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代表作【ビター】

夜想、回想、絵想

作者: 蒼原悠





 夜が、更けていく。


 コチ、コチ、コチ。

 静かに時を刻んでいた壁掛け時計に、あたしはそっと手を伸ばした。傷つけないように取り外すと、スイッチも何もない裏面をじっと見つめる。

 時計って、いつも何気なくそこにあるけど、すごいよね。電池が入っていれば動くのが当たり前、立ち止まることなんて許されない。あたしたち人間は、始終立ち止まってばかりなのに。

 少し感傷的になりながら、あたしは電池パックの蓋をぱかっと外した。中身を抜いた途端、お気に入りだったパステルカラーの時計は、時を刻むのを止めてしまった。

 カチン──……。

 最後の瞬間ふと聞こえた余韻が、あたしの耳から離れなくなった。


「…………」


 立ち上がったあたしは、時計を市指定のビニール袋に入れて、部屋を見回した。この街が家庭用ゴミの有料化を実行に移したのはほんの数か月前だ。ゴミ最終処分場の満杯問題に直面するこの地域では、ほとんどの市町村がゴミの受け入れと引き換えにお金を要求しているらしい。最後の最後まで、お金が消えていく。

 たくさんのゴミ袋を動員して部屋を彩っていたほとんどのモノを片付けた今、残っているのは冷蔵庫と、プラスチックケースの僅かな衣類と、押し入れの中の物、それに毛布が敷き詰められたバスケットだけ。

 そのバスケットに、あたしは声をかけた。


「……おいで、クロ」


 にゃあ、と返事があった。

 ちょこちょこと覚束ない足取りで歩いてきたのは、オスの黒猫。あたしの飼い猫だった。

 そう。『だった』。


「よしよし」


 すり寄ってきたクロを抱き上げると、あたしは窓を開けて縁側に出た。


 この子とももう、お別れの時だから。





 あたしの名前は、黒目(くろめ)瑠衣(るい)

 二十三歳、職業は画家。

 ただし、微塵も売れない画家の端くれ。


 『画家になって、大好きな絵を目一杯描きたい』。それがあたしの小さい頃からの夢だった。

 思えば、絵に没頭し続けた青春だったっけ。高校を卒業して、芸術系の大学に入って、そこで油絵の勉強をした。成績も完成度も他のみんなよりずっと高くて、ファンになってくれる子だっていたんだ。関係ないけどその頃には彼氏もいた。

 でも、三年目に入ってあたし、悩み始めた。あたしが本当にしたかったのは、勉強なのかな。大学なんていう狭い領域じゃなくて、広い広いこの世界で評価されたかったんじゃないのかな。

 そう思い始めたら止まらなくって、決断した。

 大学を、辞める。画家になろう。

 もちろん周りのあらゆる人たちに反対された。だからあたし、家を出た。大学には勝手に退学願いを出して、故郷の福岡県を飛び出した。目指すは一路、首都の東京だ。芸術で身を立てて生活するなら、やっぱり東京じゃなきゃダメだ。そんな観念が、田舎者だったあたしの心には強く残っていた。


 その結果が、今だ。

 あたしの絵は評価されなかった。持ち込んだアトリエでけちょんけちょんに貶されたり、選考に応募した絵が『何を描きたいのかも分からない』って一言と共に送り返されてきたり。街頭で売ったりもしてみたけど、とても生計なんて立てられないような廉価をつけてもみたけど、道行く人たちは誰ひとり、あたしの絵になんて振り返ろうとしなかった。

 そんなあたしを、彼氏はあっさり見切って振った。就いたバイトはブラックだった。テレビにも出られるくらいの超絶貧乏だったあたしには、都心から遠く離れた多摩の北の方にある古びた貸家の一階しか借りられなかった。

