洞穴のダビデ
アパートに帰宅してまもなく、私はひとつの違和感に気が付いた。
「……あれ?」
着ていたコートの裾が、ちょうど「コ」の字を引っくり返したようなかたちに四角く切り取られていたのである。
切れ味のいいハサミか何かで切り取られたのだろう、断面には目立ったほつれもなく、状況を忘れて感心してしまうほどきれいな切り方だった。着たとき膝裏にくる部分だったので、帰ってきて脱ぐまで気付かなかったのだ。
帰宅途中、実は通り魔にでも遭っていたのだろうか。電車の中、あるいは駅からの道のりのどこかで?
そこまで一息に考えた私だったが、すぐさま打ち消した。
そんなはずはない。だって、今日は優太郎に車で送ってもらったのだ。彼の家を出てから帰宅するまで、他人が入りこむ隙はなかったはず。
――とすると、これはきっと、あの子のしわざだ。
「…………」
決して小さくはないショックを受けながら、私はさっきまでいた彼の家でのことを思い出していた。
私が彼――芳賀優太郎と出会ったのは、ちょうど二年前。今の会社に入ってまもなくのことだった。
年上の先輩で同僚だった優太郎は、はっきり言って、とりたてて秀でたところのない普通の人だった。周囲から一様に「いい人」という評価を受けはするが、決してそれ以上にも以下にもなれない、いまいち冴えない男の人。ただひとつ他と違ったのは、私が入社する以前に奥さんが失踪し、行方不明になっているらしいという不穏な噂だけだった。
そんな彼と私は、すぐに年の差が気にならない仲のいい友人になり、それほど経たないうちに、互いに深く踏み入ることを許す間柄になった。
そうして、たわいもない話をたくさんしたり、時にはキスをしたり抱き合ったりもするやわやわとした期間が一年ほど続いて……つい先日、とうとう彼からプロポーズされたのだった。
プロポーズ。ひとりの男性から、結婚してほしい、と正式に申し込まれたのである。
その瞬間は、ただ純粋にうれしかった。しかし、私にとって彼の申し出は、うれしいと同時に二つ返事で答えるのを憚られるものでもあった。
「いまさら言うまでもないことだけど、俺には息子がいる。いなくなった女房が生んだ子ども」
行きつけの喫茶店で、いつもよりいくぶん低い声で彼はそう告げた。
そう、彼はいわゆる「コブ付き」だ。つまり、彼と結婚することは、自動的にその子の継母になるということに他ならないのである。
しばしの沈黙のあと、顔を上げてしっかりと頷いてみせた私に、優太郎は逆に手元のお冷やに目を落とした。
「ありがとう、エリ。でも、先に謝っておかなきゃならないことがあるんだ」
「謝る?」
「……実は、今すぐ籍は入れられないんだ。正式に結婚するには、あと四年は待たないといけなくて……」
深刻な彼の声色に、私は思わず笑ってしまった。驚いた彼が弾かれたように顔を上げ、目を白黒させる。
「知ってるよ。このあいだ、インターネットで調べたもの」
誰かが失踪して消息を絶った場合、七年間行方知れずのままであれば、すでに死亡したものとみなされる。正確にはその人の家族が家庭裁判所に申告してなされる判断なのだけれど、この「失踪宣告」がないと、その人にかかわる法律関係を整理することができない。
優太郎の奥さんが行方不明になってから、今年でまる三年になる。失踪宣告に必要な七年にはあと四年足りない。だから彼は、今の時点ではまだ奥さんとの婚姻関係を解消できていないのだ。
「いいんだよ。わかってて、今まであなたと付き合ってたんだから。すぐに結婚してほしいなんて思ってない。だからほら、今日のところはとりあえず婚約ってことでさ」
ね? と笑ってみせた私に優太郎は泣きそうな顔をしたが、やがてゆっくりと困ったような笑みを浮かべた。
かくして優太郎と婚約することとなった私は、今日初めて彼の家に招かれ、彼の息子――悠斗に引き合わされたのだった。
会社帰りに彼の家へ行き、夕飯を一緒に食べることになっていた。材料を買っていって、キッチンを借りて私がごはんを作る。幸い料理は得意なほうだからよかったけれども、初対面でそこまでさせてもらって大丈夫なのだろうか? 私の心配をよそに、優太郎はやっと息子に私を紹介できるというので、朝からずっとへらへらしっぱなしだった。
「ねえ、悠斗くん何が好きなの? どうしても食べられないものってある?」
「そんなにびびることないって。あいつ別に好き嫌いないし、エリの料理うまいから大丈夫だって。俺が保証する」
何を聞いても始終そんな調子だったので、私はいっこうに不安を拭いきれないまま、そのときを迎えることとなってしまった。
まったく、こんな調子でうまくやっていけるのだろうか……。
「初めまして、芳賀悠斗です。いつも父さんがお世話になってます」
――しかし、そんな私のもろもろの不安は、玄関先で挨拶してくれた少年の笑顔によって実にあっけなく打ち砕かれた。
「は、初めまして、倉科エリです。こちらこそお世話になっております……!」
今年中学に上がったばかりだという悠斗は、ほっそりと小柄で、やけに大人びた目をした少年だった。優太郎とはあまり似ていない。おそらくいなくなった奥さん似なのだろうが、笑ったとき片頬にだけえくぼができるのがなんともかわいらしかった。
悠斗に手伝ってもらいながら夕飯を作り、そのあと、三人で食卓を囲んでゆっくりと食べた。張り切りすぎてたくさん作ってしまったおかずを、二人は驚くほどの健啖ぶりを発揮して残さずたいらげてくれた。まるであつらえたように和やかで、幸せな団欒のときだった。
後片付けを終え、一番風呂に入ってくるという優太郎の背中を見送って、私は心底ほっとしていた。
よかった。これなら、なんとかやっていけるかもしれない。
これからこの家で、こうして二人のためにごはんを作って、掃除や洗濯をするのだ。彼の妻として、この子の母親として……。
大変そうだけれど、それはきっと、それなりに楽しい日々になることだろう。
――そんなふうに舞い上がっていた私に、直後、思いがけないかたちでいきなり冷や水が浴びせかけられた。
「ねえ、倉科さん」
リビングのソファに座ってぼんやりテレビを見ていたとき、視線はテレビにやったままで、悠斗がふいに私を呼んだ。
