プロローグ
流れる水色の風に、踊る黒髪。
私は左手でそれを押さえて、右手で黄ばんだページを捲る。
『白い兎を追いかけて、穴に落ちていくアリス。長い長い穴のあとには―――』
優しい日差しが、晴天の下に座る私を照らし出していた。
わくわくする冒険譚。不思議でおかしなキャラクター。
――ねえ、どこまで行くの? アリス。
どうか私も連れていって。不思議の国に。思わず漏れる言葉。
また一枚、風に揺れるページを捲った。まるで踊るように、その物語は進んでいく。
「ねえありす、何で本なんて読んでるのよー?」
「……へ?」
そこにすっと差した、日差しを遮る影に、私はぱっと顔を上げた。
そこには、満面の笑顔で私を見つめる姉。人懐っこい黒い瞳が不思議そうな光を湛えている。
……それにしても、泥だらけ。
黙っていれば美人でも、いい歳して泥塗れになったその姿はちょっと滑稽だ。
「そんな楽しくなさそうな本読むなんて、ありすってば変な子よねえー」
「え、変って……これ、あんたが読めって言ったんでしょう」
私は思わず本に視線を落として、冷静に突っ込む。
が、姉はただにこりと微笑んだだけ。それ以上のリアクション、なし。
え、何だこの人。記憶喪失か? それともごまかそうとしてるのか。
そんな姉に、思わず眉をひそめてしまう。
けれど私は、逆に姉が眉をひそめるのも見た。
「あのねー。あなた、勉強し過ぎなのー。意味が分からないわ」
「……私にとってはあんたの方が意味分かんないし、そもそも私今勉強してないよ」
「だってねえ、ありす。本読むイコール頭がいい奴のすることよー? あなた頭いいのー? そんなわけないわよねー、だからやめなさい」
「えええ何その勝手な理屈!?」
ていうか、微妙に貶されてるし!
何ていうか、いつも通りマイペースというか、傍若無人というか。
どうしようもないことは分かってるけれど……。
ふうと思わずため息が漏れる。付き合ってられない、我が姉ながら……。あんたはもうちょっと勤勉になろうよ。私が頭いいとか、そういうことは全然ないんだけど。
「ありす、もっと他のことして遊びましょうよー。テロリストごっことか」
だから、あんたこの本読んでほしかったんじゃなかったのかよ。
この本を笑顔で渡して『読んでね』って言ったのあんただぞ。しかも、それもわずか10分前の話。
それも忘れてるなんて、この人まさか自分に都合のいいことしか覚えてないんじゃあないか。
て、いうかさ。
一体何なの、テロリストごっこって? どーゆー遊びだ。私は嫌だよ、そんな遊び。
だから私は全力で断った。『一人でやってれば?』と。……できるのかどうかは知らないけど。
それでもしつこく詰め寄ってくる姉に、私はため息をついて視線を本へと戻した。
「ううん、私はいいから、お姉ちゃん遊んできなよ」
今度は逆に優しく言ってみるけれど、本当は姉を追い払うための言葉。……まあちょっと考えれば、厄介払いしてることくらい普通に分かると思うけど。姉は多分何も考えはしないだろう。
ひどいとかいう苦情は受け付けない。だって邪魔なんだもん。本読ませろよ。いいところなんだから。
というか、姉が読んでと言ったんだから読む時間を与えるのは当然だ。……この人に常識を説いたって通じるはずないけど。
「仕方ないわねー、後で遊んでよ? そんなつまらない本なんて読んでないでー。あなた頭悪いんだから」
「……だから」
私はそれ以上は言わなかった。いや反論したいことはたくさんあったけど。
だけど、この人に何を言っても多分無駄だ。聞く気なんて毛頭ないだろう。
仕方ない、今は本を読むのに集中しよう。姉が離れていったことだし、好都合好都合。
そして私は、再びページを捲る。
そこにはまた、少女が迷い込んだ不思議の国の物語。
急ぐ白兎。追うアリス。
まるで色鮮やかに、その情景が浮かぶよう。
「――兎の穴に――」
ふと、どこからか澄んだ歌声が聞こえてきた。
兎の穴……? 何の歌だろう。
私は興味を引かれて、手を止め耳を澄ます。
「――少女は墜とされて――」
墜と……っ!?