 四畳半の狭い狭い部屋。明日、あたしはそこからも旅立つ。万策が尽きてお金も何もなくて、もうあたしにはどうしようもなかったから。

 ここを引き払って、実家に帰る事にしたんだ。ここから遥かに西方、福岡県久留米市にある、あたしの家に。





 端っこが朽ちた縁側に、あたしは座り込んだ。頬をすりすりってして甘えてくるクロを、焦点のうまく合わない目で見た。

 この子、あたしが東京に来た時に飼い始めたんだよなぁ。独り暮らしの寂しさを晴らしてくれたのは、いつもこのクロだったっけ。


「ごめんね、クロ」


 ひたいを撫でると、クロは目をぱっちり開けてあたしを見返した。


「お前はね、うちには連れて帰れないの。うちのお母さん、動物嫌いだから」


 掠れて消えそうな声で、あたしはクロに言った。あたしの言葉が理解できるはずはないのに、クロはしゅんとうなだれた。あたしも、うなだれた。


「……クロはさ、よく自分でエサも取ってきて食べてたじゃない。あたし、お前の新しい飼い主になってくれる人を探したんだけど、見つからなかったの。だからこれからは、クロは独りで生きていかなきゃいけないの」


 にゃあ、とクロは鳴いた。あたしには、それが『是』の意味のように感じられた。

 あたしにはもう、クロを養うすべはなかった。でもクロには死なれたくない。だからあたしは、クロに野生化してもらう事を決めたんだ。無責任な飼い主だって、つくづく思う。


「できる?」


 撫でる手を離すと、クロはそっと指を離れて脇に座る。尋ねたあたしのくちびるは、冬でもないのにパリパリに乾いてた。

 にゃあ、とクロはもう一度繰り返した。


「そっか……」


 力無く呟いたあたしは、クロに背中を向けた。情けないあたしの姿、見られたくない。今はクロの方が何倍も何倍も、しっかりもののいい子に見えるよ。

 そのまま、クロに告げた。


「さよなら、クロ。……元気でね」




 するとクロは、さっきまでの以心伝心がウソみたいに、あたしの背中にそっと身体をすり付けてきた。


「行かないの?」


 あたしが聞き返すと、クロはあたしの前にぐるっと回り込んできて、ちょこんとそこに腰かけた。縦に長い瞳が何回かまばたきをして、クロは三度目の『にゃあ』を言った。


「もう少し、ここにいたいの?」


 あたしは変に静かな口調で、そう質問する。

 あたしの隣にぴょんと飛び乗り、寝転がって丸くなったクロの態度が、何も言わなくても答えを口にしていた。

 それが、クロの答えなら、あたしに拒否する理由はない。


「……もうちょっとだけだよ」


 念押ししたあたしは、さっきみたいに縁側に座った。

 ちょうど良かったかもしれない。最後の夜を独りで過ごすのは、寂しいや。

 やっぱり自分勝手だなって反省しながら、あたしとクロは一緒に、眼前の景色へと目を落としたのだった。




 あたしの選んだこの住まいは、東京の東久留米市っていう所にある。

 あたしの出が久留米市だからかな、名前を見た瞬間に無性に愛着が沸いたんだ。この二つの市の間に、特に共通の由来(ルーツ)とかはないらしいけれど。

 東京って言っても外れの方で緑も多くて、都心からの距離に比例して家賃も低かった。駅前に行けば大きなスーパーが建っていたから、買い物事情も良かった。その気になれば西武線池袋線に乗って、比較的短時間で都心に出られる。

 画家たるもの、こういうボロい家で余裕ある生活を送るものだよね。名のある漫画家やイラストレーターだって、みんなそうやって過渡期を過ごしてきたんだもの。田舎扱いした東久留米の人たちには本当に失礼だけど、上京したてのあたしはそれがキザで粋な生き方だと思ってた。

 ……ある意味それは、間違ってなかったのかもしれないね。




 リー、リー。

 虫がどこかで鳴いている。

 そよそよと吹く涼しい風に、低い柵一枚で隔てられて縁側の前に広がる草っぱらが静かにそよいでいた。ここは畑で、普段は根菜類の栽培をしてる。最近になって小麦の栽培も始まって、何かと思ったらこの市の名産品らしい。