「エリでいいってば。なあに、悠斗くん」
「じゃあ、エリさん。あのさ、ごはんのときから、ずっと聞きたかったことがあるんだけど」
「んー?」
同じくテレビを見つめたまま返事をした私の耳に、悠斗のボーイソプラノがするりと滑りこんだ。
「あんた、もう父さんとは寝たの?」
バラエティ番組の喧噪が、すうっと遠のいていくのがわかった。
ゆっくりと首を巡らせると、間を空けて隣に座っていた少年と目が合う。
悠斗はさっきまでの愛想のよさが嘘のように、ひどくつめたい瞳で私を見据えていた。
「って、聞くまでもないか、そんなの。一年も付き合ってて、寝てないほうがおかしいよね」
唖然とする私に構わず、少年は言葉を続ける。けらけらと笑いながら。
「いいよ。ほしいならあげる。別に僕のものってわけじゃないしね、父さんは。遠慮することないよ。財産だって、ほしいなら全部持っていってくれて構わない。全部あんたの好きにすればいい。……ただ、さぁ」
ぞっとするほど冷めきった目をして、悠斗はあけすけな言葉を口にする。
「ただ、お願いだから、この家には入ってこないでほしいんだよね」
「悠斗くん……」
私がかすれた声を発したそのとき、優太郎が戻ってきた。
「ただいま。エリ、次入っていいよ」
パジャマ姿の優太郎の登場によって、ふたたびさっきまでの和やかな空気が帰ってくる。
「ちょっと父さん、僕のこと忘れてない? 僕も早いとこ入りたいんだけど」
「おまえなあ、こういうときはお客さん優先だろうが」
「えー」
打って変わって屈託ない調子に戻った悠斗に、私はとまどいを隠すことができない。
「エリ? どうかした?」
優太郎の不思議そうな声にはっとして、私は曖昧な笑みを浮かべてみせた。
「……ごめん優太郎。やっぱり私、今日は帰るね」
「え? 明日休みだし、泊まってくって言ったじゃんか」
「ちょっと急用。さっき実家から電話があってさ……」
とっさに適当な嘘でごまかしたが、悠斗は何も言わなかった。優太郎は残念がりながらも急いで着替えてきて、車でアパートまで送ってくれた。
「おやすみなさい。またいつでも来てね、エリさん」
笑顔で送り出してくれた少年のまなざしだけがひややかで、まっすぐ見つめ返すことができずに、私は芳賀邸を後にした。
――そんなこんなで、帰宅してみたらこんなことになっていたのである。
一体いつやったのかは見当もつかないが、おそらくはあの悠斗が、私のコートの裾を、ハサミか何かでこんなふうに切り取った……。
台無しになったコートを抱えたまま、私はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
あの子は、私と優太郎の結婚に反対なのだろうか。
あの態度の豹変に加えて、この仕打ち。優太郎が一緒のときはにこやかだったとはいえ、どう考えても好意的とは言いがたい。
私のことをよく思っていないというなら、優太郎に直接言えばどうにかできるだろうに。私は今のところ単なる恋人にすぎないけれど、悠斗はなんといっても血の繋がった家族なのだ。優太郎が私を軽んじるなんてことはないだろうが、悠斗が本気で私を嫌がれば、どちらをとるかは目に見えている。
かたわらの携帯電話が優太郎からの着信で震えていたが、いま彼と話をする気力はなかった。考えれば考えるほど暗い未来が見えてくるようで、私はコートを床に放って着の身着のままベッドに倒れこんだ。
翌土日は優太郎からのメールをやり過ごしつつ、だらだらと無為に過ごした。
「エリ……もしかして家に来たとき、何か気に障った?」
月曜日、違うコートを着て出勤した会社で、優太郎が不安げな顔をして聞いてきた。
「ううん、別に……」
悠斗のことを話さなければと思うのに、ついつい当たり障りのない答えを返してしまう。
「言いたいことあるなら何でも言ってよ。これから一緒になろうってんだから、秘密はできるだけ少ないほうがいいだろ」
本当にその通りだ。
しかし私は結局、彼に肝心なことは何ひとつ言うことができなかった。優太郎は、自分の息子が私を嫌っているなどとは微塵も思っていないようなのだ。それだけ信頼している、というか、盲目的に愛しているのだろう。そんな彼に、悠斗についての悪い話をしようという気にはなれなかった。
「でさ、よかったら今夜もうち来ない? 悠斗のやつが、またエリさん連れてきてーってうるさいんだよ」
「……悠斗くんが?」
「そう、悠斗が。明日はうちから出勤するってことでさ、どう?」
断る理由が見つからず、結局なんの解決も図れないまま、ふたたび悠斗と対面することになってしまった。
このあいだと同じように会社帰りに芳賀邸へお邪魔する。内心かなり身構えていたのだが、予想に反して悠斗はまだ学校から帰っていなかった。
「悠斗くん、何の部活に入ってるんだっけ?」
「美術部。いつもけっこう遅くなるんだよ。こないだは、おまえが来るって言っといたから無理して抜けてきたの」
優太郎と二人きりでたたずむリビングは、三人のときとはまた違ったふうに感じられた。広々として開放感があるが、どことなくものさびしい。すみずみまで掃除が行き届いていて清潔なのは、休日に悠斗がひとりでがんばっているからだそうだ。父さんはぶきっちょだから手伝わなくていいって怒られちまってさあ、といつか優太郎が苦笑とともに語ってくれたから知っている。
「ところで、私、どこで寝ればいい? 優太郎と一緒で大丈夫?」
ふと気になって訊ねると、予想外の答えが返ってきた。
「あー、俺はここで寝るから、エリはそこの突き当たりの客間使って」
「客間……?」
夫婦の寝室には通してくれないのかと、ほんの少し残念な気持ちになった。聞き返した声に不服さがにじみ出てしまったのか、優太郎がすまなそうな顔をする。
「ごめんな。実は二階の寝室、もう長いこと使ってないんだよ。俺もいつも客間で寝てるんだ」
長いこと、というのは、奥さんがいなくなって以来という意味だろう。前の奥さんの話が出ると、決まって空気が重くなる。私はそれ以上詮索せず、黙ってキッチンに向かった。
