変わりだったりしない? って、論点はそこではなくてですね。チェシャ猫の腕をつかむと、私は努めて冷静に言った。


「でも、女王様を止めなきゃ」

「そりゃそうだけどさ……止めるにしても方法があるでしょ」


 窘めるように言われて、返す言葉もない。

 女王様を止める方法――か。

 ……とはいえ、私にできることと言ったら叫ぶことくらい。それしか思いつかなかった私も残念だが。武力行使は無理だし。

 ……でも、それなら叫ぶしかないよね。私にあるのは言葉だけなんだから。心を決めると、思いっ切り息を吸ってお腹の底に力を込めた。


「女王さまあーっ!」


 女王様の鎌を振り回す手の動きが、少しだけ鈍った。ここぞとばかりに私は続けて声を投げかける。


「女王様、聞いて! 私、あなたと話したいことが――」

「ありす――お前、かっ――私から全部奪ったのはっ!」


 しかし、それは私の話を聞いてくれるという合図ではなかったらしい。

 女王様はぎょろりと目玉が飛び出そうな勢いでこっちに向き直ると、すごい勢いで突進してきた。勿論、その手には鎌をたずさえたまま。


「わっ――」

「だから言わんこっちゃない!」


 振りかぶられる鎌、このままじゃ話を聞いてもらえないどころかぐさっと一撃やられてしまう。

 そんなのは絶対にごめんだが、逃げるのも勘弁だ!

 私をつかまえて逃げようとしたのだろうチェシャ猫の手を振り切って、先手必勝、私は駆け出す。


「ありす!?」


 そして持ち上げられた鎌が私の頭に落ちてくる前に、女王様の細い腰に半ばタックルするようにしてしがみついた。それから私は必死になって叫ぶ。


「聞いて、女王様! 私はただ、あなたと話したいだけなの!」


 ――だから、どうか、私の話を聞いて。

 あなたも救ってあげたいの。狂気に溺れたままは嫌なの。

 私が言う。私の中のアリスが言う。傷つけたくないよ、殺し合うなんて嫌だよ。


「……っ、大好き、だったのに、こんなの嫌だよ……!」


 絶対離れるもんかと必死にしがみついて訴えれば、ふいに、振り下ろされようとしていた鎌がまっすぐ天井に向けて構えられたままぴたりと静止した。

 ……止ま、った? え、女王様……、は。


「……そのような、戯言、信じられるものか」

「……女王様……」

「しかし……何故か、この腕を振り下ろすことができぬ」


 はっと見上げれば、その瞳からは透明な涙がこぼれていた。

 それは、さっきみたいに狂気に溺れた涙とは違う――

 アリスと同じ、透明な涙。彼女の呆然としたような顔の上を、次から次へと伝っていく。


 彼女も辛かったんだ。

 いや、違うな。……彼女が一番、辛かったんだ。


「……女王様。……あのね、私は、女王様が好きじゃなかったわけじゃないよ」


 私は静かに言った。彼女に抱きついた体勢のまま、涙で揺れるその両眼を見つめて。


「むしろ大好きだった。綺麗な人で、やさしくて、いっぱい遊んでくれて……大好きだった、から」


 だから。

 だからこそなの。


「こんなこと……やめよう?」


 普通に暮らしたかった。

 シロンと、女王様と、ルーシャと。

 ……普通に暮らす、それだけでよかったんだ。


「……そんなことを言われてもっ……今さら、既にお前を愛してしまった私はどうすればいい!? この歪んだ愛を、一体どうすればいいと言うんだ!」


 女王様が喚く。だけど、それはどこか困惑したような声音だった。

 どうすればいい――か。

 彼女自身、持て余していたんだろう。……その、行き場のない感情を。

 ごめんね。

 もっと早く、気付いてあげればよかった。


「たしかに女王様は(アリス)のことを愛していたのかもしれない。……人を愛するのは自然なことだから、仕方ないよ」

「だったら――」

「でも、女王様。その愛を私だけに向ける必要はないでしょ?」


 女王様が目を見開いて私を見下ろした。浮かぶ色は驚愕。口を開いたまま固まっている。


「……なん、だと……?」

「私だって、好きなものがたくさんあるよ。シロンもそうだったし、女王様も好きだった、それからルーシャと、帽子屋と、この国も好きだったし。今の私にはもっといっぱい好きなものがある。お菓子とか、かわいいものとか……そんなものでもいいの」


 だから、たくさんのものを好きになったらいい。

 行き場がなくなってしまうほど大きな愛。それを持っている彼女はおそらく、いっぱいのものを愛せると思うんだ。

 そうやって大好きなものが増えていったら、素敵なことだと思わない?