 ここのおばあちゃん優しい人だったなぁ、なんて感慨にふけってみる。道端で会うと、いつも声をかけてくれたっけ。

 東京の空は明るくて、そのせいか夜になった今でも景色ははっきりと見えた。 そこがあたしの故郷、久留米との違いだ。逆に言えば違いはそれだけしかない。

 どことなくのんびりした、東京らしくない農村の景色。向こうに積み上がってる森がざわざわと木を揺らして、また風のかたまりが畑を渡ってきた。もろに顔に受けたらしいクロが、にゃっ、って声をあげた。

 あたしは黙ったまま、そんな景色を眺めていた。きっと明日も見られるのに、この風景なんて。


 そうじゃない。

 なんか、違うんだよね。

 そう、誰かが心の中でつぶやいた。




 久留米の実家でのあたしの部屋は、ここと同じように一階の縁側に向いていた。

 視界を埋め尽くすのは、ただただ広い緑の世界だった。チョウが何羽も飛んでて、鳥のさえずりがいつも絶えなかった。

 あたしにとってそこは、画材の宝庫だった。スケッチブックと色鉛筆を手にして、縁側へ出るの。そうしたら目に入る世界の全てが、あたしの腕の中で描けてしまうような錯覚に囚われるんだ。

 あたしはそれが好きだった。何気なく咲いてる花も、その花びらに留まってる虫たちも、あたしは何にでも貪欲に手を出した。夢中になって描いていると、過ぎ去った時間と完成品の画用紙ばかりがあたしの隣には積み上がっていったんだ。

 達成感に包まれたあたしは、思ったものだったよ。こんな風に気楽に描いたあたしの絵が、どこかの誰かを幸せにできたらいいのにな、なんてさ。

 思えばそれが、あたしの画家を目指す気持ちの根源だったな。


 今は、違う。

 純粋だったあの頃のあたしとは、今のあたしはあまりにもかけ離れてる。

 絵をたくさん描きたい、それで生活したい。あたしが願ったのはたったそれだけだったのに、結局それはどちらも叶わなかった。でも今になって思えば、あたしにとっての『絵を描く』って行為の意味さえも今は変わってしまってる。あの頃は好きに描いていたけど、今のあたしが筆を走らせるたびに思うのは、これは売れるかな、とかいう雑念ばかり。

 きっとそれが、職業としての画家になるっていう事なんだろうな。画家は勢いでなれるものじゃない。まだ若かったあたしは、何も分かってなかったんだ。

 また丸くなったクロの背中を左手で撫でながら、あたしは残った右手の指で輪っかを作って、その中を覗いてみた。丸く切り取られた庭に、妙に蒼々とした草が生えていた。銀色の光が当たって、それが幽玄な影を作り出していた。


 あたし、年取ったな。

 唐突でなく、そう思った。




 すると、クロが動き出した。

 もそもそとしたかと思うとクロは立ち上がって、あたしの膝に乗ってきた。ああ、ってあたしは呻いた。クロがお腹すいたって訴える時のクセだ。

 でもなぁ、冷蔵庫の中身ももう、ほとんど何もないんだよな……。クロが食べられるようなモノが、残っていたかどうか。


「待っててね」


 クロを縁側に置いて頭を撫でると、あたしは冷蔵庫に向かった。すっかり忘れてたよ。冷蔵庫も中身を掻き出して電源落として、外に捨てにいくつもりだったのに。そんなことを思いながら、ばたんと冷蔵庫の扉を開いた。

 ぱっと庫内灯が点った。わっ、まぶしい……。

 暗闇に慣れすぎた目は役に立たなくて、あたしは固く目をつぶって手探りで中身を漁った。あ、何かあった。カップに入ったアイスクリームだ。

 いつから入ってたんだっけ……。ま、いいや。賞味期限の確認もせずに、あたしは冷蔵庫の扉を閉めた。賞味期限ならきっと、あたしっていう人間よりは過ぎてないだろうし。


「はい、クロ」


 蓋に少しアイスを分けて、クロの前に置く。にゃん、ってクロはうれしそうに鳴いた。あたしも隣に座って、膝の上にカップを乗せた。ショーパンから伸びる貧相な足が、アイスの温度で溶けちゃいそう。

 この家で口にする、たぶん最後の夜食。それも、クロと一緒に。


「いただきます」


 スプーンにアイスをすくうと、あたしは何の考えもなしにそれを口に運んだ。



「────────ッ!」



 冷たっ!