そうして、腕によりをかけた料理の数々がちょうどできあがった頃、タイミングよく悠斗が帰ってきた。
「父さん! エリさん呼ぶなら呼ぶって、先に教えといてって言ったじゃんか!」
玄関からばたばたと走ってきて、なぜかひどく焦った様子で声を荒げるものだから、ちょっとびっくりしてしまった。私が来る前に念入りに掃除をしておくつもりだったのだろうか。だとしたらかなり几帳面な子だ。感心してしまう。
それから、このあいだと同じように表面上は穏やかで和やかな団欒が終わり、問題の時間がやってきた。
優太郎が例によって一番風呂に入るため席を外すと、リビングには私と悠斗が二人きりで残される。
しばらくのあいだ沈黙があり、テレビの音ばかりがうるさく響いていたが、やがて悠斗が口火を切った。
「それで、何か言いたいことがあるんじゃないの? エリさん」
やはり、打って変わって横柄な物言い。優太郎が一緒のときとは、天と地ほどの態度の差である。
その口ぶりに、やっぱりコートの件はこの子のしわざだと確信する。どう言えばこの子との関係を壊さずにすむのか必死に考えつつ、私は口を開いた。
「君は……私とお父さんが結婚することに、反対なの」
「はあ? 僕が? なんでさ?」
あからさまに軽蔑するような顔をされ、私は困惑する。
「だって、家には入ってこないでって……」
「日本語わかんないの、あんた? ほしいならあげるって言ったでしょ、父さんのことは。別に僕は結婚に反対してるってわけじゃないよ」
ますます混乱し、私は言葉をなくして黙りこんだ。
悠斗は、結婚に反対しているわけではない……?
続ける言葉を探しあぐねているうちに優太郎が戻ってきて、その場は時間切れとなった。
――翌日、芳賀邸から直接出勤した会社で、私はまたコートの裾が四角く切り取られているのを見つけた。
コート切り取り事案は、それからもしばらく続いた。
決まって芳賀邸にお邪魔したときに限って、帰る段階になるといつのまにか裾のほうを切り取られているのだ。ずっとコートを手元に置いておくようにしてもだめだった。悠斗は必ず私の隙をついて、コートにちょきちょきとハサミを入れてくる。
いい加減着るものがなくなって、季節的には早すぎるダウンジャケットまで引っぱり出すはめになったが、それもあえなく少年の魔の手にかかりおじゃんになってしまった。
……あんにゃろう。自分で稼いだこともないガキのくせして、よくも。
とうとうクローゼットに古ぼけた薄いバーバリーしかなくなったとき、私はようやく、少年に詰め寄る決意を固めたのだった。
「悠斗くん。いったいどうして、こんなことするの?」
――情けないことに、この一言を訊ねるのに二週間もかかり、総勢五着ものコートを犠牲にした。シャンプーが切れたからと急遽優太郎がコンビニに出かけた隙に、私は悠斗と真正面から対峙した。
「怖い顔して、いきなり何の話? エリさん」
「これ、君がやったことでしょ」
とぼける悠斗に、証拠として持ってきた破損済みのコートを突きつける。そこまでしても悠斗はさして動揺することもなく、相変わらず冷めきった目で無感動に見つめ返してくるばかりだった。
「この前、結婚には反対してないって言ってたけど、それならどうしてこんなことするの? こんな嫌がらせしなくちゃやってられないくらい、私のことが気に入らないの……?」
意を決して口にした直接的な問い。しかし、返ってきたのは呆れたようなため息ひとつだった。
「僕、同じこと二回も三回も言うの嫌いなんだよね。あんたみたいな馬鹿っぽい人に頭下げてお願いするのなんか、もっと嫌い。――だからさ、そういうことだよ」
「何、それ……」
そういうことって、どういうことだ。さっぱりわけがわからなかった。
「もういい。あんたと話すの疲れた。僕、お風呂は明日の朝入るから。おやすみなさい、エリさん」
言い捨てるや否や、悠斗はさっさと二階の自分の部屋に閉じこもってしまった。すぐあとに優太郎が帰ってきて、ひとりぽつねんとたたずむ私に不思議そうな顔をした。
「あれ、悠斗は? 何、俺のいない間になんかあったの?」
「ううん、そういうわけじゃ……」
はぐらかすような言葉を口にしながらも、さすがにそろそろ話すべきではないかと思った。私ひとりではどうにもできないというのなら、ここはつまらない意地なんて張らずに彼に助けを求めるべきだ。なんてったって、これから夫婦になろうとしている婚約者なのだから。
けれどそのとき、ふと、テーブルの上に一冊の本が置かれているのに気が付いた。
臙脂色の表紙で、文庫本くらいのサイズの厚めの本。何の気なしに手に取ってみれば、背表紙に「旧約聖書」とかすれた字で書かれているのが読めた。
「優太郎、これって……」
私がその本を見せると、彼は一瞬驚いたような顔をしたあと、心なしか少し青ざめたように見えた。
「……それ、どこにあった?」
「いま、そこに置いてあったんだけど」
「ってことは、悠斗のやつが持ってたのか。俺はてっきりあいつが――恭子が持ってっちまったもんだとばっかり……」
優太郎によると、この本は、いなくなった奥さん――芳賀恭子の持ち物だったそうだ。
きっと悠斗が忘れていったものだろう。しかし二階に届けにいく勇気は出なかったので、もとの場所に戻しておくことにした。
「…………」
いなくなった奥さんの持ち物、か。
彼女の名前が出たとたん急速に興味を引かれ、悪いこととは思いつつも、私はソファに座り、そっとその本を開いてみた。
ぱらぱらとページを繰るうちに、今度は本の間に栞が挟んであるのに気付く。
栞の箇所に読むともなしに目を滑らせていると、そこここに「ダビデ」という名前がちりばめられているのが見てとれた。宗教にはてんで疎い私でも、その名前なら聞いたことがある。見覚えのある単語にほんの少し親近感を覚え、調子に乗って読みはじめた私は、ぎょっとした。
……ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』と言われた、そのときです」
そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。……
ん?
