第97話 願い
「遅かったね。ありす」
彼はそう言って微笑んだ。黄金色に囲まれて、佇んだまま。
――《願い》を叶えてくれる猫さんがいる森。そこは昔、私がそんなふうに呼んでいた場所だった。
……変わっていない。城も、街も全部、500年の時を経て黄金色の輝きを失っていたのに、そこだけはまるで500年の時の流れから取り残されたかのように、黄金色のきらめきを今もなお残していた。
それは、これが私の意識の中の産物だからなんだろうか? それとも、特別な場所だからなのだろうか。……分からないけれど。
「……チェシャ猫」
それでも、そこにいた人は『願いを叶えてくれる猫さん』ではなかった。
艶のある黒髪に、金色ではなく夜空のような美しい紫色をした瞳――チェシャ猫だ。ルーシャではない。
彼が、シロンいわく、私を待ってくれていた人だという。彼らしいにやにや笑いをぶら下げて。
「……ここが、あなたの、悪夢?」
私は、そんなわけがないと知りながら尋ねる。悪夢とは似ても似つかないような場所だった。ハク君の時もそうだったけど、でも、ここは静かすぎて――。
「ちょっと違うかな。俺は悪夢を見ないから」
チェシャ猫はおかしそうに目を細めた。
悪夢を見ない、か。……だったら、私のあの努力は一体何だったんだろう。正直、あれ触れるのは結構痛かったんですよ。まあ、今さら怒る気も起きないけど。
そんな予感はしていた。シロンに会った時から。だって、この人は――
「……ねえ、チェシャ猫。いつから気が付いてた?」
「何に?」
「私が、《アリス》の生まれ変わりだってこと」
チェシャ猫は細めていた目を少しだけ見開いて、それからまた微笑む。
彼にしては珍しい表情だ、と思った。
いや、正確には、私の知っているチェシャ猫とは言えないのかもしれない。……だから、かな。そんなふうに思えてしまうのは。
「今さっき。知った」
私は思わずチェシャ猫を見つめる。
「……それは嘘でしょ」
「うん。ごめん、嘘」
……怒る気にもなれない。なれない、けど。
彼はとても清々しく笑う。
「自分の中にある誰かさんの記憶には、うすうす感づいてた」
「……ルーシャ、ね?」
「そう。断片的な記憶ばっかりだったけど、でも、いつもそこには可愛らしい女の子がいてさ」
ありすとは違ってね、とチェシャ猫は付け足す。……それは余計だ馬鹿野郎。
そりゃあどうせ私は可愛らしくないですよ、あの頃とは違って。でもそんなのどっちもどっちだ。
「自分の役が特別なんだってことは知ってた。でも、どう特別なのかは知らなかった。……ようやく知ったよ。《チェシャ猫》が人の願いを叶えることができる、なんてさ」
それはある意味、一番特別な役だったのかもしれない。
この《夢見の国》では、彼こそが世界の中心だった。
――でもたぶん、今のチェシャ猫にそんな力はない。500年は、きっと、長かったから。私も彼も、変わってしまった。
「……羨ましいよね。今の俺にはそんな力ないのにさ」
私と同じことを考えていたのか、チェシャ猫はぽつりとそんなことを呟く。
「願いを叶える力を失っちゃったら、《チェシャ猫》なんてただの猫じゃん」
「……まあ、そうね」
「うわ、ありす否定してくれないんだ。ひどい」
「自分で言ったくせに」
まあそうだけど、とチェシャ猫は笑う。合わせて私も笑った。……なんて穏やかな時間。そんな場合じゃないのに、どこか穏やかで――ひどく、切ない。
「でもさ、いらなかったかもしれないな。――《チェシャ猫》は、人の願いは叶えられても、自分の願いは叶えられなかった」
「…………」
「なんか、悲劇的だよね。健気に人の願いをせっせと叶えてただけなのに、嘘つき扱いされるわ、近寄るなとか言われるわ」
……そう。そうだった。
《チェシャ猫》は、嫌われていた。この国の住人たちに。
たしかに性格には難があったし健気とは言い難かったけど……気味悪がられてた、っていうのかな。
そんなことを言うチェシャ猫の口調は明るいけど、どっちかっていうと空元気のように感じた。だからこそ私は悲しくなる。
「……チェシャ猫」
「それに、そうまでして願いを叶えてあげた大好きな女の子は、白兎が好きだった」
ふいに枯れた風のようなものが吹き抜けた、気がした。
やり切れない思い、虚しさ。……ルーシャはけっして、幸せじゃなかった。
アリスが好きだった。だけど、その思いが叶うことはけっしてなくて。
500年間、ずっと、白兎と結ばれるばかりのアリスを見ていた。
「――どうせ選ばれないってわかってるのにさ」
『俺は悪夢を見ないから』?