 強烈な打撃が歯の神経を一瞬で叩き潰して、あたしの脳天にまで達した。

 やばい、頭の奥がキーンって鳴ってる……。思わず後ろに倒れて仰臥したあたしを、クロが不思議そうな目付きで眺めてる。

 庫内が空っぽだったからって、いくら何でも冷やされ過ぎでしょ……。あたしはアイスはそこまで苦手じゃないけどさ、今の一撃で嫌いになりそうだよ。

 ギンギンと染み渡る冷たさに顔をしかめて、心の中だけにぼやいてみる。



「…………」


 口の中に残った甘さを喉に押し込んだあたしは、アイスのカップを脇に置いた。

 そうして、仰向けになったまま、縁側の上をおおう空へと目を向けた。


 気付かなかったよ、今の今まで。今日、満月だったんだ。

 あたしの見上げる先にあったのは、大きな大きな真ん丸のお月さまだった。


 隠すほどの事じゃないけど、満月はあたしがあらゆる月の中で、一番に好きなタイプの形なんだ。

 よく三日月に乗ってみたいっていう人はいるけど、あたしからすれば満月の方が魅力的に感じる。だって三日月にまたがるのは痛そうだけど、満月の中に入り込んでゆったり過ごすのは幸せそうじゃない?

 昔、そんな絵も描いた事があったっけ。また起き上がってアイスを口に運びつつ、あたしはぼんやりした目でまだ月を眺めていた。朧な色に霞んだ月は、心なしかいつもより湿っぽくて、いつもより柔らかだった。


 そうか。

 その絵、まだこの家にあるかもしれないな。




 にゃう……。

 クロが哀しそうに鳴いてる。


「どうしたの?」


 アイスを食べ終わったあたしが覗き込むと、クロはしょんぼりと耳を下に垂らしていた。あれ、蓋のアイス、まだぜんぜん減ってない……。

 もしかして、冷たいのって苦手だったかな。


「ごめんね、クロ。忘れてた」


 軟らかい頬を撫でてやると、クロはあたしの指にじゃれついてきた。何も口にしてないのに、食欲は収まってるみたい。

 ちょうどいいや、とあたしは思った。クロの分のアイスが溶けるのを待つ間に、昔描いた絵の整理とかもしておこう。東久留米に来てから三年間、一枚も売れずに残った絵の全ては、うちの押し入れの中にまだ眠っているはずだから。


「待ってて、クロ」


 そう言うとあたしはのろりと立って、後ろを振り返った。冷蔵庫の庫内灯が消えた四畳半の部屋が、何だか余計にがらんどうに見えた。


 押し入れのふすまを、頑張って開ける。


「重……っ……」


 うんうん言いながらやっと開くと、いきなりドサドサって絵が落ちてきた。この子たちが引っ掛かって、開きにくくなってたらしい。

 これだ、とあたしは一枚のキャンバスを手に取った。金色に輝く月夜の下、暗い黒色に沈んだ街が静かに眠っている絵。確か二年前くらいに、駅前の屋外テラスに座って描いたやつだったか。ああ、そうだ。『富士見テラス』だ。

 見れば見るほどに、それは今日の満月に似ていた。切ない色に輝くあの姿が、キャンバスの布のすき間から染み出してきそうなくらいに。

 あの日のあたしと今日のあたし、気分はきっと全然違っただろうにな。

「ふふ」

 バカにしたみたいに笑ったあたしは、他の絵にも手を伸ばした。

 油絵の具や鉛筆のデッサン、絵コンテ。色んな描き方であたしの腕を試した跡が、ばらばらと足元に散らばっていた。ここ東久留米に来てから描いた絵は、確か全部で五十枚くらい。数えてみたら、きっちり全て残っていた。