――「上着のすそを切り取った」?
私はあわてて、その周辺につぶさに目を通す。
慣れない文章を苦心して読みこんだ結果、私はなんとか気になる箇所のあらすじを把握することに成功した。
とりあえずこれは、サウルとダビデという二人の人物が絡んでくる話らしい。
詳しいことはわからないが、まあいろいろあって、サウルという王様がダビデの命を奪おうと追いかけてくる。ダビデはひたすら彼から逃げている。
そんな繰り返しのさなか、サウルは何気なくある洞穴に入る。ところがその洞穴には、偶然にもダビデとその部下たちが潜伏していた。そこで、右に引用した場面がやってくる。
サウルに見つからないようこっそり彼の上着のすそを切り取ったダビデは、洞穴から出たサウルを呼び止め、その上着の切れはしを見せながら、命がけで彼を説得する。――自分は暗闇の中でこんなことができるほどあなたに近付いたのに、それでも殺すことはしなかった。この通り、自分はあなたに害を及ぼすことは何ひとつしていない。だから、どうかあなたも、もう自分を殺そうと追ってくるのはやめてほしいと。
要するにこれは、自分を憎み殺そうとしてくる相手に桁はずれの敬愛と誠実さを示すことで逆に感動させ難を逃れる、という、典型的な「善は悪に勝つ」主旨の逸話なのである。
そこまで把握した私は、ここにきてようやく、悠斗の行為がこの聖書のエピソードになぞらえたものであることを悟った。
上着の裾を、こっそり切り取る。出会って以来のあの子の仕打ちは、きっとこのダビデの行動にちなんだものだったのだ。
「エリ。何してんの?」
そこでお風呂に入っていた優太郎がリビングに戻ってきたので、私は即座に本をもとの場所に返して、何事もなかったかのように客間に退散した。
――しかし、悠斗の私への行動をあの本の内容になぞらえたものと仮定すると、いささかどころではない齟齬が生じる。
第一、私は悠斗を憎んでいないし、ましてや殺そうとなどしていない。仮にこの家を「洞穴」として、彼をダビデ、私をサウルの立場だとするなら、その前提からして成り立っていないのである。
それとも、私に何かあの少年を怯えさせる要素があったのだろうか? ……怯えているようには、全然見えなかったけれど。
もっと単純に考えてみる。ダビデがサウルの上着の裾を切り取ったのは、「私はあなたをいつでも殺せたのにそうしなかった」ということを証明するためだ。では、自分を殺そうともしておらず、単に洞穴に入ってきただけの人間に対してあらかじめそうしておくということは、つまり……
僕はあんたをいつでも殺せるけれど、今はあえてそうしない。
悪いことは言わないから、早くここから出ていけ。
――もしかして、そういう意味の警告になるのではなかろうか。
殺す? あの子が私を? いや、そんな馬鹿な……。
浮かんできた物騒な単語を頭の中で打ち消しながらも、客間のベッドの上で、私は奇妙な不安に苛まれはじめていた。
それからしばらく、私はそのことで頭がいっぱいになり、心ここにあらずといった状態で日々を過ごした。会社の仕事でも普段なら絶対やらないようなミスを連発し、同僚たちから奇異の目で見られてしまった。
私はあの子に、そこまで徹底的に嫌われているのだろうか。
私という人間は、あの子にとってそこまで受け入れがたい人間なのだろうか。それこそ死んでほしいと願うくらいに……。
優太郎も心配してくれたが、彼に相談することはどうしてもできなかった。突然奥さんに蒸発され、三年ものあいだ男手ひとつで必死に息子を養ってきた。気楽そうにふるまってはいるが、彼は彼でいつもぎりぎりのところを生きているのだ。そんな彼に、私の悩み事までたやすく押しつけるわけにはいかなかった。
そうしてさんざんひとりで頭を抱えた末、多少無理やりにではあったが、どうにかこうにか気持ちに整理をつけることに成功した。
――いつまでも悩んでいたって始まらない。本気であの子と解り合いたいと思うなら、私のほうから進んで動かなければ、きっと何も変わらずじまいで終わってしまう。
一週間後。今度は私から申し出て、芳賀邸に泊まりにいくことにした。
今回は優太郎が残業で遅くなるということだったので私ひとりで行くことになったが、逆によかったかもしれない。悠斗と二人きりの時間が長いということは、それだけ彼の本音を聞けるということだから。
優太郎に話を聞いていたらしい悠斗は初対面のときと同じように玄関で迎えてくれたが、あのときのような笑顔ではなかった。
「こんばんは、悠斗くん。今ごはん作るから、ちょっと待ってて」
「いいよ。もう食べたから」
食卓の上にこれ見よがしに置かれたカップ麺の残骸に、スーパーで買った材料を山ほど抱えてきた私はいきなり肩すかしを食らった。しかし、諦めてなるものか。
「そっか。じゃあ、リンゴ剥くから食べない?」
「いらない。リンゴ嫌いだから」
「そ、そっか。えっと、お風呂湧かそうか」
「もう入った」
「…………」
覚悟もむなしく、取りつく島もない悠斗の対応に早くもくじけそうになる。
「僕、もう部屋に行っていい? 父さん帰ってきたらよろしく。おやすみなさい」
「悠斗くん!」
