5話
意識の底で、パキンと音がして何かが砕け散った。
粉々に欠片となったそれは溢れ出てきたものに押し流され、埋め尽くされ、やがて見えなくなっていく。
それがなんだかひどく惜しいような気がして彼は手を伸ばしたが、小さな欠片の数々は彼の指にかかることなくすり抜けていった。
***
ズキン、ズキンと頭が痛む。
寝返りを打ってうめき声を上げた。昨夜は慣れない酒でも飲んでしまったのだったか。それとも風邪の引き始めか。
枕に顔をうずめたまま大きく息を吐くと、頭痛は少し和らいできた。
腕をついて身を起こし、上げた視界で感じたのは強烈な違和感。
「……ここは?」
いつもより固いベッド。木と草の香りのする小さな部屋。知覚するすべてから、ここが自分の部屋ではないことを認識する。それなのに、全く知らない空間であるはずのこの部屋がどこか自分の体に馴染んでいるような気がするのが気持ち悪かった。
ゆっくりと床に下り立ち、自分の姿を見下ろす。生成りの簡素な寝巻き。
眠る前の自分は何をしていたのだったか思い出そうとするが、まだ少し残る頭痛と相まって頭がはっきりしない。
(……拐かされたのか?)
心当たりならある。彼は革新派筆頭ローン家の子供だ。
彼を人質にしたところで父母がおとなしく要求を飲むかまでは分からないけれど。自分を攫うとしたら、下手人は間違いなく保守派の人間だ。
しかしそれにしては奇妙だ。この部屋には小さいながらも開閉式の窓があるし、そこには錠が取り付けられていない。薄っぺらそうな木の扉にも鍵穴はない。普通、人間を閉じ込めるのならば窓のない空間に押し込めて扉には厳重に鍵をかけるはずだろう。
おまけに彼は魔力封じもされていないようだった。金銀の髪を持つ人間が詠唱一つで転移魔法を使えることなど常識とも言えることなのに。
彼はぐるりと部屋を見渡して、小さなテーブルに置かれたふた揃いの服に目をとめた。片方は今着ている寝間着とそう変わらない、簡素な服。もう片方は見覚えのある自分の服だった。
何も仕掛けられていないことを確認して、彼は自分の服を手に取った。
そして着替え終わってから首を傾げる。
丈が短い。袖が足りない。着られないことはないが、随分と窮屈に感じる。一日にしてそんなにも背が伸びたとでも言うのだろうか。
不可解なことばかりで思考の淵に沈んでいると、コンコン、と扉が叩かれる音がした。
彼は軽く身構えて扉に視線を向ける。
「――起きていらっしゃいますか」
扉の向こうから聞こえたのは、およそこの状況には似つかわしくないような少女の声だった。
「あなたはここの森で倒れていました。それが、半年と少し前です」
大きめのローブのフードで目元までを隠した少女は彼の向かいに座って淡々と言葉を紡いだ。二人の間のテーブルにはパンとスープ、それからとれたての果実。しかし二人ともそれに手をつけようとはしない。
「気絶していたようなのでこの家まで運びました。首の後ろに移動魔法陣が刻まれていたので魔力切れを起こしていたんだと思います。その日の夕方ぐらいには目を覚ましましたが、あなたは記憶を全て失っていました。忘却魔法がかけられていたようですが、魔力痕が隠されていたので私では解除できませんでした」
「では、何故」
「少し前から、眠っている間だけ魔力痕が浮かび上がるようになりました。おそらくですが、あなたの深層意識が何らかの働きかけをしたんだと思います。それで私がその綻びにつけ込む形でようやく昨夜解除することができました」
それからの彼の質問にも少女はよどみなく淡々と答えた。
話を全て聞き終わった彼はしばらくの間何も言えなかった。
いつも通りに目が覚めたと思えば知らない場所にいた上に、半年以上の記憶が失われているのだ。状況を理解することで精一杯である。
(……でもまあ、そこまで驚く話でもないな)
そう、少女の話は突拍子のないものではあったが、嘘ではないだろう。目覚めてすぐにも思ったように、心当たりならいくらでもある。
おそらくこれは取引ではなく、単純に脅しか警告を目的とした誘拐だ。それならば体に陣を刻んで極限まで遠くまで転移させたのも、記憶を塗りつぶしたのも納得できる。力ずくで奪い返されないために、手元で監禁せずにあえて遠くへ放ったのだ。だとすれば、奴らにとっての誤算は彼を拾ったのが魔法使いであったこと、そして彼の魔力を完全に封じることができなかったことか。
解除をしたときに魔法にかかっていた間の記憶を一緒に消し去る忘却魔法。そんなものは彼の知る中では一つしかない。
「『忘却の蓋』だったのか? 私にかけられていたのは」
「……そうです」
そうか、と彼は頷いた。
「――礼を言う。あなたに拾われなければ私は記憶を失ったまま下町をさまよっていただろう。私はローン家の次男でディルド・ローンという。あなたの名を聞いてもいいか?」
「名乗る程のものではありませんので」
「だがあなたは私を助けてくれたのだろう。すぐには無理だが、いずれきちんと礼をしたい」
「いいえ」
少女はきっぱりと拒絶した。その声の硬さに彼は思わず息をつめる。
「私は確かに記憶のない少年を拾いました。でもあなたがそれを気にすることはありません。私が助けたのは、今のあなたではないんですから」
「……わかった。今はあなたの意思を尊重しよう」
それから彼は少女に勧められるままに朝食をとった。少女も目元を隠すフードはそのままに、パンをちぎって小さな口に入れる。
「見知らぬ」少女と向かい合って無言の食事だというのに、それは奇妙なほど心地よい時間に感じられた。