 ああ、懐かしいな。あたし一時期、カッパの絵とか描いていたっけ。東久留米市内には何ヵ所かカッパにまつわる言い伝えがあるらしくて、それを題材にして描いた絵が何枚かあったんだ。人々が行き過ぎる道路の上に突っ立ってるカッパの姿とか、近所の川の水面に夜半にこっそり顔だけ出してるカッパとか……。


 しばらく夢中になって、あたしは絵を眺めていた。

 どのくらい時間が経っただろう。時計がないから、誰にも分からないけど。


 描いた順に眺めていくうちに。

 あたしは何となく、目を細めていった。


 過去作をさかのぼればさかのぼるほど、絵の出来は悪かった。そりゃもう、目を覆いたくなるほど悪かった。線はまっすぐ引けていないし、色の塗り方は雑だし。

 でも、たった一つだけ。過去になるにつれて、あたしの絵には段々と籠っていくモノがあったんだ。

 何だろう、熱意なのかな。絵は下手だけど、『これを描きたい!』っていう強い気持ちを感じるんだ。最近の絵には何一つ残ってない、そういう溢れだしそうな欲求が、昔の絵からはいっぱいににじんで溢れそうになっていたんだ。

 やっぱり、あの頃は夢中で、わくわくして、楽しかったんだな。あたし……。

 改めて、そう思った。

 やっぱり今のあたしじゃ、昔のあたしには戻れないや。



 にゃあ。

 縁側から聞こえてきたクロの鳴き声で、あたしは我に返った。思わず慌てて、持っていたキャンバスを裏返した。


 裏返しざま、苦々しく吐き捨てた。

 ……あの頃、あの頃って。何なのよあたし、今さら。

 決めたんじゃない。実家に帰ったら、もうこれからは真面目に働くんだって。明日からは画家じゃなくて、一般人の『黒目瑠衣』になるんだって。

 こんなのがあるから、未だに思い出しちゃうんだよ。縁側に広げていたキャンバスや画用紙を、あたしは広げた腕でかき集めた。どうせ家には持って帰れないんだから。今、捨ててしまおう。こんな負の遺産(レガシー)

 ごみ袋を取ってくると、かき集めたそれをまとめて掴んで中にガサガサと押し込む。力を入れている間は神経が手に集まるから、紙が破ける音には耳を傾けないで済んだ。

 でも、袋の口を縛ろうとしたところで、あたしはふと手を止めた。なにも何もかも捨てなくたっていいじゃない。お気に入りの一枚だけ、手元に残しておこう。そう思ったんだ。

 せっかく入れた絵たちを袋から出して、また眺めてみる。どれがいいだろうとめくっていくと、すっとクロの丸い手が伸びてくる。


『にゃ!』


「これがいいの?」


 キャンバスを取り上げて、あたしはクロに尋ねた。それは何の偶然か、一番最初に描いたあの満月の絵だ。

 クロは機嫌良さそうにお座りして、しっぽまで振っている。

 いいか、と思った。思い入れもあるし、何より『描きたい衝動』を一番に感じられるしね。


「ありがとうね、クロ」


 柔らかな頭をそっと撫でてやると、クロは気持ちよさそうに目を閉じる。クロとキャンバスを縁側に残したまま、あたしは他の絵たちをもう一度袋の中へ戻して、今度こそぎゅうっと口を縛った。

 邪気でも封印したような不思議な快感が、あたしの周りを虚しく漂っていた。



 がちゃり。

 錆び付いた扉を開けて、外へ出る。

 東久留米がいくら都心から離れていたって、道路に出てしまえばそこはもう立派な都会だ。だってこんなに建物があるんだもの。人の目があるんだもの。

 絵なんて持っているのを見られるのは恥ずかしいから、さっさとあたしはゴミの集積所に向かった。そうしてゴミ袋の山を少し崩して、間に絵たちを強く押し入れた。

 ぐしゃぐしゃっ。

 今度は聞こえてしまった、絵たちの悲鳴。でもあたしは意外と、そこまで動揺したりもしなかった。

 いいのよ。旅の恥は掻き捨て。この子たちはどうせ売れも評価されもしない、決定的なあたしの『恥』なんだから。

 恥にならないで済むのは、クロの選んでくれたあの一枚で十分。あれさえあればあたしは、『元画家』でいられるから。

 説明不能なこの心の静けさに、あえて解釈を付け加えるなら、こんな感じになるのかな。東京の空気を目一杯吸い込んで、あたしは深呼吸する。明日以降のあたしには二度と味わえない、冷たくて変な臭いがして、でもちょっと心地のいい空気。