……違うんだ。彼は悪夢を見ないんじゃない。ずっと、ひとりで、悪夢の中にいたのだ。
500年もの孤独。自分が叶えた願いのせいで。
だから――
「……私がいるよ」
思わず、口にしていた。
チェシャ猫の見開かれた瞳が私を振り返る。夜に沈んでいく色。その眼差しから目を逸らさない。
そうして、5秒間くらい見つめ合っていた。
それから先に、チェシャ猫が吹き出す。堪え切れなくなったように視線を外して、彼は困ったように表情をやわらげた。
「……うん。知ってる」
「うん」
よかった。私が言うと、チェシャ猫は目のやり場をなくしたみたいに視線を泳がせる。
……照れてる、んだよね? 珍しい。逆はあっても、チェシャ猫が照れるなんて初めて見たかもしれない。
「――ほんと……ずるいなあ、ありすは」
「……え?」
「何でもない」
そっぽを向いたまま呟かれた言葉が何か分からないまま、ぽんと頭に手を置かれた。……何だこれ。何故頭に手を置く。
「本当を言うと、俺、少し怖かったんだ」
「……何が?」
「シロンに、ありすをとられるんじゃないかって」
シロン――と珍しくも彼の名を口にしたチェシャ猫を、私はきょとんとして見つめた。
彼らしくもない、随分と弱気だ。……いつも自分勝手で、ふてぶてしくて、強引なくせに。三角耳が元気なくしおれているのを見て、私は思わず笑みをこぼした。何それ。
「とられるって、さすがに亡霊に心奪われる私じゃないわよ」
「うわ、ありすひっど。いくら昔のだからって元恋人を亡霊扱いって……俺じゃないからいいけど」
「だって500年も前よ? 記憶取り戻したところではるか霞の恋よ、さすがに今さらときめいたりできないでしょ」
もちろん、今だってシロンが嫌いなわけはないけれど。うーん、それにしたって好き勝手言ってごめん。……でも、今私の目の前にいる男が、随分と情けない顔をするから。
「ならいいや。……安心した」
「……あんた、ほんとにいつになく弱気ね……本物?」
「ひどっ。いいじゃん、俺だってセンチメンタルになる時はあるの」
「キャラじゃないでしょ」
ひっどいなあと呟くチェシャ猫、だけど否定はできないでしょうが。……ここにきて弱さを見せるなんて、ずるい。
「だってありす……約束、忘れてるんじゃないかって思ったから」
チェシャ猫はぽつりとこぼす。……約束?
それは、いつ交わした約束のことだろうか。
今か、それとも――500年前交わした約束か。
シロンが言っていた、私が『忘れている』らしい約束のことだろうか。
「それでも、どうしてもあきらめきれなかったから――《約束》、したのに」
そう言う声は薄弱で、縋るように脆い。
……彼がこんなにも弱々しく、懇願するように言うのに、どうして私は思い出してあげられないんだろう。
ルーシャとアリスがしたという、約束。
思い出したいけど、思い出せない。……尋ねるのも野暮だろう。特に、目の前の人には。そこまでして聞き出して、それでも思い出せなかったらさらに悲惨だ。
――ねえ、それはそんなに大切な約束なの?