声自体はボーイソプラノですごく綺麗なのだけれど、内容はとんでもない歌だ。まるで狂っているみたい。
まさかまたあの姉か、と私は思い当たる。
今度こそ我慢ならない。顔を上げて、静かにしろよ――ついでに変な歌歌うんじゃねーと怒鳴りかけた時。
「っ!?」
そこにいたのは――、白い兎の耳を生やした少年だった。
「え……っ、嘘!? 何あれ!?」
まさかの既視感。譬えるならば、白兎。
ついつい私は腰を浮かせて声を上げた。
兎、うさ耳って!? 仮装パーティーですか少年!?
……いや、じゃなくって――。
深呼吸、深呼吸。すーはーすーはー。
……コスプレイヤーかな!
よし、うんそうだと自分を納得させる。
さっきの歌もあれだ。ちょっとおかしいあの少年の頭のせいだね。
「――アリスは白兎に追われる夢を見る――」
ま、まだ歌ってるよこの少年……。
そこで私ははたと気付いた。偶然だろうか、その歌はまるで、私が今読んでいた本と同じ。……いや何か違うし色々とおかしいけどね!
偶然――? それとも読心術ですかこの野郎。
言っちゃ悪いけど、何だか気味が悪い。偶然の一致にしては……。
でも、無理矢理頭から追い払い、一切気にしないことにした。私よりも幼いみたいだし、きっと人畜無害な多少頭の痛いコスプレイヤーだろう。
さあ、私は本の続きでも読むか―――
「って、ちょっと待って下さいよ」
「え?」
本に戻した視線を、反射的にもう一度上に向ける。
視界を占めるのは、さっきのコスプレイヤー少年だった。
「い――っ、いやあああっ!?」
「そんなに驚くことないじゃないですか……」
呆れたように少年は呟く。
いや、だって! 普通誰だって驚くだろう。
顔が近いんだよ少年。
心臓がバクバクする。何でそんなに近くで話しかけるかな……。
って、違う違う。私は変な思考を頭から追いやる。
私が言いたかったのは、そんなことじゃない。
「な、な、何かなコスプレイヤー少年!?」
「コスプレイヤーって……酷いですね。貴女が追いかけてこないのが悪いんじゃないですか」
……いや、あのね。普通追いかけないと思う。
この現代で、『あ、うさぎさん!』なんて言って君を追いかけていく奴がいるかい?
兎を追いかけて穴に落ちるのは、この本の主人公だもの。私はそこまで子供じゃないぞ。
私はそんなことを淡々と頭の中で並べ立て、ふうと嘆息する。
「またそういう顔をして……そういうストーリーなんですよ? もう仕方ないからわざわざ誘拐してあげようという、僕の優しさを踏みにじる気なんですか?」
「ちょっ、はあ!? 誘拐!?」
言いたいことは色々あったけれど、『誘拐』という単語に全てかき消された。
何を言っているんだこの少年。……あ、頭がヤバいのね。
それは分かってたけど。コスプレイヤーだという時点で。
「では、行きますか」
「あー……一人で……逝ってらっしゃい?」
あ、間違った。『行ってらっしゃい』か。ごめん、コスプレイヤー少年。
「何でですか、僕は貴女を誘拐しようというのに」
ごめん。やっぱり逝ってくれ。
「ほら」
「い、いやっ」
腕をパッとつかまれた。
私は振り解こうとするけれど、少年の力は案外強くて。
驚くより前に、少年はにっこりと無邪気に微笑み、そして。
「行きますよ」
お姫様抱っこされた。
……
……
……え、あれ?
私は一瞬抵抗も出来ずに固まる。
ちょっ、ちょっと待ってよ。
年下――らしき、だけど――少年に、お姫様抱っこされるって何? しかもうさみみ君。ついでに初対面。
「いやあああ! 降ろしてっ!」
「静かにして下さい」
それでも彼は、情け容赦ない声で言い放つ。
ちょっ、冷たくないですか、少年?
もしかして、さっきの歌って……。今さらながらぞっとする。
そして嫌な予感を裏切らず、少年はそのまま歩いていく。兎の耳をぴょこぴょこと揺らして。
降ろしてくれるはずもない。もし降ろしてくれるんなら、最初っから誘拐なんて言わないはずだもの。
「お、降ろしてって言ってるでしょ――っ!」
叫びも虚しく、私は少年にお姫様抱っこされたまま穴へとダイビング。
……え?
……ちょっ、穴!?
そう、穴へとダイビング――