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第99話 夢の終わり

 目を開けると、そこは見覚えのある白い世界だった。

 見上げても、見下ろしても、見回しても白。そこに色を落とすのは私自身の色と、足元の影くらい。あまりに白いから、私も同化した方がいいのかと思ってしまったほどだ。いや、カメレオンじゃあるまいしそんなことできないけどさ。

 ――っていうのもたしか、この間も考えたよね。


「またこっちに来てしまったんですか、ありす」


 目の前で嘆息する人も先刻と変わりない、長身に似合わない兎の耳をのっけた初代白兎――こと、シロンだ。


「……うーん。来たくてここに来たわけじゃないんだけどね」


 私も一緒にため息をつく。いや、ほんとよ? 誰がこんなところに来たいって。……白すぎて目がちかちかするっちゅーに。大体、ここは、


「ねえ、シロン。ここってあの世?」

「……随分とダイレクトに聞きますねあなたは」


 シロンはまた困ったように息をついた。

 って言われても、あの世って言ってるだけオブラートに包んでると思うんだけど。死後の世界とか言わないだけ。

 そう――でも、彼はあくまで500年も前に死んだ人だ。死んだはずの人だ。一度ならず二度までも死人に会うなんて……その上、私は現実世界では胸を貫かれたはずなんだし、これは死の川を渡りかけていると判断して間違いないだろう。冷静にそう分析していると、目の前の人はあきらめたように肩を竦めた。


「……まあ、たしかにあの世と呼ばれる場所とは近いところがありますね。ここは」

「あ。やっぱり?」

「やっぱり、ではないです。……大体ですねえ」


 シロンは諌めるように口調をきつくする。あ、ちょっと、まずいかも? 思ったけれど時すでに遅し。ひと息吸い込んだシロンは、冷静な口調から一転、思い切り私を怒鳴りつけた。


「――ちったあ自分のことも顧みやがれこの馬鹿野郎がッ! てめえを犠牲にして救ってそれで終いじゃねーんだよ! ちっとは自分のことを心配してくれてる奴らのことも考えて行動しやがれっ!!」

「ひいー!」


 私は思わず耳をふさぐ。浴びせかけられる罵詈雑言。そうだった、シロンってそういう人だった……。

 丁寧な敬語キャラと見せかけて本当は口すっごく悪いんだよ、この人。そして怒った時に、というか少しでも気分を害するとすぐに素が出る。ハク君がアレだからすっかり忘れてた。


「ご、ごめんなさい……」

「全く……あなたは500年前から、全然変わってないんですから」


 しかし素直に謝ったのが功を奏したのか、シロンはそれ以上声を荒げることなくため息をつく。


「おちおち成仏もしていられません。……頼みますから、これ以上心配させないでください」

「……ごめんなさい」


 こぼれる吐息。今度は心からの謝罪だった。いや、さっきのに心がこもってなかったわけじゃないけどね?

 ――これ以上心配させないでください、なんて。

 心配、かけてしまったよね。そりゃあこんな危なっかしけりゃ当たり前だ。成仏できないなんて冗談にならないし笑えない。……でもね、シロン。


「でも――どうしても、許せなかった、から」

「…………」

「シロンは約束を守り続けてくれたのに、あの子はそれに気付いてないんだもの」


 あの子。それは、女王様が造り出した――それでもアリスだった女の子のこと。

 もっとも、あれは自分自身だ。私自身から派生したものだ。でも、だからこそ……許せなかったんだ。

 シロンは待っていてくれているのに。どんなに時が経っても愛してくれているのに。

 《アリス》という称号にだけ縋っていて、その中身を見ていない。大切なのは《アリス》であることじゃなくて、最初にその名前を持っていた少女がこの国を、シロンを愛したという事実なのに。


「……僕は、いいんですよ。ありす」


 気が付けば、シロンはとてもやさしい瞳で私を見ていた。

 とても、とてもやさしい瞳。……とても、やさしい人だから。


「言ったでしょう。僕はあなたが幸せならそれで幸せです、と」

「……でも」

「でももへちまもありません。そもそも、僕のことを本当に思ってくれるなら、まずあんなに心臓に悪いことはやめてください」

「う……」


 それは、……そうなんだけど。私は思わず目を逸らす。

 そりゃあ私が死んだら元も子もない。それこそ交わしてきた約束を全部破ることになってしまう。

 もちろん、死ぬつもりなんてさらさらなかったわよ? 生きて帰るっていうのが帽子屋さんとの約束なんだから。この状況下でそんなことを言ったって何の信憑性もないだろうけど。