「色んな愛があっていいと思うの。恋愛だけじゃなくて、友愛とか、家族愛とか……お気に入りの色とか。数字とか、形とか何でも、本当に何でもいい。他の人から見たらどうでもいいようなことだっていいから、好きになって」

「そ、んなもの……私に、今さら愛するものなど……!」

「あるよ。――だって、女王様のことが大好きな人だっている」


 それでも否定しようとする女王様に私が言い切ると、突然、この部屋と廊下をつなぐ大きな扉が軋む音を立てて勢いよく開いた。

 ジャストタイミング。思って振り返れば、


「女王陛下っ!」


 そこにいたのは想像通りの人――傷だらけで女王様の名前を叫ぶ、女王様の腹心であるジャックだった。


「な、……ジャック……?」

「遅くなって申し訳ありません……! 私の力が及ばなかったばかりに……!」


 普段は怖い顔をした彼はなにやら必死な形相で女王様の前まで来ると、私たちの存在など目に入っていないように女王様に向かって膝を折った。

 近くで見れば、彼の様子はかなり悲惨だということが分かる。右肩に大きな切り傷が二つと、胸から腹にかけてぱっくりと傷が開いている。痣や小さな切り傷、擦り傷は無数にあって、左目は腫れてまばたきするのさえ辛そうだ。

 だというのに、彼が心配したのは自身ではなく、ただ、女王様のことだけ。


「ジャック……お前、その傷は……」

「私の傷のことなどどうでもいいのです、女王陛下が無事ならば……!」


 おそらくここまで全速力で来たのだろう、息が上がっている。

 それでもそれだけ伝えようと必死な様子は、ただ、彼女の《駒》というだけの存在じゃないことを理解させるに十分だった。


「逃がさないよ、ジャック! ――ってあれ?」


 続いてあの分厚い扉を蹴り破らんばかりの勢いで入ってきたのはエースさんで、しかし彼はこの場の異様な風景を前にすっとぼけた声だけを上げて動きを止める。

 ジャックと戦っていたのはおそらく彼なんだろう。ぱちくりと瞬くと、「え、何この空気」と呟いて周囲を見回す。


「ちょっとエース。君、空気読めないわけ? 黙るとか出ていくとかしたらどうなんだよ」

「あれっジョーカーじゃないか! 随分久しぶりだなあ! 元気だったか?」

「……あのね」


 見かねたらしいジョーカーが小声で彼を黙るように促すが……それも無駄な努力だったらしい。台無し。もうあの人追いかけてくる途中で迷子になっちゃえばよかったのに。本当に空気読め、じゃなければ帰れ。土に。