チェシャ猫が目を合わせてくれない。私が思い出してあげられない約束のせいで。
彼はきっと、本当に、《アリス》が好きだったから。
「……ねえ、チェシャ猫」
でもね。
「それって、今の私じゃ駄目なの?」
「――え?」
チェシャ猫が驚いたように目を上げた。アメジストみたいな、綺麗な瞳。
その瞳が、ようやく私を映してかすかに揺れる。
「大切な約束、だったのよね。思い出してあげられなくて、ごめん」
「…………」
「でも、それって、今からじゃ遅い?」
私がおそるおそる尋ねると、一拍置いて、チェシャ猫もおずおずといった様子で首を横に振った。
どうやらその約束を果たすには、まだ遅くはないらしい。
それはよかった。チェシャ猫はまだ何が何だか分かっていない様子だけれど、それさえ分かれば。
「今からで間に合うなら、約束、果たしてあげられる。私は約束のことはわかんないけど……チェシャ猫の好きにしてくれたらいいから」
「……え? でも、ありす……」
「覚えてないのにこんなこと言うのはなんだけど、500年も前にした約束でしょ? チェシャ猫の気持ちも変わっちゃってると思うから、約束そのまんまじゃなくてもいいし」
――だから、今のチェシャ猫が一番望む《願い》を、言って。
そう言うと、チェシャ猫はどこか、困ったような顔をした。困り果ててる、っていうんだろうか。困りすぎて表情がすっぽ抜けて……ただただ瞬きを繰り返すような。
「……いいの? ありす」
「うん。いいけど」
「だって、500年前は、俺たち……」
「うん。たしかに私たちはアリスとルーシャの生まれ変わりだけど、でも、アリスとルーシャじゃない。今ここにいるのは、私とチェシャ猫でしょ」
「…………」
「願う内容によっては約束が反故にされちゃうかもしれないけど、でも、それを今のチェシャ猫が望むんならルーシャだっていいんじゃないの」
もう終わったことだ。500年も前のことだから。
――そんな過去に縋りつくなら、私たち、女王様とおんなじじゃない?
私がそう言うと、チェシャ猫はようやく少し笑った。
「……そっか」
「うん」
「そうだよね。そうか」
「うん。そうだよ」
あんまり意味のない頷きと呟きを何度も繰り返す。でも、それはチェシャ猫の中ではとても大切なことだったんだろう。
彼は唇に笑みを乗せたまましばらく目を閉じ、それから、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……ありがとう」
素直な感謝の言葉だった。……あまりにも素直すぎて、私は言葉が出なかったくらいだ。
でもそんな私の様子など気にも留めていないらしい。チェシャ猫はそっと私の手を握って、言った。
「でも俺は、もう幸せだから」
「……幸せ?」
「うん」
あんなに不安そうだったのに、それでも幸せと言い切るなんて。
微笑むチェシャ猫はやっぱりいつものようには強気じゃないけど、それでも、さっきみたいな弱さは見えない。
「だから、ひとつだけ、できるなら――」
彼は遠い遠い空を仰ぐ。私もつられて顔を上げた。
黄金色の枝葉の向こう、漏れる木漏れ日は、どこまでも眩しかった。
「――できるなら、ありすと生きる今が、少しでも長く続きますように」
それは、彼らしい、とてもやさしい願いだった。
それは、君が忘れてしまったはるか昔の約束――。
「最後の願いを叶えてほしいの」
俺はあの日、今日と全く同じ場所で、あの少女を迎えた。
それは、突然の夢の終わりだった。少女はいつになく真剣で、真剣に言った。「元の世界に帰るのだ」と。
それを聞いた時、俺は、心が石になるんじゃないかとさえ思った。俺の世界には、その少女しかいなかったから。……いっそ、石になってくれればよかった。けれど俺の心は鈍い痛みを覚えたまま、どくどくと動き続けていた。
だから。
だから、込み上げてくる棘を呑み込み、痛みを下し、俺は言う。
「わかった。その願いを叶えてあげよう、アリス」
と。
彼女の願いは、いつだって、『シロンと一緒にいること』だった。
彼女はただ、それだけを望んでいた。
……つらい? つらいに決まってる。なにが嬉しくて、好きな子が他の男といたいという願いを叶えなきゃいけないんだ。
でも、それしかなかった。
元の世界に帰ってしまう彼女ともう一度まみえる方法は、それしかなかったから。
俺は『ほんとう』を何もかも呑み込んで、『嘘』ばかりを口にする。
「約束だからね、ルーシャ!」
「ああ、もちろんさ。アリス」
――たとえば、まだ、彼女の幸せを純粋に喜べたなら。