そっけなく背を向け二階へ去ろうとした少年を、私はあわてて呼び止める。
「ちょっとだけ。ちょっとだけでいいから、そっちに座って話をしない?」
「…………」
階段を上りかけていた悠斗は、ほんの少しためらうようなそぶりを見せたあと、不機嫌そうな顔をしながらもリビングのソファに腰を下ろしてくれた。
本の中のダビデほどうまくはやれないけれど、私は私で、この少年と真摯に向き合ってみたい。
「何? 眠いんだけど」
「ごめんね、ちょっとだけ。今日は君に見せたいものがあって」
いつかと同じように間を空けて座り、私はおもむろに自分のうなじに手をやると、身につけていたネックレスを外して、彼のほうへ差し出した。
「……何、それ」
怪訝に思われるのは想定内だ、怯んでいる場合ではない。私はつとめて笑顔を見せる。
「これね、バロック・パールっていう、ちょっと珍しい真珠なの。……私のお母さんの形見」
細いチェーンに大粒の真珠がひとつ下げられたシンプルなデザインのネックレス。光沢のある白い真珠は、ショートケーキの上のホイップクリームに似た、少し歪んだかたちをしている。
「悠斗くん、私に恭子さんの――お母さんの本、見せてくれたでしょ。そのお返し」
「何の話……」
「洞穴の中のダビデの話。君は、お母さんとの大事な思い出を私に教えてくれたから。だから、そのお返し」
現在の悠斗と同じく、実は私にも母親がいない。私の場合は悠斗と違って失踪されたというわけではなく、高校卒業前に病気で亡くなったのだが。
――そもそも私が優太郎と付き合いだしたのも、もとを正せば母の死がきっかけだったと言っても過言ではない。
大好きだった母に死なれて、私は数年もの間ずっと塞ぎこんでいた。そのせいで大学進学が遅れ、社会人になるのも人より遅かった。今でこそ落ち着いているが、その頃の私は、我ながら本当にひどいありさまだった。
大学に入ってから、狂ったようにさまざまな男性と付き合いだしたのもそのせいだった。
正直、最初は誰でもよかった。誰でもいいから、母がしてくれたように、愛情こめてやさしく髪を撫でてくれる人がほしかったのだ。
そんな中で、最後に出会ったのが優太郎だった。
いつか寝物語にこの不純な動機を告白したとき、彼は明るく笑ってこう言った。髪くらいいくらでも撫でてやるから、俺で最後にしときなよ。動機が不純ってんなら俺も同罪だしさ、と。
優太郎の不純な動機とは、一人息子に早く新しい母親を見つけてやりたい、というものだった。その話をしたあと、私は彼との結婚を決意した。
「……そんな大切なもの、僕に見せびらかしていいの? 明日にはなくなってるかもしれないよ」
「いいよ、それでも。なんならこのまま持っていってくれてもいい。君の好きにしてくれていいよ」
この子の信頼を得るためならば、形見のひとつやふたつ、安いものだ。
しかし悠斗は、じっとネックレスを見つめたあと、
「いらないよ、そんなの。馬ッ鹿じゃないの」
ぴしゃりと吐き捨てるなり、さっさと部屋に閉じこもってしまった。
――翌朝、最後の生き残りだったバーバリーコートの裾が例のごとく切り取られていたが、心なしか、前に比べて断面がいびつになっているように見えた。
週末、優太郎の車でショッピングモールに連れていってもらい、秋用のコートを購入した。優太郎が見ている前で悠斗も来ないかと誘ったが、文化祭に展示する絵を仕上げなくてはいけないからと丁重に断られてしまった。
「なんか久しぶりだな、二人で服買いにくるの」
「そうだね。久しぶりだね」
おうむ返しの会話が妙におかしくて、顔を見合わせてくすくす笑った。なんとなく、ああ、嘘みたいに幸せだな、と思った。
コートばかり何着も買う私に目をぱちくりさせながら、優太郎も自分と悠斗の秋服をたくさん買っていた。ペアルックかと見間違うくらい似たような服を二人ぶんカートに入れるものだから心配になって声をかけたが、これでいいんだと言って頑として棚に戻そうとしなかった。……このファッションセンスはあとでなんとかしなくてはなるまい。結婚までに時間があってよかった。
休憩しようと立ち寄った行きつけの喫茶店で、私はつとめてさりげなく、ずっと彼に聞きたかったことを口にした。
「ねえ、優太郎」
「何?」
「本当に、大丈夫なの。……私と結婚するって、こんなに早く決めちゃって」
プロポーズを受け入れておきながら何をいまさらという感じではあるが、プロポーズされたあとだからこそ口にできた問いでもあった。失踪した奥さんのことは今までも何度か訊ねてはきたけれど、私との具体的な未来を絡めた質問は、たぶんこれが初めてだ。
「あと四年もあるんだよ。もしその間に奥さんが――恭子さんが戻ってきたら、どうするの?」
「戻ってなんかこないよ、恭子は」
かなり思い切って口にした問いだったというのに、優太郎の答えは拍子抜けするほどあっけないものだった。
「どうしてそう言い切れるの」
「どうしてって……どうもこうもないよ。戻ってこないから戻ってこないって言ってるだけじゃんか」
「優太郎、本当は、恭子さんが今どこにいるか知ってるんじゃないの?」
「何言ってんだよ。知るわけないだろ、そんなの」