「わた、し、は……」


 それでも幸い女王様の目には後から入ってきた忠実じゃない部下のことなど入らなかったらしい、まっすぐに虚空を貫いた瞳が答えを探して宙をさまよう。

 ――私は。

 その震える桃色の唇が何かを言いたげに何度も開閉し、それから、


「……私は……ひとり、じゃ、ない……のか……?」


 呟いた。

 落とされた言葉は寂しさと期待をごちゃまぜにして、絨毯の上を転がっていく。


「私はアリスを愛さなくても、いいのか」


 剥がれた先から、《女王》じゃない――ひとりの女性の姿が浮かぶ。

 女王であっても、女王じゃない。……私とおんなじ。

 その口からこぼれた本音が、私の手の平に落ちる。


「……うん」


 その身体を抱きしめたまま、私はゆっくりと頷いた。


「あとね、シロンもあなたのことを心配してたよ」

「な――?」

「女王様は無茶をするから心配だ、って」


 シロンもあなたのこと、大好きだったよ。

 あなたに仕えられたことを誇りに思ってた。

 怒りっぽくて、無茶は言うし、するし、手を焼いたと思うけど……

 それでもあの頃のいきいきした女王様が大好きだって。


「……っ……」


 女王様が耐え切れなくなったようにその瞳を揺らす。

 噛んだ唇の端から漏れ出す嗚咽。

 ――そうだよ、女王様。あなたは、愛されてる。

 だから、あなたも、愛してあげて。


「こんな、私でも、いいのか」

「そんな女王様だから、でしょ?」


 少し周りが見えなくなっちゃう性格だけど、本当は、大らかで。

 あなたを慕っていた人も多いはずだ。……だから。


「もう、終わりにしましょ。こんなの」


 もう呪いはいらないんだ。

 もう、アリスはいらない。

 全部終わらせて、やり直そう。


「……そう、……だな」


 声は未だ揺らぎ、しかしその返事はたしかに肯定。

 女王様はしがみついていた私を丁寧に剥がすと、ゆっくりと赤い絨毯の上を歩み出した。――統治者にふさわしい、堂々とした足取りで。

 その姿には誰も何も言うことができず、ただ、彼女を見守るのみ。


「……ジャック」


 彼女は最初に満身創痍のジャックに歩み寄って、その肩をやさしく抱きしめた。


「陛下……」

「すまなかったな、ジャック。お前のような忠臣に恵まれたというのに、私は何も見ていなかった」


 私とともにいてくれてありがとう。そんなようなことを小さくささやいて、女王様はまた立ち上がる。


「陛下っ! 何をなさるつもりでっ――」

「無理をするな、ジャック。お前は休んでいればいい」


 無理に立ち上がろうとしたジャックをやんわりと押しとどめ、さらに女王様は歩いていく。

 どこまで行くのか。

 私の疑問に答えるかのように、その歩みは……メアリの前で、ついに止まった。


「……メアリ」

「は、はいっ」


 びくんと肩を跳ねさせるメアリに、女王様は少しだけ面白そうに、くすぐったそうに微笑んでから口を開く。


「おそらくお前が、次の王になるのだろう?」

「え、……え、何で……」

「隠さなくてもいい。そんなことだろうとは思っていたのだから」


 これからの自分の運命を知っているかのように、女王様は言う。

 ……そりゃあ、そうよね。自分がどうなるか、なんて。

 彼女自身が一番分かっているに違いない。


 ……分かっている、んだろう。全部。

 それで――いいの? 私に問いかける声がする。


「祝いにやるものなど何もないが……せめて、メアリ。この命は、どうかお前が絶ってくれないか?」

「え……」


 メアリがその青い瞳を大きく見開いて女王様を見た。

 ――気が狂った、わけではなさそうだ。……当然だが。

 メアリの表情が揺らいでも、彼女の微笑はちっとも薄れない。


「お前が女王になるというなら、この首はお前がとるのが一番だろう」

「それはそう、……だけど……」

「なに、手向けだと思え。いらぬかもしれぬがな」


 ――だから、殺してくれ。お前の手で。

 言葉の下にそう語る女王様の笑みを見つめたまま、メアリは動かない。


 殺してくれ。


 なんて正直な言葉だろう。彼女は惜しみさえしないのか。

 私がそうなるように仕向けたとはいえ……あまりに、残酷で。


 それで――本当に、いいの? 再び、私に問いかける声がした。


「……わかりました。女王様、あなたの首はわたしが――」

「ちょっと待って、メアリ」

「……お姉さま?」


 つい、口を挟んでいた。

 いけないことだと分かりながら。

 ――うん、ごめんね。それでいいとは私は決して思えない。

 だから弱く笑って片手を上げると、私は彼女たちに近寄った。


「あの……ごめん。許してくれるなら、もうひとつだけ、最後にわがままを言わせて?」


 視線が一気に私の方に集まるのを感じながら、私は言う。

 ごめん。みんな、本当にごめん。呆れられても、見捨てられても、責められても仕方ない。だけど。


「殺したくないの」


 それでも、その事実から逃げない。

 目を逸らさない。

 私は、はっきりと言い切る。――殺したくない。

 彼女がたとえ、殺されるべき人だったとしても。


「何を……言っている? ありす、お前は今自分が何を言ったか分かっているのか?」

「うん。女王様、私はあなたを殺したくないって言った」


 私は頷く。自分の言ったことには責任を持つ、つもりだ。

 それでも、殺したくない。

 死なないでほしい。

 それは素直な私の気持ちだから――

 どうか、どうか、聞いて。


「馬鹿を言うな、それで民が納得すると思うか? 民は私の死を望む。私を討ち取らずして、メアリは女王にはなれぬだろう。それとも……民の不満ばかりが募る脆弱な国家でも打ち立てたいのか」

