ラビス・クセナキス ②
炭鉱都市アフィスタにはいくつかの暗黙の了解がある。それはこの都市が生まれた時から存在していたものではなく、支配者と労働者という人間関係が静かに育んでいったものだ。支配する者と支配される者が互いに腹を探り合いながら築き上げてきたそれには、倫理観など欠片も存在しない。その成長は止まることを知らず、ドス黒い欲望のみを栄養として、今もまだ育ち続けている。そして、それを知った上でアフィスタに住む人々は日々の生活を送っている。
腐りきった空気が蔓延し、正しい心を持つ者が白い目で見られる都市。
ラビスが育ったのは、そんな都市の中でも特に酷い環境の地区――第九地区だった。
酷い環境、というのは、物理的、精神的、どちらの意味でも当てはまる。第九地区の労働者が行う仕事は、他の地区で暮らす人々が出すごみや排泄物を回収し、決められた場所に埋めて処理するというものだ。各自が担当しているエリアを歩いて回り、鼻が捻じ曲がるような悪臭を放つそれらを専用の容器に回収して、埋立所に搬送する。これを朝早くから夜遅くまで、他の地区に住む人々から軽蔑の眼差しを向けられながら、第九地区の労働者は行っている。休みが与えられることはない。毎日体力と精神力を限界まですり減らしながら、第九地区の労働者は生活している。
ラビスもその中の一人だった。
彼は物心がつく頃から第九地区での生活を送っていた。
物心つく以前は――元々、ラビスは別の地区で生まれ育ってきた。そこは第九地区などとは比べ物にならないほど平和な場所だった。そこには穏やかな空気が流れていた。ラビスは毎日が楽しかったことを憶えている。
いつまでも、この日常が続くのだと小さい頃のラビスは思っていた。
……だが、その日常はあっと言う間に、あっさりと、彼の下から遠ざかっていった。
何の前触れもなく、唐突に。
ラビスは、地獄へと突き落とされた。
彼の母親の罪を背負わされて。
――きっかけは、ほんの些細なことだった。
そして巡り合わせが悪かった。
よく晴れた日のことだった。
その日、その地区に住む労働者の衣類を洗濯する係の一員として仕事をしていたラビスの母親は、日射病にかかり仕事中に倒れてしまった。風邪気味だったこともあって、それは当然といえば当然の結果だった。一緒に仕事をしていた他の者すべてが、同情を覚えるほどだった。
しかし、運が悪かった。
その日の監督者の機嫌は、最悪だった。彼は前の日の夜に同僚達とギャンブルをして負け、苛立っていた。労働者に言葉通りの意味で鞭を打ち、無理を押しつけていた。自らの苛立ちを抑えることなく、それを暴力に換えて、労働者に当たり散らしていた。
ラビスの母親は、そんな状態の監督者の目の前で、倒れてしまった。
運が悪かった。
もし、監督者の機嫌が悪くなければ、少しでも休憩の時間があれば、彼女は倒れることなくその日の仕事を終えることができていたのかもしれない。倒れるにしても、監督者の目に留まらないようなところでの出来事だったのなら、よかったのかもしれない。それ以前に、監督者が彼女の体調を考慮して仕事をさせなければ、こんなことはそもそも起こらなかったのかもしれない。
日射病で倒れてしまうという、ほんの些細なことだった。
しかし巡り合わせは悪く――そんな些細なことが、きっかけとなってしまった。
ふらりとその場に倒れたラビスの母親を見て、監督者は激怒した。身動き一つとることのできない彼女に向かって何度も鞭を振るった。強く、強く、彼は何度も鞭を振るった。
その光景を、その場にいたすべての労働者は目にしていた。仕事の手を止めて、無言で眺めていた。誰もラビスの母親を助けようとはしなかった。いや、できなかった。助けに行ったところで、どうにもならない。ここは、理不尽が堂々と道の真ん中を歩いている世界なのだ。
だから、ラビスの母親だけでなく、すべての労働者の心が絶望に染まっていた。
そして、絶望はそれだけでなく……数十回もその暴力を続け、満足のいく表情で鞭を止めてラビスの母親に唾を吐きかけたところで、監督者は容赦なく言い放った。
――お前は、第九地区行きだ。