それならよかったのかもしれない。それだけだったなら、俺は、めでたしめでたしで終わる恋物語をはたから微笑ましく見ていられたんだろう。ただの、物語の脇役として。
……それならよかった。そんな感情しか知らなかったなら、よかったのに。
それができなかったから、俺は、ひとつだけ『ほんとう』を口にした。
「ただし、アリス。ひとつだけ約束してほしいんだ」
後ろめたいわけではなかった。俺がどんなに非道な嘘つきでも、誠実な彼女の言葉に返す嘘はないから。少なくとも、彼女を傷付けてしまうような嘘は。
だから、後ろめたいわけでは、ないけれど。
「君が何度もこの世に生まれてくる中で、何度も何度もシロンと一緒に暮らす中で、一度だけ」
――ただ、俺は、ずるい。
「一度だけでいいから、僕を好きになってくれないかな」
一度だけ。
一度だけで、いいから。
そんなふうに言えば彼女が断れないのを知っていて、やっぱり俺はずるいのだ。
最低だ。分かってる。誰に言われなくても、俺自身が一番よく分かっている。
だけど――
「……あなたがその約束を守ってくれるなら」
少女の澄んだ声が、言う。
一輪だけ咲き誇る花のように微笑んで。その何物にも代えがたい美しさは、500年の時を経ても何ひとつ変わりはしなかった。
俺は彼女を見る。彼女の青い瞳が、笑う。
「私も約束するわ。100代先で会いましょ、ルーシャ」
――それが、俺と彼女との、約束。
(だから俺は、それから500年後、黒髪のかわいい女の子に出会ったんだ。)
☆★☆
「ッこの!」
鼓膜が破れるんじゃないかってくらい近くでかき鳴らされた金属音で、私の意識は現実世界へと急速に浮上した。
「貴様もか、猫がッ……!」
――え……、え、え、待って、なに? なんなの、この状況……?
急に覚醒した頭では目の前の状況についていけない。ぼんやりと霞み狭窄する世界の中、鎌を振り回しながら吠える女王様に、私はチェシャ猫に抱き込まれるようにしてかかえられていて、えーと、それから。
「……えっと……、おはよう、チェシャ猫……?」
「おはよう、ありす。……でもそんな悠長なこと言ってる場合でもないみたいだよ」
とりあえず目覚めの挨拶を口にすれば、苦笑しながらも私を抱えてくれていたチェシャ猫が返事をしてくれる。どうやらチェシャ猫は無事に目を覚ましたらしい。……よかった。
それで……、……えっと?
「死ねっ!」
「うひゃっ!?」
「おっと」
突然耳もとで振るわれた鎌の音に思わず竦み上がる。……変な声が出た、って、それどころじゃなくて!
女王様が近い。待って、こんなに近かったっけ? いや、たしかに殺されかけてたんだけど――チェシャ猫が!
「ありす、どうせ上げるんならもうちょっと可愛い悲鳴上げてよ」
「うううるさい! そんな余裕ないってば!」
「それだけしゃべれるんなら大分余裕あると思うけどね」
チェシャ猫の首を絞める勢いでつかまっていると、頭の上からはあっとため息が落ちてきた。
仕方ないじゃない、だって刃が飛んできたのよ? 誰が取り乱さないでいられるっていうんだ。いや、チェシャ猫は取り乱してないみたいだけどさ……!
「ありす! 貴様っ、一体何をした!」
「何、って……!」
何って、一体何の話よ!
言おうと思ったけれど、怒りに喚き散らす女王様の目は赤く充血していて、あの美貌は見る影もない。……正直怖い。とても言い返す気にはならずつまっていると、さらに鎌が振るわれる。それもすごい勢いで。
「怒ってるね女王様。怖いなー」
「な、何でそんなふつうなの、チェシャ猫……!」
「ふつうじゃないけど……でも当たる気しないしね。こうもめちゃくちゃに振り回されてると」
めちゃくちゃ、と言えばたしかにめちゃくちゃだが。……めちゃくちゃでも当たる気がするから怖いんじゃない!
どうやらチェシャ猫はその軌道を見極め避けているらしいけれど、私にそんな芸当はできないし、まず理解できるはずもない。ただただ死の刃の恐怖にさらされて身を縮めるだけ。どうにかしてよ、これじゃ話どころじゃないじゃないの……!
必死にそう訴えると、チェシャ猫は仕方ないな、とまたひとつ息をこぼして。
「あー、無駄だと思うけど、女王様? ちょっと俺の話聞い」
「黙れ猫! その口を開くなっ! 今すぐその首を刎ねてやる!」
「……あー、ちょっと無理っぽい」
チェシャ猫はやれやれとばかりに肩を竦めた。女王様は激昂していて話どころではないみたいだ。私がチェシャ猫を起こした、せい?
チェシャ猫を起こせば何とかなるかと思ってたけど……、考えてみれば、彼を起こしたところで何が変わるわけでもなかったか。
どうしたものかと悩んでいると、チェシャ猫がふいに私を抱えていた腕を高く上げた。え?