「そうじゃないけど」


 だけど。


「私がこの国の呪いからずっと救ってあげたかったのは、女王様、あなたなんだよ」


 私がそう言うと、女王様は口を開いたまま一瞬言葉を失ったようだった。

 ……そんなにおかしいかな。

 あなたが狂っていると知った時、記憶を取り戻した時、その歪みをそれでも愛しいと知った時、私はあなたをどうにか救い出したいと何より強く思ったのに。

 だからここまで来たのに。


「ようやく呪いから解放されたんだから……ねえ、生きようよ」


 それがたとえ、どんな形であっても。

 生きてみようよ。

 つらい世界でも、苦しい世界でも……死んだら何にもならないじゃない。

 私たちはもう、生まれ変わることを約束されてるわけじゃないんだから。


「だから――憎しみの連鎖は全部、ここで断ち切っちゃおう?」


 ここであなたを殺せばまた、あなたを愛する人が悲しみ憎むでしょ。

 憎しみがどこから始まったのか。それはきっと本当は500年よりもずっと前。

 でも、憎しみが自然に途切れることがないのなら、誰かが断ち切らなきゃ。

 シロンが呪いを断ち切ってくれたように、私はその憎しみを断ち切りたい。

 憎悪の種は方々に残っても、生きてるなら、やり直せるんだから。


「――全く。本当に甘いですね、ありすは」

「ハク君」

「ですが、決してできない話ではないでしょう」


 私はぱっと振り返る。

 本当か! 目で訴えれば、話の分かるハク君が頷いた。


「ええ、というかお姉さまが言うなら何としても民を抑え込んでみせるわ」


 そして、メアリが強気な笑顔で彼の隣に進み出た。……メアリ、それはちょっと違う。


「だから、女王様、わたしはあなたを殺さない」

「な……馬鹿な、ことを……」

「あら、馬鹿なことなんかじゃないわ。だってお姉さまが言ったんだもの」


 瞠目する女王様に、メアリは胸を張って言う。……胸を張るところでもないけど……でも、まあ彼女らしいと言えばそうか。


「お姉さまはこの国の全てを変えてしまった人なのよ。ありすお姉さまの言うことならわたし、信じるわ」


 それに、彼女の信頼はちょっぴり照れくさいけど……温かい。

 最初はあんなに嫌われてたというのに、そりゃあ女王様だって驚くわけだ。

 高らかに宣言する少女を見て、女王様は何度も目をしばたかせる。


「それが、……お前たちの選択……、ということか」

「ええ」

「まあ、少々不本意ではありますが」


 それがありすの選択なら、とハク君は言う。

 ――私の選択を尊重してくれてありがとう。わがままを聞いてくれて、ありがとう。

 その胸に燻っているだろう憎しみの火種をギュッと握りつぶしてくれて、本当に本当にありがとうね。

 私が微笑めば、ただ呆然と見下ろしていた女王様も切なげにかすかな笑みを口元に浮かべ、言った。


「……ならば、何も言うまい。もはや私は王ではない――新たに王になる者がそう言うのならば、それに任せよう」

「女王様……」

「だが、ひとつだけ聞かせてくれ。ありす」


 私には背中を向けて、女王様は言う。

 なんだろう。私に聞きたいこと? 黙って続きを促せば、彼女は振り返ることなく言った。


「こんな私でも――お前も、好きでいてくれたのか?」


 その背中はたしかに、私が憧れたひとりの女性の背中だった。


「――はい。大好きでした」



 ――それは、私がアリスだった頃からのお話。





 ☆★☆





「……終わった、のか……?」


 遠くでかすかにざわめく喧騒を聞きながら、そうこぼしたのは帽子屋さんだった。

 さっきまで女王様に仕えていたのが嘘のように事態の収拾を始めたトランプ兵たちによって、女王様は一時的に牢で留置されることになった。彼女が牢の中なんてちょっと不安だったけど……ハク君曰く、王族用の牢だから大丈夫だって。王族ともなれば牢屋も特別なのかと驚いたのはまた別の話。