「ありす。あなたは、こんなところで死んでいい人ではありません」


 シロンが私に目線を合わせ、私の目を見つめて言う。


「あなたはたしかにアリスの生まれ変わりだ。しかし、その前にあなたは今を生きる一人の人間であって、本当なら500年も前のことにとらわれる必要はないんです」


 それはおそらく、シロンの心から出た言葉なんだろう。

 本当に私を心配してくれる言葉。

 ――500年前の約束なんかよりももっと、守るべきものがあるでしょうと。

 彼のあまりに真摯な態度に、私は何も言えなくなる。


「今ここであなたがいなくなれば、あなたを慕って集まり、一体となっていた彼らはどうなります? あなたという核を失えば、彼らはそれこそ存在する意味さえも失ってしまう。女王陛下を打ち倒したところで、呪いを断ち切ることはできないでしょう。それどころかもっと深い呪いにとらわれてしまうかもしれない」


 私は思わず俯く。分かってる。分かってるんだけど……。


「……ごめんね、シロン。でも、ああするしか思いつかなくて」


 逃げちゃいけないと思った。彼女の思いが正しいか間違っているかは別として、彼女は本気だったから。

 私は武器を持って戦うことはできない。言葉で、心で戦うしかできない。だからこそ向かってきた(ハート)は受け止めなきゃいけないって、思ったから。

 地面に視線を落としたまま小さな声でそう呟くと、ぽん、と大きな手が頭に置かれた。


「わかっています。……それは、もう、怒ってませんから」

「……本当に?」

「ええ、正直なことを言えば、あの状況ではああするしかなかったでしょう。最善の選択でしたよ」


 ……なら何故怒った。


「それでも――心配はするでしょう? 当然ですよ。あなたは自分の命を投げ出したも当然なんですから」

「う……」

「戻れなくなったりしたらどうするんです」


 それは……嫌だ。ごめんなさい。素直に頭を下げる。……というか。


「あの……私、戻れるの?」


 私はおずおずと尋ねた。

 冗談抜きで、私はちゃんと戻れるんだろうか。三途の川の向こう側行きじゃ、なくて?

 正直やらかしたことがやらかしたことだったので不安だ。そう思って言った、の、だが。


「……戻れないつもりでここに来たんですか……」


 あ、やばい。キレる。


「ち、違う! 違うけど……こ、ここからどうやって戻るのかなって! 思って!」

「……はあ。あなたは全く……本当に、変わっていませんね……」


 慌てて弁解すれば、何度聞いたか分からない科白がその口から漏れた。でも、それはなんとなく、安心する。

 ぽんぽんと頭をなでられても彼なら気にならなかった。500年前もそうされていただろうか。……あの頃は随分反抗した覚えがあるんだけど。


「戻れますよ。戻らないでどうするんです」

「あ、……うん」


 シロンの唇がきれいな弧を描く。

 ……そうだよね。戻らなきゃ。たとえ戻れない、って言われたって。


「――ただ」

「ただ?」

「代わりに、もう二度と《アリス》として生まれ変わることはなくなるでしょう」


 ……え?

 ぱちくりと瞬く。《アリス》として生まれ変わることは……なくなる?


 生まれ変わらなくなる?


「え、それって……」

「いいですか、いまいち分かっていないみたいですが、一応今あなたは生死の境をさまよっているんですからね。じゃなきゃこんなところに来たりしません。来ないはずなんです」


 刺々しい口調に、う、と私はつまった。……怒ってる。

 そりゃあでもそう、かな。あのオーラの正体が何であれ、一応心臓を一突きにされたはずだもんね。あれがたとえば女王様の鎌だったりしたなら一撃必殺だ。こんな段階は吹っ飛ばして私はお陀仏だったに違いない。

 要は、あれがもっと精神的なものだったからまだ死の一歩手前にいる、だけで。


「……っていうことは?」

「ただで戻るわけにはいかない、ということですよ。あなたの精神力はたしかにもう一人のアリスを凌駕している――しかし、あくまであなたは普通の女の子です。対して相手は精神的な化け物なわけですから」