 明日も明後日も、それよりずっと先も。

 あの満月の絵があれば、あたしは今の気持ちを思い出せるかな。



「大丈夫だよ」


 あたしは夜空に向かって自答していた。


「きっと、大丈夫」





 歯をちょっと食い縛った、その時だった。


 ばりばりばりっ。

 どこからか、布が裂けるような痛々しい音がした。

 あたしはぎょっとした。今の音、あたしの部屋からだったような気がする。クロが服か何かでも漁ってるんだろうか?

 どっちにしろ、止めさせなきゃ!

 ゴミ袋を最後に一瞥したあたしは、駆け足で部屋へ戻った。汚いドアだな、って思ったのも一瞬。


「クロ? 何してるの?」


 声をかけながら居間に入って、あたしはその場で立ち止まった。


 クロが、破いていたんだ。

 あたしがたった一枚だけとっておいた、あの満月のキャンバスを。


 なんてこと!?


「クロ!!」


 駆け寄ってきたあたしを見上げるクロの瞳は、怖いくらい澄んでいた。あたしはキャンバスをもぎ取って、月の光に翳してみる。真ん中のあたりに爪を立てられて、画面はびりびりに破れていた。

 どうして、クロはどうしてこんな事を……!


『にゃあ』


 膝立ちのあたしに頬をすり寄せてくるクロを、あたしは無意識に指で払いのけた。クロはびっくりしたみたいに飛び退いて、あたしのことをじいっと睨み付ける。

 睨みたいのはあたしの方だよ。なんで? どうして? 教えてよ、クロ……!

 真っ二つに切り裂かれた満月が、画面の上で悲しいくらいに輝いていた。あたしはしばらく呆然としたまま、途方にくれてキャンバスを手に立ち尽くしていた。


 無くなった。

 あたしがあたしであったことを遺してくれるものが、

 全部、無くなった。





「う…………」



 涙がじわりと浮かんだ。

 こんなのってないよ。心の中で叫んだら、また涙が溢れだした。

 どうしようもなくなって、あたしは泣き出した。もはやただの布切れになったキャンバスを抱いて、流れ出す涙を必死に腕でせき止めた。でもそんなのじゃ、濁流みたいに溢れ続ける涙には何の抗力もなかった。

 何なんだろう、あたしって。泣きながら笑えてきた。さっきあんなに絵を捨てたくせに、たかが一枚破けたくらいでこんなに嘆くなんて。



 ……違うよね。


 その時、あたしの声をした誰かが、耳元でそうささやいた。


 違う。

 絵が破れたからじゃない。クロが裏切ったからでもない。

 あたしが泣いてるのはきっと、これまでずっと泣けないでいた分の涙が、一気に溢れただけなんだ。


 一千万もの人がひしめく東京の街に、伝手も支えもなしに飛び込んだあの日から、あたしの周りはいつだって先の見えない不安と恐怖で紫色にくすんでいた。

 思えばあたし、泣きたくなるような目になんてたくさん遭ってきたのに、泣いたりしたことは一度もなかった。夢を追いかけて独り東京に出てきた身で、人前で泣くなんて恥ずかしかった。どんなにつらい事があっても、涙だけは懸命にこらえて生きてきた。

 そっか……。あたし、もう東京を去るんだから、もう感情のままに泣いていいんだな……。


 漏れる嗚咽が気持ちよくて、あたしは長いこと泣き続けた。

 そのたびに、口に出せなくて圧し殺されてきたあたしの声を何度も聞いた。『こんなのってないよ』、『どうして』、『こんなはずじゃなかったのに』──って。

 心の表面にくっついたカビが、どんどん剥がれ落ちていった。立っているのもつらくなって、あたしは縁側に寝転んだ。涙でぐしゃぐしゃの視界に、不安そうに顔をのぞき込むクロが映った。


