引き鉄 一
一
西暦2018年2月のことであった。1発のミサイルが日本に撃ち降ろされた。そのミサイルは核を伴っていなかったが、落ちた場所が悪かった。発射した者が意図したのかわからないが、落ちた位置はピンポイントに日本の弱点であった。
西暦2014年に事の始まりはあるとされる。しかし、本当の始まりを遡ればもっと前であることは歴然としていて、誰かが始まりを決めたのは、そこに大きな原因があるとする、それこそ大きな責任転嫁かもしれない。この書は誰かを味方するものではなく、誰かを貶めるものでもない。ただ一人の視点から見た歴史であり、多分に空想を引き連れている。よって、視点は偏り、歪かもしれない。
西暦2014年、ある1つの集団が国家樹立を宣言した。名称をイスラム国としたその集団は多くの国から国家としての承認を貰えず、テロリスト集団として敵性のレッテルを貼られていた。確かにその集団の行動は一見非人道的に見られたが、本当にそうだろうかと考えた。敵性ということは、一方にもう一つの対立軸が存在するはずである。つまり、イスラム国と対立するもう一つの集団が存在するということである。文章の簡単のために、これをウエストサイドと呼ぶことにする。ウエストサイドに大きな影響を与えなければ、イスラム国もとるに足らない存在として無視されたはずである。ところが、ウエストサイドはイスラム国に対して大きな反応を示した。その反応はウエストサイドから見て敵性の資格充分であるように報復措置となって現われた。敵性として対立するものは価値観を異にすることが多く、今回もその例に漏れないようである。つまりはウエストサイドもイスラム国もお互いの価値観を主張するばかりで、相手を受け入れることをしなく価値観の交わりは無かったのである。その行動をもって悪であると断じ合っているだけで平行線を見るようであった。悪とは視点が変われば、正義になったりするものであるが、その両極が逆転しているような両者であった。
人は行動に理屈をもって言い訳をするようである。それは自分あるいは自分たちの正当化であることが多く、それを理性と呼んでいるように感じる。ところが、よくよく考えて見ると行動の起点は感情であって理性ではない。こうしたいとか、ああしたいとかいう思いが先にあって理性は後付けで追いかけてくる。理性が万人に共通のものであるならば、悲しむ人がどんなに減るものかと考えるが、残念ながら理性は万人共通の天秤ではないようである。地球上にただ1つの天秤が在って万人がそれに従うならば争いは起きないかもしれないが、天秤は無数に存在してそれが争いの種となっているのかもしれない。しかし、これは嘆くことではなく、受け入れるべきものであり、それが人の運命であろうかとさえ思ってしまう。
悲しみも感情であって、悲しみを産み出すものも感情である。感情を持たない者はいるであろうか、とは言わない。そもそも、そのことを知る手段を人は持っていない。剥き出しの感情を隠し、理性で行動するのが人であると教わって来たようであるが、それにどのような意味があるのであろうか。奥底に押し込めた感情であっても行動の起因となることに代わりはなく、理性が起因となる感情を押しとどめたとしても、その感情は消えることなくマグマ溜まりのように蓄積されていく。もっとも全ての感情が、マグマ溜まりとはならず発散されることが多いのであろう。しかし、マグマ溜まりの怖さは爆発するということである。
さて、理性の最たるものは法律であると考える。少なくとも法律は感情に優先される。そして、法律は人が作ったものである。個々の法律の産声を聞いてみると、そこには理性以外の声も混じっている。思惑という声が聞こえてくるのである。聞こえてくる声は言葉とならず、ただ感性に響くだけで何を言っているのかわからない。思惑が理性であるのか感情であるのかわからないが、いずれにしても自分以外の誰かのものである。法律の作成のためには選挙にいけと言われるが、それが嘘であることは感性が教えてくれる。理性では反論できないが、感性即ち感情は嘘であると叫んでいるのである。己の感性の叫びを聞いてみると全てが聞こえて来はしないが、叫びの1つは選挙も法律も強者が強者のために作ったもので弱者には“おこぼれ”しか恩得は与えられないというものである。ねたみ・そねみと言われようとかまわない。そもそも、ねたみ・そねみとは、人と人とを比べる人の性質であってなんら恥じる事のない感情である。人の世が完全な平等とならない限り産まれる当然の感情なのである。そして、完全な平等はありえない。
法律は大きな社会に発生する。自分一人だけならば法律は必要ない。少人数ならば約束とか決まりとか呼ばれる。何人以上から法律ができますという定めはないが、支配者が産まれた時に法律も産まれるのでないかと考える。それじゃあ、日本に法律が存在する理由は?と尋ねられたら日本にも支配者が存在するからであると答える。支配者と奴隷という構図を考えると確かに日本には昔のような奴隷は存在しない。民主主義であるからそうなのだと教えられたが、どうやらそうでもなさそうである。民主主義が最良だとは思わないが、仮に日本が民主主義国家だというならば、それは嘘ではなかろうか。どうしても金主主義国家ではないかと思ってしまう。幼き頃より産まれ育った日本という環境の中で民主も金主も同じであるという感性も育っている。つまり、民主主義と資本主義を混同していたのである。よくよく考えると民主と金主は違うと気付くが、自分の生活が許容範囲にあると気付き難い。
人はいくつかの社会に属しているが、属する社会の頂点は法律を持った社会とする。それは多くの場合国家であることが多いが、そうでなくともよい。国家は他の国家から国家としての承認が必要であるが、それを重視しない人は国際国家でなくともいいであろう。そして、国家に属した瞬間に敵を持つ。自分が怨んでいなくとも敵が現われるのだ。産まれ出た時から周囲の環境から敵がだれであるか教えられる。正義と言う名のもとに敵が産まれるのだ。
ここでふと気が付く。何が不満なのかと。自分に与えられた環境が悪いとは思っていない。自分が最低の恵まれていない人だとも思わない。しかし、ただ嫌なのだ。与えられているものが紛い物ではないか、自分は操られているだけではないのか、自分が判断できるだけの正確な情報は与えられているのか、など環境に疑心を持つことになった自分が悲しいだけだ。
結論として、どうでもいいやと考えるのが楽だと思うようになった。それではいけないと思いながらも、真っ直ぐな道が曲がって見えるのだから仕方がない。苦肉の策であるが、空想の中に光を求める。