「……ええ。私が、アリスが全てを始めたから……私がいなくなれば、それで全て終わりです」

「女王様はだいじょーぶかな?」


 さらに質問をかぶせてきたのは、現在進行形で職務怠慢中のジョーカーだった。いや、まあそれを言うならエースさんやジャックも同じなんだけど……それを咎めるトランプ兵はいない。怖いからか。それもそうだな。


「……女王様は大丈夫、だと思うけど……たぶん」

「うわ、不安になる言い方やめてよちょっと」

「大丈夫、だと、……思う。……アリスはもういなくなったし、彼女をとらえる狂気はもうないから」


 大丈夫、だと信じたい。……でもそれは、これからの彼女次第だな。私がどうこうできる問題ではない……殺したくないなんて言っといて無責任だけど。

 でも、彼女はまっすぐな人だから。私は信じたい。


「だから、……彼女のこと。よろしく頼んでいいかな」

「任せて」


 私の言葉に答えて力強く頷いてくれたのはメアリだった。……さすが次期女王様、心強い。

 この分なら、彼女が政治を取り仕切るというのも案外うまくいくかもしれない。

 ありがとうと微笑みを返すと、私は、ぐるりとみんなを見回した。


「……みんな、ここまで付き合ってくれてありがとう。これで、全部終わりだよ。アリスも何も、もうないの。……私もこれで、何の関係もない一般人」

「ありす」


 私の名前を呼んだのは、チェシャ猫だった。

 寂しげに揺らぐ瞳と目が合って、気まずくて目を逸らしかける、けれど。


「……帰るの?」


 ――そうだね。帰らないと。そうしないと、物語はいつまで経っても終わらない。

 ごめんね、チェシャ猫。本当なら私は、ずっと一緒にいてあげなきゃいけないんだろうけど……でも、それはできない。

 そう思ってその揺らぐ瞳を見つめていると、ぴょこりと可愛らしい効果音をともなってミルク君が私の腰に抱きついた。


「ありす、帰っちゃうの!?」

「え? う、うん……うん。……私、帰らないと」


 その頭をなでながら言うと、ミルク君はその耳をしゅんと垂れさせる。……うっ、それは反則だろう! 帰りづらくなるじゃないか!


「ミルク。わがままを言うな、ありすが違う世界から来ていたことは最初からわかっていただろう?」

「だってえ……」

「ありすにだって、元の世界で待っている家族や友だちがいるんだぞ」


 そう言って私の腰からミルク君を引き剥がしたのは帽子屋さんだ。

 ……そうだね。元の世界で待ってる人たちがいる、から。

 私は帽子屋さんの服の裾をつかんで耳を垂れさせたミルク君の頭をなでると、ごめんね、と言った。


「ありすっ!」

「帰らないでっ!」


 続いて抱きついてきたのは、その瞳をめずらしく涙で潤ませた双子だ。

 ……あの、私はいいんだけど……ミルク君ごと抱き込んだもんだから、ミルク君がつぶれそうだな? 勘弁してやって下さい。


「ディー、ダム。……ごめんね。本当はもっと一緒に遊んであげられたらよかったんだけど」

「ありすの馬鹿っ、謝らないでよ!」

「そうだ、謝るくらいなら一緒にいてよ!」


 ごめんね。……ごめん。

 こんなふうにされると帰りたくなくなるんだけど、――それでも。

 二人をぎゅうっと抱きしめる。つぶされかけてたミルク君も、それから少し遠巻きだったヤマネ君も一緒に。


「……大好きっ……大好き、だから……」


 ――馬鹿、私が泣きそうになってどうするの。

 そう叱咤してみても、声が震えるのを止められない。だって本当に、好きだったんだもの。この国が好きだった。みんなが大好きだった。会えて、よかった。


 私、この国に来てよかった、って心から思ってる。


「バイバイ。みんな」


 抱きしめる手をゆるめて、4人から離れる。

 もがくように伸ばされた手をやさしく押し戻して、私は、ハク君に向き直った。


「……行きますか?」

「うん」


 行かなきゃ。

 そんな意味を込めて、頷く。……できる限りの笑顔で。

 もう一度だけ振り向けば、公爵夫人さんはハンカチで目元を押さえ、暴れるメアリは帽子屋さんに逆に押さえられ、エースさんとジョーカーはひらひらと手を振ってくれていた。……お城の兵って何かあっさりしてるよね、淡白なのかしら。

