ラビス・クセナキス ⑥
距離が遠くなり、また担当のエリアが変わったばかりということもあって、夜遅くになってもラビスは回収作業を終わらせることができなかった。一度搬送で戻った時にまだ終わっていないのかと監督者に怒鳴られて、そして頬を殴られた。作業を終えるまで休みはもらえない。殴られた頬がじんじんと痛んだ。
加えて、その頃になって、怪しかった雲行きがついにその本当の姿を現し、強い雨を地に落とし始めた。強い風も吹き始めた。日が落ちて気温が低下し、さらに雨で冷やされた空気は、酷く冷たかった。ラビスが身に付けている薄い衣服に雨が滲み込み、強い風がラビスの体温の低下を助長させた。全身を震わせながら、ラビスは作業を続けた。
しかしそれは、とても気合や根性でどうにかできるものではなかった。
肉体が限界を迎えていた。
仕事の途中で、容器を担いで歩いている途中で、ラビスは倒れてしまった。
それは……仕方のないことだった。
……もう、駄目かもしれない。
ふと、ラビスはそんなことを思った。
思ってしまった。
そして――その瞬間。
はっ、とラビスは気付いた。
どこか……そこは、その景色は、どこか見覚えのあるものだった。地に倒れて、横になった体勢で見るその景色には、何かそれだけの景色ではないような気がした。頭の奥底が強い刺激を受けていた。小さい頃の、もはや遠い日の思い出となっているあの頃の記憶。それを薄らと思い出し始めていた。
徐々に、ラビスは思い出し始めていた。
ここは……そうだ。あの場所だ。
生まれ育った場所。
家族がいる場所、家がある場所だ。
見覚えがあった。あの頃と何一つ変わっていなかった。
わかる。憶えている。
間違いない。
ラビスは立ち上がった。震える体を押えて、必死に歩いた。
薄く靄がかかった記憶。それだけを頼りにして、歩き続けた。
目的の場所――生まれ育った家に辿り着くまで、そんなに時間はかからなかった。
その家も、何一つ変わっていなかった。
嬉しかった。ラビスにはそれが嬉しくて堪らなかった。思わず笑みがこぼれた。まだ自分が笑うことができるとは、思ってもいなかった。
家の窓から光が漏れていた。
……父親は、母親は、元気で暮らしているのだろうか。何をして、何を思って、暮らしているのだろうか。
自分のことを思って、涙を流してくれているだろうか。
街灯の光に群がろうとする虫のように、ラビスは無意識にその光に近づいていった。
少しだけ、ほんの少しだけ、ほんの僅かな時間だけでもいいから、両親の顔が見たかった。
こっそりと、ラビスは窓から家の中を覗き込んだ。
そこには――見覚えのない景色が、広がっていた。
あの頃と比べて少し老けた顔付きの父親と母親。
それに加えて、二人の小さな子供の姿がそこにはあった。
瞬間――ラビスの思考は、停止していた。
家族の食卓に、父親と母親の姿があって、そしてラビスが座っていた席と、空いていたはずもう一つの席に、見知らぬ二人の子どもがそれぞれ座っていた。
みんな、笑っていた。
笑顔で、楽しそうな雰囲気で……それは紛れもなく、温かい家庭そのものだった。
ラビスが夢見ていた、景色そのものだった。
体の震えは、なくなっていた。冷たい雨も、冷たい風も、気にならなかった。殴られた頬の痛みも消えていた。何も感じなかった。感じることができなかった。
ただ、目の前の――夢見ていたその景色に、その現実に、目を奪われていた。
家の中から、笑い声が聞こえてきた。
他の者が入ることのできない、入る余地のない、温かい家庭の、笑い声だった。
その笑い声はラビスの鼓膜を震わせて、頭を震わせて、心を震わせて……そして、ラビスを悟らせた。
――ああ、そうか。
――希望は、希望でしかなかったのか。
楽しそうな笑い声を聞きながら、その温かい家族の様子を見つめながら、ラビスは悟った。
――俺にはもう、帰る場所なんてないんだ。
こんなにもすぐ近くに、十メートルも離れていない距離なのに、それなのになぜずっと遠くの景色だと感じるのだろう。手を伸ばせば届く距離なのに、それなのに届くわけがないと感じてしまうのはなぜなのだろう。
なぜ――なぜ。
なぜ自分は、生きているのだろう。
何のために、自分は存在しているのだろう。
どうして第九地区での生活を強いられて……酷い臭いでまともに休むことすらできない生活空間で、ほんの僅かな食事量で、何度も何度も地面にスコップを突き立てて、土を運んで、穴を掘って、容器を背中に担いで歩いて回って、汚くて臭いごみや排泄物を回収して、白い目を向けられて、ごみを見るような目で見られて、作業が遅いと殴られて、罵られて……どうして自分は、こんな目に会っているのだろう。
耐えても耐えても……その先には、死という現実しか待っていないのに。
――そうか、そうなのか。
――救いなど、なかったのか。
限界を超えて張り詰めていた何かが、一瞬で崩壊した。
ラビスはその場に崩れて、涙を流した。泣くという感情を忘れていなかったことに驚く余裕もなく、ラビスはただただ泣き続けた。
耐えていた。必死に耐えていた。
限界だったのだ。
しかし――現実は残酷だった。
現実は変わらない。
ラビスが自分という存在の無意味さを悟ったところで、家族の笑い声が聞こえてこなくなるわけでも、その中に自分が入れるわけでも、これからの第九地区での生活が変わるわけでもない。
何一つ変わることはない。
ラビス・クセナキス――十三歳。
彼は、賢い少年だった。