「──さっきは怒って、ごめんね」


 頬を撫でてあげると、クロは哀しそうに鳴いた。そんな顔しないでよって、あたしは泣きながら微笑んだ。


「クロのお陰であたし、泣けたんだよ。ずっと我慢してた涙を流し切って、故郷に帰れるんだよ」


 今度は気持ちが伝わったのか、クロはあたしにじゃれついてきた。そうそう、そうでなくちゃ。甘えん坊のクロがいつだって相棒みたいに側にいてくれたから、あたしは今まで頑張れたんだ。


 ありがとう、クロ。

 ありがとう、あたしの絵たち。

 ありがとう、東久留米。ありがとう、東京。


 たった二年間だけでもあたし、夢みたいな日々を過ごせて楽しかったよ。

 これだけは、強がりじゃないからね。




 うるんだ瞳に浮かぶ、真ん丸のお月さま。

 ……あたしは起き上がって、また押し入れに向かった。もしかしたらと思って手で漁ると、案の定そこにはキャンバスが一枚、手付かずの状態で残っていた。ふっとアイデアが浮かんだ時、いつでも手に取って描けるように、奥の奥の方に必ず一枚忍ばせてあったんだった。

 水の止まった蛇口を通り過ぎて、冷蔵庫から飲料水のペットボトルを取り出す。手にしたパレットに水を少し注いで、あたしはクロと破れた絵のもとに戻った。裂けた満月に手をかざしながら、クロが首をかしげている。


「破れちゃったから、描き直そっか」


 あたしはそう言って、そっと笑った。クロが、にゃあ、と鳴いた。


 絵の具に染まった筆を、さらさらとキャンバスになする。せっかくの涙が流れ出してしまわないように、あたしはキャンバスを掲げながら絵を描いた。

 描くのは同じ満月でも、見え方は全く違う。今のあたしに見える月は、あの日のそれに比べれば情けないくらい縁が歪んで、でも一層まぶしくなっているから。

 一時間くらいで描きあがった。どうよ、とあたしはクロに新しい月を見せる。ねえクロ、あたしの思いも境涯も、巧いこと描けてると思わない?


「『dear tear』なんてタイトル、どうかな」


 にゃお、ってクロは賛成してくれた。

 明日、帰り際にアトリエに寄って、あたしをけなしてくれた先生に押し付けて来ようかな。

 どんな反応をされるかな。また下らない絵を、とか言い出したなら、鼻で笑ってやろう。



「さよなら、あたし」



 キャンバスを置いたあたしは、大の字になった。

 最後の涙が、頬をつうと伝った。






 夜が、更けていく。


























 次の日、宣言通りに押しかけたアトリエで先生に『dear tear』を投げつけたら、見た事もないような顔と声と態度でべた褒めされた上に無理矢理賞に応募させられて、しかもそれがことごとく選考を通過した挙句に審査員特別賞を射止め、専門誌の端にすら載らなかったあたしの名前が受賞の件で全国紙にでかでかと掲載されて日本中に瞬時に知れ渡り────────。



 そんな未来、あたしはまだ、知らない。














「夢破れて故郷へ帰還」というタイプの作品は、本作が二つ目になります(一作目は里見ケイシロウ氏(170064)の企画に参加するため執筆したものです)。

今回はあえて東京に残っている時の視点で書いてみました。シリーズ「東京愛徒」に組み込みたかったからという事情もありますが、こうすれば「諦めた夢のかけらに、去り際にふっと触れてみる」という事が出来ると思ったからでした。


夢と仕事は、現実には繋がらないものなのかもしれません。

でも、夢を持てなくなってしまった人は、とても悲しいとも思うのです。


本作の主人公が、いずれ他の作品で登場する可能性もあります。ぜひ覚えておいていただけたら幸いです←


蒼旗悠

2015/08/06

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