 それから、黄金色の双眸を細めたグリフォンが、淡く微笑む――


「ありす。俺、頑張ってありすみたいに嗜虐的な人探すからねえ!」

「黙れお前は」


 ちょっと戻って殴ってやった。

 何なのこいつ。最後の最後まで、ほんっと台無し。

 ……でも、まあ、だからこそうまくやれたのかな、私たち。うん、大好きだった。私も元の世界でお前みたいなどうしようもない奴を探して更生させてあげようと思います。だからあなたも、お元気で。

 ――まずい、こんなところで涙が出る。絶対感動する場面じゃなかったのに、今の。

 泣くまいとぎゅっと堪えてハク君の方へ向き直る。きっと変な顔だったろうに、ハク君はけっしてそれを茶化すことなく、ただ手を差し出してくれていた。

 うん。そうだ、行こう。

 この光景が愛おしくなって、帰れなくなる前に。……私は、私の世界に、帰ろう。

 そう思ってその手を取ろうとした瞬間、――後ろから、抱きしめられた。


「ありす」

「わっ」


 抱え込まれるような体勢だったせいで思わずたたらを踏む。

 ……ちょっ、危なっ。何をするかと見上げれば、――チェシャ猫が。


「大好き。愛してる、ありす」

「――いっ!?」


 耳にそっと吹き込まれる甘い息。うわーあ今背筋になんか! なんかぞわって!


「はっ、離せ! 離して!? 離して、落ち着いて話し合いで平和的に解決しようチェシャ猫!?」

「……落ち着くのはありすの方だと思うけど。何で嫌がってんのさ」

「おまっ、だって、気色悪いわ!」

「うわっ、ひどっ」


 誰がひどいものか。だって気色悪いじゃないの、あ、そうだ!


「シロンからのお土産!」

「だっ!?」


 私は言って、思い切り肘を入れた。……抱き込まれてるせいで完璧に、とは言えないけれどそれなりにうまく入ったと思う。ストレートって言ったのに約束違えてごめん、シロン。でもやったよ私。