 シロンはさらりと言い切るけれど、……精神的な化け物って……一応昔の恋人だよね? 私に言われたくはないかもしれないが扱いがひどい。その通りだけど扱いがひどい。


「ですから、あなたの(ハート)があの子の(ハート)を上回ったとしても、何かしらの代償は払わなければいけないんですよ。現世に戻るためには」

「……それが、転生?」

「そうですね。正確に言えば約束されていた未来、というところでしょうか」


 約束されていた未来。……シロンと、約束した未来。

 それが、犠牲にされてしまう。


「……シロンと……会えなくなる、ってこと?」

「あ、いえ、完全に……というわけではないですが。……絶対に巡り会えないとは限りませんが、確定していた未来はなくなります」


 それが、代償。……これからの未来を代償として払って、今を生きる、ってことか。

 ……何でだろう。

 私はあんなにも《アリス》でなくなることを望んでいた、はずなのに――


 心が、痛い。


「……ごめんね。シロン」

「……何を謝っているんですか」

「あなたには迷惑かけっぱなしで、心配かけっぱなしだったのに……約束まで、破っちゃうなんて」


 何で、なんて決まってる。

 分かってる。

 それはすなわち、この人と交わした約束を破ってしまうことだからだ。

 私はたしかにアリスじゃない。アリス=リデルっていう、この人を愛した女の子本人ではない。

 ――だけど。だけどね。


「ですから、気にしないでください――と」


 シロンの手がそっと頬に触れる。


「あなたは、何度言ったら分かるんですか?」

「でも……」


 シロンを見上げる。その表情は相変わらずやわらかい。

 でも、シロン。あなたはいつでもやさしかった。約束を破ったりしなかった。こんな私でも受け入れてくれた。……あなたを不幸にする理由なんてない。あなたを不幸にする世界なんて、あまりに、残酷だ。


「いいんです。――あなたは過去でも未来でもなく、今を生きているんですから。今生きているあなたは、どうか、今幸せになることを考えてください」


 シロンは私の額に自分の頭をこつんと合わせた。

 その瞳はまっすぐで、悲しみの色も、歪みも、どこにも見当たらない。……なんて透き通った瞳だろう。

 ――今生きている私が、今幸せになること。

 彼がそれを望んでくれたとして……500年前、ともにあると誓った人をおいて、幸せになっていいんだろうか。たしかに私は彼女と同じとは言えないけれど、彼を愛しているとは言えないけれど、それでも、本当にその誓いを破っていいんだろうか?


「この500年間、本当に幸せになれなかったのはあなたの方です。つらかったのは僕ではなく、あなたの方だったはずです。あなたが幸せでなければ……約束などに何の意味もない。だから」


