炭鉱都市アフィスタ 第三地区 ①
正午――十二時を告げる鐘の音が、炭鉱都市アフィスタに鳴り響いていた。
昼休憩の時間である。十二時から十三時までの一時間、労働者は各々の作業の手を止めて、ある者は食堂へと足を運び、ある者は持参している弁当箱を取り出し、ある者は食事が用意されている自宅へと一時帰宅し、昼食をとる。監督者もそれらと同様の時間を過ごし、午後の部の仕事に向けて体を休め、エネルギーを蓄えるために休憩をとる。
労働者、監督者といった身分は関係なく、平等に与えられる安息の時間。
その訪れを告げる音。
そういう風に認識されている鐘の音が、鳴り響いていた。
大きな音である。
この正午を告げる鐘の音は、計五回、短い間隔で鳴らされる。この音の他にも二種類の鳴らされ方があり、比較的早く計三回鳴らされるのが始業を告げる音、ゆっくりと計七回鳴らされるのが終業を告げる音となっている。日の出や日没、労働者の体力や集中力の限界などから、労働時間は充分に検討され、できるだけ不満のないように設定されている。
休憩時間。
鐘の音が鳴り響くにつれて、アフィスタ全体の空気が変わっていくのがわかる。作業で生じる音が徐々に薄れていって、その代りにあちこちで一時の解放感に満ちた声が上がり始める。五回鳴り終わって完全に鐘の音が消滅する頃には、一種の戦争が各地区の食堂で展開されている。数量限定の日替わり定食。これを楽しみにしている労働者は少なくない。
昼休憩の時間。
安らぎの一時。
そのように定められた時間……であるが、しかし、例外が存在している。
それは、第九地区の労働者。
彼らだけは、仕事を続けなければならない。
回収作業だけでなく、その姿を見せつけることもまた、彼らの仕事だからだ。
こういう風にはなりたくない。あんな扱いは受けたくない。憩いの一時を過ごしている最中に、一息すらつくことのできないその存在を目の当たりにさせることで、害となり得る意識を根絶やしにする。より多くの労働力を維持させるために意識を操作し、支配する。
そのための、必要悪。
絶望しか存在しない……第九地区の労働者の仕事。
「――――あ」
と。
その声は、ふいにラビスの口から漏れて出た。無意識のうちに。それはおよそ七時間前――点呼の際に返事をした時、その時以降に、久しぶりにラビスが発した声だった。
仕事の途中だった。容器の中に回収したごみや排泄物を一度搬送して、再び回収作業に戻ってきたその途中。次の回収ポイントに向かっているところで、足元がふらついて、思わず、ラビスはその場に転んでしまっていた。
(ちっ……)
鐘の音のせいだ、とラビスは地面に腕を立てて体を起こしながら舌打ちをした。あの大きな音は、空腹に響く。迷惑な音でしかない。考えないようにしているのに、腹が減っていることを思い出してしまう。そのせいで足元がふらついたのだ。
(しかし……ここが路地裏で、よかった)
と、立ち上がって服に付いた砂を払いながら、ラビスは考える。
(容器の中が空っぽだったのも……幸いだった)
(もし、ここが大通りのど真ん中で、容器の中がみっちりと埋まっていたとしたら……)
(きっと、転んだ衝撃で容器からごみや排泄物がこぼれて、それが自分にかかって、周りの人間達はそんな俺を蔑んだ目で見つめて、汚らしいとか気持ち悪いとか言って、それからどこからともなく監督者がやってきて、軽蔑と侮辱に溢れた言葉をまき散らしながら、きっつい暴力を振るうのだろうなぁ……)
それは、笑えない、笑うところなど一つも存在しないラビスの想像。
だが、ラビスは小さく、口元を緩ませる程度の笑みを浮かべていた。
(……幸い、か)
ラビスは、周囲を見渡す。
炭鉱都市アフィスタ、第三地区――この地区の商業エリア、その中のとある裏路地。
建物が日の光を遮っているため真昼だというのに薄暗く、じめじめとした空気が漂っているこの場所には、人の気配がまったくと言っていいほど、ない。それは言うまでもなく、休憩時間にわざわざこんな場所に寄りつこうとする者などはいないからだ。
(ここで転んで、それを幸いなどと思うなんて……どうかしている)
(……どうかしているな)
短く息を吐き出して、ラビスは自虐めいた笑みを消す。
そして、もう何も考えない。機械のように足を動かし、目的の場所へと向かう。
エネルギーの量は僅かしかない。思考のためにそれを使う余裕などない。仕事をこなす、それだけのために使わなければならない。そうしないと、最後まで持たない。
よくわかっていることだ。今まで生きてきて、身を持って学んできたこと。
だから、ラビスは余計なことはしない。
――が、しかし。
「――おおっ、と」
ふいに、路地裏から大通りに出た直後。
何かに当たって、ラビスはふらつきその場に尻餅をついてしまった。
「何だこいつは……?」
「こんなところから……まさか、サボってやがったのか?」
それぞれ違う男の声。どうやら人にぶつかってしまったらしい。ラビスは顔を上げ、その相手を確認する。
人数は二人。どちらも中年の男だ。上下ともに制服。そして帽子と警棒を装備している。
――監督者だ。
「おい、お前は第九地区の労働者だろ?」
「休み時間じゃないのに、何してやがったんだ? え?」
「ごみを拾うことしかできない、底辺のくせによぉ」
「ふざけやがって……どうやら制裁が必要らしいな」
明らかに苛立った顔付き。……だが、目は笑っている。
暇つぶしのおもちゃを見つけた子供のような目つきで、二人の男はラビスを見下している。
(人がいないことを確認して、大通りに出たはずなのに……なぜ、こんなことに)
(こいつらが当たりに来たとしか思えないのに……いや)
(……仕方がないか。ついていないんだな、今日は)
ラビスは、それだけを思った。
それ以上は何も思わないし、考えない。
抵抗、反論するという選択肢は、その権利は、第九地区の労働者には、ない。
身を持って、よく知っていること。
ラビスは、余計なことはしない。