1話
彼を見つけたのは春一番の嵐が去った翌日のことだった。
雨上がり朝にはいつもと違う発見があることが多い。その時しか見られない虫とか薬草とか珍しいキノコとか。だから私はその日も採取用の籠をもって探索をしていた。
(あれは――もしかして、人間?)
木の陰に隠れてよく見えないが、おそらく人の形をしたものが木の根元に倒れている。私は音を立てないよう気をつけながら、慎重に足を運んでそれに忍び寄った。
やはり人間だ。しかもまだ成人していない少年のように見える。
ぬかるんだ地面にうずくまるようにして身を横たえ、私が足音を消すのをやめて更に接近してもぴくりとも反応しない。気を失っているのだろうか。
旅の途中で具合を悪くしたとかなのだったら介抱くらいしてあげてもいいのだが、その前に一つ気がかりなことがあった。
(仕掛け――鳴っていない、よね)
森に踏み込む者があれば、手元の鈴が鳴ることで知れるように仕掛けた魔法。それが今回は作動しなかった。
そもそも昨日は夜中まであんなに荒れていたのに、その翌朝こんなところで倒れているなんて。絶対に、おかしい。
これがもし屈強な成人の男だったりしたら私は迷わず放置することを撰ぶだろう。だけどここにいるのはどう見たって私と同じぐらい、15かそこらしか年を重ねていないような少年だ。
私は眉を顰めて足元の少年を見下ろした。全身ぐっしょり濡れて泥まみれ。このまま放っておけば、まだ寒さの残るこの時期、確実に体を壊すだろう。
長く逡巡することもなく、私は泥に汚れた腕を掴み上げた。
(だって、万が一、私のテリトリー内で死なれでもしたら寝覚めが悪いもの)
家に連れて帰って体を温めて、傷がないかだけ見てあげることにしよう。それで目が覚めたら森の出口まで送って行けばいい。
我が家に運び込んだ少年を湯に浸した布でぬぐってやり、手持ちの中でも大きめのシャツとズボンを着せてベッドに寝かせたのはついさっきのこと。
しばらくは意識を戻しそうにもなかったので、私は水場に彼の服を持って行って洗うことにした。
桶に水を張り、布を手で軽く揉む度にこびりついた泥が水を茶色に濁す。
(脱がせた時にも思ったけど、随分と高価そうな服ね)
この手触りはおそらく絹だろう。それに汚れていた時は分からなかったけど、この鮮やかな染色。上着の細やかな刺繍。どこのお坊ちゃんだろうと考えて私は深々と溜息をついた。
清拭の時に気付いた首の後ろの傷を思い出す。
普通にしていれば後ろ髪で隠れて見えないだろう位置にあった、あの傷跡。それ自体は数日で治癒するほどの浅いものなのだが、魔法学の手ほどきを受けてきたシルにはその傷が成す図形に唖然とした。
(――転移魔法陣だ。それを体に直接刻むなんて)
信じられない思いで傷跡にそっと触れると、魔力の残滓が微かに滲んだ。
(方角だけ指定して、到達地点が刻まれていない。これだと本人の魔力が続くぎりぎりまで遠くに飛ばされるはず。――ああ、でもそれで仕掛けが鳴らなかったのか)
私の組んだ魔法は森の境界を越えて中に入ってきた者にしか反応できない。彼が転位魔法で突然この森に出現したのなら作動しなかったのも理解できる。
そして身の内の魔力を使い果たした彼は、今は回復のために深く眠りについている状態なのだろう。
そのことを思い出した私はまた溜息を漏らす。立ち上がり、洗濯を終え汚れの落ちた服を庭のロープに吊してから室内に戻った。
彼はまだ目覚めていないようだ。
彼の枕元に椅子を運んでそこに座り、改めて彼の寝顔を観察してみる。
ありふれた茶色の髪。私の髪も茶色だけど、私よりはちょっと色が薄い。眦は少し垂れていて優しげな印象を与える。瞼は今の今までずっと閉ざされているから、その向こうにあるはずの瞳の色は不明。そして口元は何かを堪えるようにぐっと引き結ばれているように見える。
寝息も穏やかだし生命活動に支障が出るほど魔力をすり減らしているようには見えないから、遅くても今日中には目を覚ますだろう。そう願いたい。
先程気休め程度に回復魔法をかけてもみたけれど、変化は全く見られなかった。
そうこうしているうちに昼も近くなってきたので、軽い昼食を取ることにする。午後はまだ済ませていなかった家事の諸々をこなしながら考えに耽った。
(――あの転移魔法は誰が施したんだろう)
さっきから、それが一番気になっていた。だってあの陣が刻まれていたのは首の後ろだ。本人では絶対に手が届かないところ。
と言うか、そもそも体に直接転位魔法陣を刻むという行為が普通では考えられない。
本人が誰かに頼んで施してもらったと言うのならば別に問題はないのだが。体に刻むタイプの魔法はそれが頭部に近ければ近いほど効果が強いから、そうしないといけないような何らかの事情があったのだろう、と思う。――そんな事情、私には想像もつかないが。
だけど、やはり可能性が高いのは、彼を邪魔に思う何者かが彼を追い払うために施した、というやつではないだろうか。富裕層の人間の考えることはよく分からないけれど、そういう蹴落とし合いの世界があるってことぐらいは知っている。
(何にせよ、彼が目覚めてくれないとどうしようもないけど)
日が傾き始めて、今日の分の用事を済ませた私はまた彼のいる部屋に戻った。
寝返りも打っていないらしい彼は今朝から全く体勢が変わっていない。
椅子に座り直して顔を覗き込むと、僅かに瞼が震えているのに気が付いた。眠りが浅くなっている証拠だろうか。
そのまましばらく見守っていると、やがて、ゆっくりと瞼が持ち上がり――
「……こんにちは」
できるだけ人好きする笑顔を浮かべて、私は緑色の瞳にそんな声を掛けた。