思えば付き合いはじめた当初から、彼はずっとこんなふうだった。そのうち奥さん帰ってくるんじゃないの、私とこんなことしてていいの。そう訊ねるたび子どもみたいに笑って、もう戻ってこないよ、の一点張りなのだ。違う返答だったことは一度としてない。
それはまるで、奥さんがすでにどこかで死んでいると確信しているような口ぶりで。
「優太郎。何か事情があるなら話してよ。これから夫婦になるんだから、秘密は少ないほうがいいって言ってたじゃない」
「秘密って……なんだよ、何言ってんだよ、エリ。俺が何かおまえに隠し事してるって疑ってんのか? そんなもんどこにもねえよ。どこにいるかは知らないけど、あいつはもう絶対に戻ってこない。ただそれだけのことだって」
この話題のときだけ、なぜだか彼といっこうに話が噛み合わない。どこか、何かがずれている。何がずれているのかはわからないけれど、何か、奇妙な胸騒ぎがする。
結局最後まできちんとした答えを得られないまま、私は彼の車でアパートに帰宅した。
週が明けて、そろそろまた芳賀邸にお邪魔しようかと思いはじめたある日、ささやかな事件が起こった。
優太郎がどうしても外せない会議でまた帰りが遅くなるというときに、悠斗の担任から、悠斗が問題を起こしたから迎えにきてほしいと電話があったのである。
板挟みになっておろおろする優太郎に、私は言った。
「あの、よかったら私が行こうか?」
「え、でも……」
「迎えにいくくらいなら私でも大丈夫でしょ。保護者ってことで通せば、きっと何も言われないだろうし」
渋る彼を押し切って、私は単身悠斗の通う中学校へ乗りこんだ。
私だってちゃんとわかっている。親に連絡がくるくらいだ、本当にただ迎えにいって悠斗を連れ帰るだけではすまないだろう。でも、それでもいいと思った。当の悠斗は嫌な顔をするかもしれないが、あの子との距離を縮めるには少し無理なくらいでちょうどいいのだ。……たぶん、おそらく。
辿り着いた中学校の教室で、悠斗は大人三人と同級生らしい少年ひとりに囲まれて俯いていた。
大人連中は担任、教頭、その同級生の母親と見た。適当に挨拶をして割り込んでいき、その母親の言い分を聞いていると、どうやら放課後の教室で悠斗が自分の息子を突き飛ばし、頭を机にぶつけてたんこぶをつくってしまった、ということらしい。
頭に氷嚢を当てながらべそをかく同級生の少年。ヒステリーぎみにまくしたてる母親を先生二人が下手に出てなだめすかし、悠斗に何か釈明するよう話しかけているが、悠斗は唇を引き結んで、頑なに口を開こうとしない。
いい加減見ていられなくなり、私は横からくちばしを挟んだ。
「……あの、すみません。さっきから聞いてると悠斗くんが一方的に悪いみたいにおっしゃいますけど、おたくの息子さんが先に何かしたからそうなった、ってわけではないんでしょうか?」
悠斗が顔を上げ、目を丸くして私を見つめる。その顔が思いがけず年相応にあどけなくて、私は口許だけで小さく微笑んでみせた。
それから小一時間ほど相手の母親と押し問答を繰り広げた結果、最終的に同級生の子が音を上げて、自分が失踪した母親のことで悠斗を執拗にからかったのが原因だと白状した。それでもまあ怪我をさせたのは事実なので、きちんと頭を下げて謝って、その場はとりあえずお開きとなった。
「ていうか、なんであんたが来たわけ。父さんは?」
「会議、どうしても抜けてこれなくてさ。にしても、あー、すっきりした! 知らない人と思いきり喧嘩するのって、けっこう楽しいもんだねえ」
帰りの電車の中で身もふたもないことを言う私に悠斗は呆れかえったようだったが、ややあって、静かな声でぽつりと問うた。
「喧嘩したいだけなら、他あたってほしかったんだけど」
「気に障ったならごめん。でも今日は、学校での悠斗くんが見れてよかったよ」
「……父さんに言う?」
「ん? 何を?」
わざとらしくとぼけてみせると、あからさまに不愉快そうな顔をして押し黙った。
沈黙のあと、悠斗は俯いたまま長く長く息をついた。
「いくら僕を懐柔したって無駄だよ。僕があんたを好きでも嫌いでも、そんなことは関係ない。とにかく、あの家に入ってこられるのだけは困るんだ」
「それ、前も言ってたけど、結婚には賛成なんでしょ? これから家族になろうっていうのに、あの家に住まないわけには……」
「じゃあ、父さんと一緒にどっか別のところに住めばいい。あの家には僕ひとりで住むから」
とんでもない提案に、私はあっけにとられた。これじゃ、まるで子どものわがままじゃないか。いや、実際子どもなんだけれども、これまでの人を食ったような態度とは大違いだ。
「悠斗くん?」
俯いた少年の顔を覗きこんで、私はぞっとした。そのときの悠斗は、背筋が寒くなるほど暗い、底抜けに虚ろな目をしていたのだ。
悠斗を芳賀邸に送り届けてアパートに帰宅すると、最初とまったく同じように、新調したばかりのコートの裾がきれいに切り取られていた。
ダビデの逸話になぞらえた、あの子の行動。
私をいつでも殺せるけれど、今はあえてそうしない。悪いことは言わないから、早くここから出ていけ――コートの裾を切り取るという悠斗の行為は、本当に、そう私を脅すためのものなのだろうか?