「ごめん、グリフォンちょっと」
「え?」
「ありす。パス」
「え」
「は……あああああっ!?」
会話はその二言三言のみ、というか会話という会話が成り立っていたかどうかも怪しい。
何も分からないままに私は宙に放り出されて――今度は、ばすんと軽い音を立ててグリフォンの腕の中に収まった。無事に。……無事に、収まった、けど!
「え、ちょ、ちょっとチェシャ猫……!」
「え、な、なに、一体俺になにを期待してるのおチェシャ猫!?」
「ごめん。ありす抱えながらだったらさすがに危ないし、あ、グリフォン、君には大して期待してないから安心して。でも俺のお姫さまに傷一つでも付けたら羽全部毟るよ」
「む、無茶言わないでよお!」
悲鳴のような悲痛な声を上げるグリフォン。……うん、なんかごめん。ちゃっかりつかまっちゃってる私も私だけど。でも受け渡しが完了してしまった以上はどうしようもない、一人で突っ立ってる気にもならないし。
「ありす……そっちかっ……!」
「ひっ!?」
女王様の顔が、まるでロボットのようなぎこちない動きでこっちを振り返る。思わず息を呑んだのは私だったかグリフォンだったか……両方だったか。
女王様が大きく一歩踏み出し、グリフォンは小さく一歩後ずさった。ちょっと待って……え、ちょっと待って。狙いは、やっぱり、私? 頬を伝っていく嫌な汗。思わずグリフォンを絞める勢いでしがみつく。
けれどその瞬間、突如響いた破裂音が空気を割った。と思ったら女王様の頬を何かが掠めていって、数秒遅れて、怒りで紅潮したその頬から赤い血がひと筋流れ出す。赤い、赤い、血。ぴたりと止まる女王様の動き。
「よそ見はなしじゃない? 女王様。あんたの相手はその腰抜けじゃなくて、俺」
そして、女王様の向こう側には、銃口をこちらに向けて不敵に笑うチェシャ猫――
……腰抜けとはひどい言いようだがその通りだ。その腰抜けにしがみついている私も大差ないが。
自分に傷を付けたのが後ろにいる男だと分かると、女王様はさっきと同じ緩慢な動作で振り向く。彼女がどんな顔をしているのか、反対側にいる私には知りようもないが、彼女と目を合わせたのであろうチェシャ猫が笑みを深めたのは分かった。
「猫……貴様から、殺されたいか」
「物騒なこと言わないでよ。殺されたいなんて、冗談」
女王様の声が、段々静かになっていく。……別に怒りがおさまったわけではないんだろう。たぶん、怒りの質が変わっただけだ。
彼女は静かに鎌を持ち上げ、そして、確実にチェシャ猫の首を落とそうとしている。さっきのようにめちゃくちゃに振り回すわけじゃない。だからこそ――怖い。
「……チェシャ猫」
対するチェシャ猫は、拳銃が一丁のみ。彼は不敵に笑うけど、でも……心もとない、と感じるのは私だけだろうか。撃ち抜いたら終わり、なのかもしれない。一発、それで事足りるのかも。だけど、何となく、あの鎌の前ではとても頼りなく思えて。
――だったら、私には、何ができる?