 問いかければ、彼は――500年前から何一つ変わらず私を待ち続けていてくれた彼は、それでも私に「いい」のだと言う。

 彼には迷いなんてなかった。やさしすぎる彼は、ひとつの『言葉』というはさみを迷いなく持ち上げて、


「だから、僕と約束した形でなくてかまわない。……どうか、幸せになってください」


 ――呪いを断ち切ろうと、それを運命の糸とやらに宛がった。


 ずっと続いてきた呪い。

 狂気的な約束。

 何度でも繰り返してきた輪廻。

 そのたび殺される恐怖。

 生まれる歪み。


 輪になって巡り続けていた負の運命を、この人は、断ち切るつもりでいるのだ。

 ……自分の幸せもいっしょに。


「……シロン」


 そう思うと、どうしてだろう――胸の奥に切なさと痛みがあふれた。

 きっとそれは私じゃない。私の中に残ってた、このひとと一緒に生きるはずだった、500年前の少女の記憶。

 一緒に生きたかった。

 一緒に暮らしたかった。

 一緒に、幸せになりたかった。

 ……叶わなかった願いが、今、断ち切られる。


「ですから、さようなら、ありす。僕らはここでお別れです。あなたは今を生きる人、そして……僕はもう死んだ者。ここから先は、一緒には行けません」


 そして、それを止める権利には、私にはない――

 500年前の少女だったなら違ったかもしれない。彼女はシロンを愛していたから。彼女は、シロンと心が通じ合った人だから。

 ……でも、私は違う。彼を引き止める言葉は持っていない。だから、お別れだ。


「……うん。ごめんね、シロン」

「僕は、そんな言葉を聞きたくてあなたを助けたんじゃありませんよ」


 シロンはちょっとだけ笑う。私もつられて笑った。


「そうだね。……シロン、ありがとう」


 それでも、大好きだったから。

 ……あなたの愛した国のことは、どうか任せて。私が何とかするから。

 今度こそ、心配しないで、ゆっくり眠れるように。


「――あ。シロン、最後にひとつだけ、いい?」

「何ですか?」


 お別れの時。閉ざされそうになる空気を割って、私はその言葉を口にした。

 どうしても聞きたいことがあったんだった。……『本人』にはとても聞けないから。

 彼ともう会えなくなってしまう前に、聞いておくべきだろう。


「アリスとルーシャがした約束って、結局、何だったの?」


 私がそう尋ねると、シロンは一瞬間の抜けたような顔をして私を見た。

 アリスとルーシャの、大切な約束。

 ……結局私は思い出せずじまいだったんだ。チェシャ猫とはまた別の約束をした、というか別のことを願ったわけなんだけど……。

 個人的にはどうしても気になるし聞いておきたい。そう思って聞いたんだけど、それを聞くとシロンは笑って。「まだ思い出していなかったんですか。……全く、あの子も手を焼くわけですよ」

「え、なに、え? 何で笑うの?」

「まあ、思い出せなくてもかまわないと思いますよ? 別にその願い自体はほとんど聞き遂げられているんですから」


 意地悪く言う。……何だ、何でそんな意地悪を! ていうか500年も待ってる間に絶対性格変わったよねこの人。意地が悪くなった。待たせた身として言うことでもないが。でも、思い出せなくてもかまわないって、私が気になるんだってば。


「あの子は本当に、あなたと一緒にいたかったんでしょうね」


 じっとシロンを睨んでいると、彼は何も気にしていないふうにからりと笑った。……あの子。チェシャ猫のことだろうか、それとも、どっちかっていうとルーシャのこと? 測りかねて眉をひそめていると、彼は薄い笑みを浮かべたまま言った。


「あなたが金髪碧眼ではなく黒髪黒目なのは、そういう理由ですよ」

「……え? 何? どういう理由?」


 いきなり髪と目の色に触れられて、さっぱりわけが分からず聞き返す。

 黒髪黒目の理由、って……。何だいきなり。それって、《100番目のアリス》として呪いがかけられたせいだと思ってたんだけど。女王を倒すアリスだから、他と区別するためにそうなってるのかと。


「ああ、勿論その呪いのせいもあるでしょうがね。本当の理由は、あの子が見つけやすいように、です」

「……え、あの子って……チェシャ猫、のこと?」

「そうです、あなたがそう呼ぶ存在。……約束は、幾度も転生を繰り返すあなたが、一度だけ彼を好きになるというものだったんですよ。――あの子らしい、控えめな願いでしょう?」


 シロンから笑って告げられた、《約束》。

 それは、身体中を電流が駆け巡るような――

 覆いかぶさっていた偽物の夢が全て覚めてしまうような、そんな、言葉だった。


 私が、一度だけ、チェシャ猫を?


「え、じゃあ私は……チェシャ猫を、その……好きになるために、ってこと?」

「そうなりますね。あなたが約束されていた100番目のアリスですから」


 私がしどろもどろになって確認すれば、シロンはしれっと肯定する。

 ……え、っと。

 …………。


 うわあああああああ恥ずかしい昔の私なんてことをー!?

 ってことはですよ、ってことはですよ!? 私がチェシャ猫を好きになるように元からなっていて、黒髪黒目イコールチェシャ猫に見つけてもらうためのサインだったとしたらですよ!?

 私はこの姿でこの国に来てチェシャ猫に会った時点で、全身でチェシャ猫に求愛してんのと同じことじゃないですかー!


「なんて恥ずかしい真似を昔の私馬鹿ー!!」

「あっ!? 落ち着いてくださいありす! どうしたんですか!」


 一発殴る。一発殴る! 帰ったらとりあえずチェシャ猫一発殴る! ……チェシャ猫に罪はないけど!


「て、ていうか! ていうかですね! シロンってチェシャ猫が……っていうかルーシャが嫌いだったんじゃないの!?」

「え? ええ、勿論嫌いでしたよ」


 うわあはっきり! じゃあ何でそんな微笑ましげに言うんですか!