父である優太郎がいる前では物わかりよくふるまい、私と二人きりのときだけ横柄になる悠斗。私が持っていたコートを短期間で全部だめにしてくれた悠斗。家の中に入ってくるなと言ったそばから、結婚に反対はしないと矛盾したことを口にする悠斗。そして、年相応の幼さをもって教室で俯いていた悠斗……。
今までのあの子を見ている限り、出ていかないなら強硬手段も辞さないぞ、なんていう雰囲気ではない。そりゃあ態度は悪いし人の物を壊しはするけれど、いまさら私に危害を加えるような子ではない、と思う。
だったら、コート切り取り事案のことはどう捉えればいいのだろうか。
そこから物騒な意味を除くとしたら、いったい何が残る――?
翌日の夕暮れ。暗くなるのを待ってから、私は芳賀邸に忍びこんだ。
忍びこむなんて人聞きが悪いけれど、優太郎も悠斗もかなり遅くなるまで帰ってこないことを知ったうえで勝手に上がりにいくのだから、他に言いようがなかった。
合鍵は、実のところだいぶ前に優太郎から渡されていた。悠斗があの調子だし、しばらく使い道ないだろうけど、と彼は苦笑しながら手渡してくれたのだが、思っていたより早く役立つときが来たようだ。
合鍵で玄関のドアを開け、中に入る。別にそんな必要はないのだが、なんとなく物音を立てないよう気を遣ってしまう。
薄暗い家の中をひとりそろそろと進んでいく。こうしているとなんだか自分が泥棒にでもなったようで妙なおかしさが込み上げてきたが、いつにない薄暗さのせいか、ここで笑う気にはなれなかった。
何度もお邪魔して使わせてもらったキッチンにリビング、トイレ、洗面台、バスルーム。近頃は私専用の部屋と錯覚しそうになるくらいお世話になっている突き当たりの客間……。
――本当にこの家が、あの子にとっての「洞穴」なんだろうか。
私に触れられたくない彼の何かが、ここにあるというのだろうか?
見慣れた一階をぼんやりと巡ったあと、少し迷ったが、私は二階に続く階段を上りはじめた。二階には一度も通してもらったことがない。二階にあるのは悠斗の部屋と物置き部屋、そして件の夫婦の寝室くらいなので、まだほんの客人扱いである私は今まで上がる必要がなかったのである。
初めて上がる二階は、一見何の変哲もない家の一角に見えた。薄暗いのでいくぶん不気味ではあるが、何もおかしなところはない。
悪いとは思いつつも、いちばん端の悠斗の部屋から順にドアを開けて、中を覗いていく。
試しに明かりをつけてみても、悠斗の自室は、ちょっと殺風景なだけの普通の部屋だった。不思議なところはどこにもない。二部屋続きの物置き部屋もそうだった。残るは、優太郎ももう長いあいだ使っていないという奥の寝室だけだ。
そっと触れたドアノブが氷のようにつめたく感じて、ふいに怖くなった。なぜだか、この部屋にこそ私の探している何かが――悠斗が隠している何かがあるような気がして、その予感だけでぞわぞわと鳥肌が立った。
「…………」
ともあれ、この部屋で最後だ。
思い切ってドアを開け、おそるおそる中を覗く。――が、暗すぎてよく見えない。明かりをつけようとするも、スイッチを押してもつかない。電球が切れているようだ。
拍子抜けするくらい簡素な部屋。しばらくじっと暗闇を凝視してみたが、白っぽく浮かび上がるダブルベッドとドレッサーの他は特に何も変わったものはないようだった。使われていないはずなのに小綺麗なのは、悠斗がまめに掃除しているからだろう。
なんだ、怖がって損した。別に、どこにも何もないじゃないか。
しかし、安堵の息をついてドアを閉めようとしたそのとき、目の前の窓からすうっ、とほの白い光の筋が差した。閉め切られたカーテンのわずかな隙間から月光が入ってきたのだ。斜めに差すその光が、ベッドの向かいの壁際を照らして――
「……?」
壁際に、何かが見えた。
私はゆっくりと暗い部屋の中に足を踏み入れ、窓辺に近寄る。そのまま厚手のカーテンに手を伸ばし、勢いよく引いた。
途端、闇に包まれていた部屋に月明かりが満ちる。
――そこに現れたものが視界に入った瞬間、時間が止まった。
初めは、等身大の人形が壁を背にして座っているのかと思った。
暗い色のワンピースを身にまとった、女性のかたちを模した精巧な人形。けれども、視線をその頭に移動したとき、私はそれを人形だと思いこみたい自分の願望を容赦なく打ち砕かれた。
女性の顔は、右目とその周辺以外、茶色く干からびてぼろぼろに崩れていた。よくよく見ると首筋も、袖から伸びる腕も、足も、からからに乾いてミイラになっている。
ぐらりと視界が揺れて、どすん、と身体に衝撃がきた。腰を抜かして尻餅をついたのだと、少ししてから気が付いた。
直感的にわかった。こんなふうに会うことになるなんて、想像もしていなかったけれど――
芳賀恭子。
確かにこの人が、失踪していなくなった優太郎の奥さんだ。
見つめ合おうにも、唯一美しいまま残っている右目は眠るように伏せられているため、何の感情も読みとることができない。
――そうして床に座りこんだまま、どのくらい経ったのだろう。
「あーあ」
気が付くと、開け放されたドアのところに悠斗が立って、凪いだ目をして私と彼女を見つめていた。
「入ってこないでって、あんなに言ったのに」
悠斗が立ち入ってほしくなかったのは、この寝室。