「チェシャ猫。加勢するよ」
「僕も力を貸しましょう」
「ありがと。ジョーカー、白兎」
緊迫した空気の中、チェシャ猫の隣に立ってそう言ったのはジョーカーとハク君だった。チェシャ猫も素直に頷いてそれを受け取り、3人は女王様を囲むようにして立つ。
何もできない私とは違う。彼らには武器が、戦う力があるから。
それでもこれで形勢は逆転しただろう。3対1なら、さすがの女王様だって――
そう、思うのだけれど。
「ふふ……死に急ぐ輩が多くて困る」
女王様は、3人を前にしてもなお焦ることなく、――褪せることなくそこに佇んでいた。
恐れることなど何もない、堂々としたたたずまいで。
その威厳はまさに《女王》。見る者全てが跪くような。
傾きかけた敗北を前にして、なお。
「……ねえ、グリフォン」
「な、なにい?」
「あれって……女王様が不利なんじゃ、ないの?」
小声でそっとささやくと、グリフォンは少しだけ困った顔をした。
私には戦いうんぬんの心得はない。……一見有利なように見えても、そうじゃないのかもしれない。
それに、相手は何せあの女王様なのだ。彼女が圧倒的有利に立っていても――きっと、それはおかしいことでも何でもないんだろう。そう思って聞いた、のだが。
「……どうかなあ。あと1人、いや、せめて2人いれば……」
グリフォンは呟く。最低でも2人、か。……それほどまでに女王様は強いということか。
それなら私は、ここで戦いを見守っているような場合ではない。――何かしなきゃ。なにか、私にできる、私にしかできないなにかを。
だって、言っていたじゃない。私自身が。
『あなたにあるのは、言葉。あなたは今までのアリスとは違う、もちろん私とも。女王に望まれたアリスじゃない。だからこそ、あなたの言葉は女王の心臓をも貫く刃になるの』
私の武器は、言葉だ。私の言葉が彼女の心臓を貫くなら、私は声が届くまで叫び続けよう。
――できる。大丈夫、やらなきゃ。
今の私は何も知らない私じゃない。声を届けられなかった無力な私じゃない。500年分の記憶を背負った、《アリス》だから。
覚悟を決めろ、私。思い切り息を吸い込んで、ささやく。
「――お願いがあるの。グリフォン」
「な、なに? ……戦えとか言わないでね?」
「言わないわよ。あんたにそんな期待してないから大丈夫」
「そ、それもひどいなあ……」
じゃあどうしろって言うんだ。ええい、面倒臭い。
「そうじゃなくて。……危なくなったら、私を置いて逃げてね」
「え……?」
「宣言しとく。私、今から危ないことするから」
グリフォンの金色の双眸が私を見下ろす。とんでもないアホ面は今はスルーしておいてあげよう、どうせ美形だからそこまで気にならないし。……爆発しろ。
そんな私の胸中を知ってか知らずか、一拍遅れてわたわたと慌て出すグリフォン。
「え、え? ありす、え、なに、何する気なのお!?」
「だから、危ないこと。……狙われるかもしれないわ、きっとチェシャ猫たちが頑張ってくれると思うんだけど。でも、あんまり保証はできないし」
ずっと前からわかっていたことだ。危険は避けられないって。
女王様と戦うっていうのはそういうことだ。私が戦いのたの字も知らないような一般市民だろうが何だろうが、女王様が待ってくれるはずもない。必殺技の技名を叫んでる間に待ってくれるようなヒーローものの悪役じゃないんだから。
だけど、それでも戦うことを決めたのは、私。
「だから、危険な時は、遠慮なく逃げなさい。私を置いて。私は戦わなくちゃいけない、逃げられないから」
でも、それにグリフォンまで巻き込むことはない。
……もう、散々巻き込んじゃったから。悪夢の中であなたをひどい目に遭わせた。それでも手を差し伸べてくれたグリフォンを突き放したのは、他でもない私だ。
私自身が、こんなゲームを始めておきながら。守られる側なんてとんでもない。被害者でも何でもない、全てを始めてしまった元凶でありながら。
――だから、ねえ、あなたが付き合ってくれることはないのよ。
「……逃げない」
だけど、そう言って見上げたグリフォンは、震えた声で――それでも、その金色の瞳でまっすぐ前を見据えていた。
「逃げないよ、俺。ありすを置いていくなんて」
「……グリフォン」
「そんなことしたら、チェシャ猫に本気で羽を毟られちゃう」
震えるグリフォンはやっぱり情けなくて、腰も引けている。理由だってなんだか頼りないし、だけど、彼は前を見据えたまま、たしかに言ってくれた。
逃げない、って。
……ありがとう。私はもしかしたら、その言葉を待っていたのかもしれない。ずるいけど。きっとそう言ってくれるだろうって思ってた。
「……ありがと、グリフォン」
思わず笑みがこぼれる。けっして格好良くはないけど、それでこそグリフォンだ。
「じゃあ、グリフォン。――落とさないでね。信じてるから」
「う、うん、が、ががががんばるよお!」
うっわ不安。何で既にそんなカチコチなんですか。苦笑だって漏れる。
だけど、うん、大丈夫。……怖いのは私だって同じだ。足の震えなんて止められない、だけど。
「――今度こそ、終わらせるから」
呪いも、約束も、願いも。
500年間も待たせたんだもの。……遅くなってごめんね、でも。
私が始めてしまった全ての悲しみを、今、私が責任持って終わらせるから。
(最初に願ったのは、だれ)