「な、何すんのありす……!」

「シロンからのお土産」

「え、全然意味分かんないし」


 そりゃあ分からないでしょう。私もどうしてそうなったんだったかさっぱり覚えてない。

 しかしチェシャ猫はいたたたなんて呟きながらも私を離さない。……この野郎。離せと言っておろうに。

 しかし、暴れれば逆にチェシャ猫は腕の力を強めて、言う。


「……ねえ、ありす」

「なに」

「ありがとね」

「え?」

「約束、守ってくれて」


 それは――どの約束のことだろう。聞く前に、私をつかまえていた腕がするすると離れる。


「最後にさ、いつだったか聞きそびれた答えを聞いてもいい?」

「……え?」


 そしていつの間にか、私はそのアメジスト色の瞳を見つめる形で彼に対面していた。

 視界に触れる、瞳。鼻。唇。頬。前髪。顎。――どれもすっかり見慣れたはずのパーツ、なのに。


 なんだ。……なんだろう。

 ドキドキ、する。

 心臓が音を立てる。音を立てて落ちていく、そんなイメージで。


 交わらなかった世界が、一瞬だけ交わった。


「俺のことは、好きじゃない? 今でも嫌いだって――そう、思ってる?」


 ――それは、いつかの夜、一度聞いた問い。


『俺のことは、好きじゃない?』


 その時、たしか私は、『嫌いじゃない』とだけ言って済ませたんだけど。

 ……私の、ほんとうの、気持ち。今まで素直に告げられなかった思い。

 最初で、最後の。

 ……そうだね。今なら……今なら、もしかしたら、言えるかもしれない。


「大好きよ。チェシャ猫」


 言って、微笑んだ瞬間、ぐいっと引っ張られた。

 何かと思う間もなく、唇に溶けるような熱い息。

 ……触れたと思った時にはもう、離れていた。


「あ……」

「ありすの馬鹿。俺の方が愛してる」


 あーだこーだと少年たちの喚く声が後ろで聞こえたような気がしないでもなかったが、そんなものは意識のうちにも入らなかった。

 チェシャ猫。

 目の前いっぱいに、夜空色の瞳が笑んでいる。

 それは触れそうなほど近く、熱を帯びて熱い。……なんてきれいなんだろう。


 ――ああ。


 だいすきだ。ほんとうに、このひとが、好き。

 今さら悟るには遅いのかもしれないけど。

 それでもきっと、呪いがなくても……約束がなくても、こんな素敵な人、好きにならずにはいられなかったに違いない。

 この心臓がうるさいのはけっして、500年も前の約束のせいなんかじゃないでしょ?

 どんな『好き』を並べたって、きっと、このひとの前には色褪せてしまう。――かなわない。


 このひとが、好きだ。


「……っこのセクハラ男」

「わっ」


 でも、そんなことを素直に言えるわけもなくて、私は結局チェシャ猫をばしりと叩くだけに終わった。言えるか馬鹿野郎。

 恥ずかしい、のよ! 愛してるとか! 言えるかそんなこと!


「あたた……ありすってば本当暴力的なんだから」

「誰のせいよ、誰の」


 軽口を叩きながらも、距離は離れていく。……そう、お別れだ。

 どんなに思い合っていたとしても、私たちは交わらない。世界という大きな壁が、私たちの間を阻んでいる。

 ……それでも、その選択をしたのは私だから。泣かないよ。もうあなたにも、心配かけたりしないから。

 背中を押され、私は再びハク君の方へ歩き出す。今度こそ、元の世界へと帰るために。


「ありす」


 ――それでも背中に、いつも通りの声がかけられる。まだ何かあるのかと振り返れば。


「元気でね」


 チェシャ猫は、まるで『お幸せに』とでも言いたげに、彼らしいにやにや笑いを浮かべていた。


「チェシャ猫こそ」


 だから私も、軽口を叩くようにそう返す。笑ったまま。


 どうか、この世界で生きるあなたが、あなたと出会えて幸福になった私くらいに幸せでありますように。


「……ハク君。ごめんね、もう行くわ」

「ええ」


 ハク君は今までのやりとりを全て見守ってなお、笑顔で私を待ってくれていた。……あの冷血漢のハク君がやわらかく笑ってる! これは珍百景だ! カメラがあったら激写したのに、何という勿体なさ。

 ……って違う、私。……そんなことを言っている場合か。差し出された手を取れば――それが、最後なのだ。


「行きましょうか」


 それでも私は、ためらわずにその手を取った。

 もう、ためらう必要なんてない。

 お別れは済ませたから。……私は。


 もう、大丈夫。


 ハク君の手を取った後、身体をくるりと回転させてみんなの方を向く。

 笑顔で手を振り見送ってくれる、大切な人たち。もう二度と会えなかったとしても。

 ……大丈夫。私には、思い出がある。みんなと過ごした記憶があるから。

 出逢えたことが奇跡だった。幸せだった。

 こんな素敵な冒険譚に、出会えてよかった。


「さよなら、みんな!」


 腕を伸ばし、精一杯手を振る。

 私は元の世界に帰るけど――絶対、絶対に忘れないから。

 こぼれそうになる涙を我慢して、笑顔をつくる。みんなの姿を忘れないようにと、必死に心に留めて。

 さようなら。ありがとう。……大好きでした、大丈夫。


「ありすーっ! 大好きだよ!」

「僕たち、絶対忘れないから!」


 叫ぶ声が、徐々に遠くなっていく。

 フェードアウトする様はそう、――まるで、穴に墜ちるみたいに。


 最後の黄金色の光が、私の身体を包んだ。










(――これで、めでたしめでたし?)


(いやいや、まださ。まだもう一人残ってる)

まだ終わりません。

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