彼にとっての「洞穴」は、家ではなくて、彼女のいるこの部屋だったのだ。
「ゆ……悠斗くん……」
「本当は、全身きれいなままで残したかったんだけどね。いろいろやり方を調べたけど、どうにもうまくいかなくて。でも、きれいでしょ? 僕の母さん」
淡々と告げられる言葉に、何も答えることができなかった。
「あと四年、何も知らないままで暮らせればよかったのにね」
悠斗がその言葉を言い終わらないうちに、階下で遠慮のない金属音がした。玄関のドアが開いた音だ。
「あれ、なんだよ、なんで電気つけてないんだ?」
彼の声。
「上にいるのか? エリ?」
混乱のあまり返事ができずにいると、すぐに階段を上ってくる足音がして、悠斗の隣から優太郎が姿を見せた。
「なんだよエリ、先に帰ってるなら帰ってるって、メールしといてくれれば……」
いつもと変わらない調子で言いかけた彼の笑顔が、彼女を見て凍りつく。そこから先の反応は、さきほどの私とほぼ同じものだった。
「なん……なんで……。恭子……?」
よろよろと近付いてきて、彼女の前でがくんと膝を折る。震える手でその朽ちた頬に触れ、もはや生き物とはほど遠い肌の感触におののいて、その場で背中を丸めてうずくまった。
やがて緩慢な動作で頭をもたげた優太郎は、
「――おまえがやったのか?」
瞬きもせず私を見つめて、抑揚のない声でそう訊ねた。
「優太郎、何言って……」
「なんで……なんでだよ! なんで、なんでおまえが、おまえが、恭子を――!」
わけのわからないことを叫ぶなり、私に掴みかかってくる。肩を押されて後ろにバランスを崩し、床にしたたか頭を打ちつけて目の前が白くなった。
「おまえが、恭子を」
抵抗する暇もなく馬乗りになり、彼は両手で力いっぱい私の首を絞めだした。
「ゆ、たろ……や、め……っ」
腕力の差は圧倒的で、私は首にかかった彼の手を引っ掻くことしかできない。もがくうちに指に何かが引っかかり、ぶつんと音を立てて切れた。
もうだめだ。
意識を飛ばしかけたそのとき、がつん、と頭上で鈍い音がして、私は喉を締めつける腕と人ひとりぶんの重さから解放された。
悠斗が立ち尽くしている。手に持っているもので父親を殴り、昏倒させたのだ。
咳きこむ私を見下ろす少年の瞳がどこまでも空虚で、私はひどくぼんやりした頭で、ああ、殺されるんだ、と思った。
――しかし、悠斗は私を殺すことはしなかった。
ただ、怯える私を置き去りに階下へ降りていって、異常なまでの冷静さで警察に一一〇番通報をしただけだった。
結局のところ、恭子を殺したのは優太郎だった。
夫婦の間で何があったのか、今となっては詳しいことはわからない。そこにあったのはただ、彼が彼女を死に至らしめ、そしてそれを彼の息子が三年にもわたって隠し通してきたという事実だけだった。
優太郎は、妻を手にかけてしまったショックのためか事件の記憶がすっかり抜け落ちており、無意識のうちにあの寝室を避けて過ごしていたらしい。だからこそ私と交際し、あまつさえ再婚しようとまでできたのである。あの家ですべての顛末を把握していたのは、悠斗ただひとりだったというわけだ。
悠斗にとっての「洞穴」は、あの寝室だった。
悪いことは言わないから、洞穴へは入らずに立ち去れ。
洞穴には死が満ちているから――
何ということはない。コートの裾を切り取るという行為によって彼が伝えようとしていたのは、ただ、それだけのメッセージだったのだ。
私がようやく警察の事情聴取から解放されたとき、悠斗の姿はもうどこにもなかった。
署内の人に尋ねて回ったが、みな口をそろえてそんな少年は見ていないと言う。誰に聞いても同じ答えが返ってくるので、本当は悠斗なんて少年どこにもいなかったのではないか、と錯覚してしまいそうになるほどだった。
途方にくれてロビーに座りこんだ私は、しばらくして、見ず知らずの女性から声をかけられた。
「あの、すみません。これ……」
「え?」
「さっき、中学生くらいの男の子に頼まれたんです。これをあなたに渡してくれって」
そう言って女性が差し出してきたのは、一枚の茶封筒だった。
手紙……ではなさそうだ。底のほうに、何か固形のものが入っている。
引っくり返してみると、ころりと、てのひらの上に見覚えのあるものが転がり落ちてきた。
バロック・パールのネックレス。
優太郎に襲われたときチェーンが切れて、そのままなくしたと思っていた。現場を片付けた警察に問い合わせてもそんなものは落ちていなかったと言われて、もう戻ってこないんだと諦めていたのに。
あの子が拾って、ちゃんと守っていてくれたのだ。
――そうだ。悠斗だって本当は、ただの弱い子どもだったのだ。
コートの裾を切り取るなんて回りくどい方法で私に警告してきたのだって、本当は、誰かに気付いてほしかったからではないのだろうか。
父親の罪を隠したかったのも、日常を壊したくなかったのも本当だろう。しかし、きっともう限界だったのだ。本人はそんなことないと言い張るだろうけど、でも、本当は――
ダビデの真似をしたあの子だけれど、決してダビデのように強くはなかった。
女性に礼を言い、私は建物を飛び出した。
大通りに出てあたりを見渡しても、小柄な人影はどこにも見えない。
それでも、いい。
愛情と呼ぶにはまだ淡すぎる感情を胸に、走り出す。