「そりゃあ恋敵が好きだっていう男も珍しいでしょう。アリスをとられるかと思ってひやひやしてましたから」

「え、……シロンがルーシャを嫌いだったのってそういう理由……?」

「はい」


 うわあはっきりパート2。そういう理由だったんかい。


「えと、じゃあ、今は……」

「これはアリスがみずからルーシャと約束したことですからね。仕方ありませんよ、受け入れてます」

「…………」


 そしてあっさり。そういうどこか淡泊なところはハク君と一緒だよね……うん。

 何だか一気に脱力してしまった。緊張感とかもう欠片もないよ。約束……聞かなきゃよかったかも……。


「さて、それではもう目覚める時間ですよ、ありす。帰らなければならないでしょう?」

「えっ、あ……いや待って! もう少し待ってシロン! 私の心の整理がつかない!」

「はあ? 何を言い出すんですか。大体、まだ女王様だって残っているのに……」

「ならせめて私を金髪碧眼にして! 今から! 今からでいいから!」

「だから何を言い出すんですか! そんなことどう考えても無理でしょう!」


 無理だとは分かっているけれどそうしてほしい! 私の容姿が黒いことにそんな意味があると分かってしまった以上、このまま帰るなんてできないじゃないの……!

 チェシャ猫だって、ルーシャだった頃の記憶を取り戻したんだから分かっているはずだ。私が黒髪黒目であることの必要性、は。……余計恥ずかしい! お願いだからこのままそっとしておいて!


「あーもう! いいからとっとと帰りやがれ! 何を今さら恥ずかしがってんだてめえは!」

「ひーごめんなさいいい!」


 でもそんなこと言ったって、恥ずかしいものは恥ずかしいじゃないの!

 そんなの知らなきゃよかった……! 絶対殴る、チェシャ猫に会ったら絶対殴る!


「今もあなたの目覚めを待っている人がいるでしょう! もしあなたが目覚めなかったら、どうなると思いますか!?」

「う、そ、そうよね……ごめんなさい……」

「分かったらこれ以上僕を怒らせないでください! ――なんなら、猫を殴りに帰るなんて動機でも結構です! ですから……早く帰って、早く……僕を、安心させてください」


 ふいに、弱々しくなる口調。思わず伏せていた顔を上げて、シロンを見る。

 ……ここにいるひとは、死んでいるひと。

 ふと脳裏をよぎるその言葉。当たり前のことだ。当たり前のことだった、はずだった。目の前にいる人も、笑ったり怒ったりしているけれど、ほんとうは死んでいる。死にあふれた世界。

 そんな中に私がずっといたらどうなるか……そんなの。


「……うん。そうね。……心配かけてごめんなさい、私、今度こそ帰るね」

「……それでいいんです」

「うん。……ちゃんとチェシャ猫には綺麗にストレート決めとくから」


 それを聞いたシロンは、少しだけだけど笑ってくれた。……チェシャ猫に罪はないけど。

 でも、そんなふうに決めておけば、帰る時にも迷子にならない気がした。

 ……ごめんね、待たせて。今から帰るからと、心の中で呟いて。


「さようなら、ありす。チェシャ猫にはよろしく伝えて下さい。――ああ、あと女王陛下にも。あの人はあの人で無茶をするので心配なんです」

「……うん。さよなら、シロン。きっと伝えとくわ」


 さよならを告げる。今度こそ、正真正銘の『さよなら』。

 何度でも会えることが分かっていた頃の私たちではない。今度は不確定な未来の渦に呑み込まれ、自分がなにものになるかも分からない。運よく同じ世界に生まれ落ちたとして、広い世界の中、再び巡り会えるとは限らない。それでも――。



 また出会う可能性は、ゼロじゃあない。

 ……確証はない。でも、どこかでまた運命が交わる日が来るんじゃないかって、そんな気がするんだ。

 だから、



「バイバイ。またね」



 笑顔は忘れない。長い長い別れが待っていても、涙は見せない。泣くのはまた出会った時でいい。きっとしばらく会えないから。

 大好きでした、ありがとう。さようなら、また今度。

 また気の遠くなるような日々を重ねて、いつか出会った時――。



 今度こそ幸せになろうね、シロン。










(いつか叶うかもしれない、約束)

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