2話
私が拾った少年にはどうやら記憶がないらしい。
どんな質問をしても首を横に振って、名前すらもわからないと言う。
多分だけれど、彼には相当強力な忘却魔法がかかっているんじゃないだろうか。頭に外傷なんかなかったし、それに魔力痕はないけど、頭部を中心にどこかうっすらと魔法の気配がする。でも私程度の力じゃとても解除できそうには思えない。メルリならできたかもしれないけど。
私は彼を、しばらくの間手元に置くことに決めた。
普通に目覚めて出て行ってくれたならそれまでで済んだだろうけれど、流石に記憶をすっかり失くして行く宛のない人間を放り出すわけには行かない。
それに、森の生き物はむやみに拾わない、拾ってしまったら最後まで面倒を見る、という師の教えもある……拾ってしまったのは人間だけど。
さて、一緒に暮らすとなればまずは名前が必要だ。残念ながら私には名付けのセンスなどというものはないので適当に庭にある植物の中から名前を選ぶことにした。
「リトン、ね。あなたの名前。いい?」
秋になると白くて甘い果実をつける果樹の名前。響きも悪くないし、どうせなら私の好きなものの名前をつけた方が呼ぶ方としても気分がいい。
きっと彼には生まれ持った本当の名前もあるのだろうけれど――私の言葉に頷いたその時から、彼は「リトン」になった。
***
「シル、これってシャム草っていうので合ってるのか?」
「それはシャム草によく似てるけど別の草だね。致死性の猛毒で食べたりしたら数分以内に死ぬやつだから気を付けて。葉の切れ目がちょっと鋭いのが特徴」
「そっか。気を付ける」
「ああ、でもそれ捨てないでね。少量だったら薬に使えるから。そのシャム草モドキは意外と稀少なやつだし」
「わかった」
リトンは素直に頷いてシャム草モドキを籠に入れた。そしてまた地面に目を落として薬の素材に使えそうなものを探し始める。
――リトンと共に暮らすようになってから早ひと月。
私はリトンに森での生活のことや色々なことを教えながら、何事もなく平穏な日々を過ごしていた。
よくわからない事情を抱えていそうな彼を拾ったせいで、もしかしたら厄介なことに巻き込まれる可能性も一応は覚悟していたのに。少なくともこのひと月の間は、拍子抜けするぐらい何も起こることがなかった。
既に一度リトンを連れて街に出てみたりもしたのだが――彼を知っている人に出くわすことも、変なトラブルに巻き込まれることもなかった。リトンが貨幣の使い方や街の歩き方まで忘れてしまっているということが発覚したぐらいだ。
それにしてもリトンは本当に「いい子」だと思う。同じ年頃の相手にそんな言葉は似合わないかもしれないけど、彼を評価するのにこれほどふさわしい言葉はない。
私の教えることは何でも素直に信じて呑み込んで、少しでも私の役に立とうと一生懸命にできることを探そうとしてくれて。そんな様子を日々見せられていれば何やら母性のような情が芽生えてしまうのも当然のことだろう。
それに久し振りの誰かと共にする生活も、思ったより悪くない。
十日もすればむしろ彼のいない生活の方にこそ違和感を覚えるようになってきたのに気付いて、そんな自分に苦笑する。
もしかしたら今まで気付いていなかっただけで、私はずっと寂しいと思っていたのかもしれない。
「――そろそろ帰ろうか、リトン」
鬱蒼と茂る森の中は日暮れが早い。樹の影が濃くなってきたと思ったら真っ暗になるまであっという間だ。一応魔法で明かりを灯すこともできるけど、夜行性の獣の中には危険なものもいるからできるだけ早く帰ったほうがいい。
私たちは今日の収穫を入れた籠を一つずつ抱えて帰路につくことにした。
腕が触れ合うほどの距離で隣に並んで、道をよく知っている私がほんの少しだけ前に出る。
採取に夢中になっているうちに思ったより遠くまで来てしまっていたようだ。完全に日が落ちるまでには帰り着くだろうが、徐々に足元が見え辛くなってきた。
こんな風に二人でただ道を歩くとき、先に口を開くのはいつもリトンの方だ。そしてそれは大抵の場合疑問の形を取っている。何もかもの知識を忘れてしまったリトンから疑問の種が尽きたことは一度もない。リトンが訊ねて、私が答える。それが常のことだった。
「――なあシル、俺が迷惑なのだったら、いつでも言ってくれていいからな」
だからこんな風に問いじゃない言葉を、しかも感情を押し込めたような声で紡がれるのはとても珍しいことだ。
突然どうしたのだろう、と私は不思議に思って隣を歩くリトンを仰いだ。薄闇が下りた中では彼がどんな表情をしているかまではよくわからない。
リトンはさらに言葉を続けた。
「こんな得体の知れない俺を置いてくれて、何もかも教えてくれて本当に感謝してる。――でも、もう十分たくさんのことを教えてもらったし……シルの負担になるようだったらいつでも追い出してくれて構わないんだ」
ああ、つまりリトンは私が彼を疎ましく思っているのではないかと気にしているわけだ。
それはなんと言うか――なんて、今更な言葉だろう。
リトンは私がただの責任感のみで彼の面倒を見ているとでも思っているのだろうか。私は気に食わないものを自分の家の中に置いておけるほど出来た人間ではないというのに。
「私はリトンを迷惑だなんて、一度も思ったことはないよ」
これは本当のこと。本当に迷惑だと思っていたら、記憶がなかろうが子供だろうが問答無用で森から叩き出すに決まっている。
「でもリトンはここから出て行きたい? だったら私は止めたりしないけど」
「そういう訳じゃない。行く宛もないし……これからもシルのところにいることを許してくれるなら、嬉しい」
だったらリトンが気にすることなんて何もないだろうに。
「リトンは好きなだけここに居ていいんだよ」
何なら一生ここで暮らせばいい。リトンを家に置くと決めた時点でそんなことはとっくに考えに入れている。
掛けられた忘却魔法のせいか、リトンは魔法が使えないようだから弟子にするわけにはいかないけど。
「もしこの先記憶が戻っても、それでもここにいていいのか?」
「リトンがそうしたいのなら、もちろん」
だって私は、そう躊躇いなく言ってしまえるぐらいには、もう彼を好いてしまっているのだから。