歪みの再来
ここが何処だか分からない。
何故自分がここにいるのか分からない。
自分のことは分かる。
自分は理から外れた。
自分に体は存在しない。あるのは意思だけ。
自分を捕らえていた物がなくなったのが分かる。
自分の目的はただ一つ。
世界の観測者を――――
◆
学長室は沈黙に包まれていた。
少女は言った。
俺にしたことは『俺の体が貫かれた』という《記録》を消去したことだと。
学長さんは言った。
《記録》に干渉することが出来るなんて存在は神だけだと。
だったら俺の隣にいるこの子は何なんだろう。
神?
こんな神様なんかほんとにいるか?
信じられない。
けど確かなことはある。
俺はあの時に体を貫かれて確かに死んだはず。
なのに今は生きている。それは紛れもない事実だ。
この子は一体何者なんだ?
思考が頭を駆け巡る。
沈黙を最初に破ったのは学長さんだった。
「お前は一体何者なんだ?」
それはこの場にいる全員の疑問を代弁したようなものだった。
「……私はあの世界の《代行者》」
また知らない単語だ。他の三人も表情を見るに知らなさそうだ。
「……《代行者》は主の眼。何をすることもなく、ただ世界を観測するだけ」
なんだか話せば話す程どんどん分からなくなっている気がするな。
けど、ここで質問を終わらせることは出来ないとばかりに学長さんはどんどん質問を重ねる。
「お前の言う主とはどういう存在だ?」
「……言語化が難しい。ただ、存在するのは確か」
「お前の《記録》を消したと言うのはその《代行者》とやらの能力か? そして、それは今も使えるものなのか?」
「……使えない。《記録》への干渉は禁忌とされている。それを破れば存在を消去される」
その言葉で少女が光の柱に包まれたときのことを思い出した。
『禁忌の履行を確認』と『実行者の消去を開始』という言葉が頭に響いて少女が消えていったのを。
「では、何故お前はここにいる?」
少女はちらりとこちらに視線を向け、
「……分からない。消去が途中で止まってしまった理由は不明。けれど、私の中の一部は消去されてしまって《記録》への干渉を初めとする私の能力はほとんど残っていない」
「そうか……ならばもう何も聞くことはない」
「学長!」
エーテルが異議を唱える。その顔には「まだ足りない」という感情が見て取れる。
「不満か? エーテル・ノール。彼女にはもうほとんど力は残ってないようだし、《記録》に関する事柄をこれ以上どうしようと? 何かやりようがあるのか?」
「く………」
学長さんにギンと睨まれてエーテルはしぶしぶ引き下がった。怖すぎです学長さん。
「話は終わった、お前たちを正式に客人として歓迎しよう。もう一度あの世界へ空間通路を開くにはまだ少し時間がかかるので総合魔法学院を見て回るといい。自慢するわけじゃないが、ここはこの世でも有数の魔学学院だ。優秀な魔学者もたくさんいるので見ておいて損はあるまい。他に質問はないな、では私は仕事に戻らせてもらおう」
そういって学長さんは手も手に視線を戻して仕事を始めてしまった。仕事に没頭するタイプなのか、もうこちらのことは目にも入ってないみたいだ。
「ではこれで」「失礼しました~」
二人が出て行ったので俺も少女に礼させて一緒に退出した。
聞くタイミングを逃しちゃったけど、ちょこちょこでてくる魔学って何だ?
学長室を出た後、元の世界に戻るまで建物を見て回ることにした俺たちにエーテルが案内をかってくれたので「少し用事を済ませてきますので待っていてください」と言って教務室に入っていった彼女を廊下で二人そろって待っていた。
この子が無口なのは分かっているけど、ここで何も話さないのはやっぱり間が持たない。
「話の内容は完全に理解できたわけじゃないけど、お前がすごいのはなんとなく分かったよ」
「……そう」
「ん? ってことはもしかして向こうの世界で言ったことは全部本当なのか?」
「……(こくり)」
「へぇ~。やっぱりそうだよな~」
あの時は何こいつ電波系か? とか思ってたりしたけど、まさかあの時は全部本当だなんて思ってもみなかったな。何となく人間離れしてるし、人としての常識を知らなかったりしたとしても、変わった子だなあって思ってただけだし。
「そういえば、俺は実際にその場を見たわけじゃないけど俺を助けてくれたんだろ? 禁止されてるって言ってたけど何で助けてくれたんだ? いや、助けてくれたことは感謝してるけどさ、気になって……」
「……分からない。命令されたわけじゃないのに、禁忌なのに、自分が実行した理由が分からない」
少女は自分でも分からないらしい。
さっきの人達は俺の知らないことを知っていて、この子はそれよりもさらに知っていて、それでも知らない事があるのか。知らない事だらけだな。まあ、世の中知らないことだらけなのは当たり前か。さすがにさっきから新しく知ったことは予想を超えまくったけど。
「分からないなら別に答えてくれなくてもいいよ。ただ俺が言いたかったのは助けてありがとうって事」
「……そう」
「ハハ……」
お礼を言われたときも相変わらず反応が薄いなー。
「それはそうと、命の恩人にはちゃんと恩を返さないとな。命を救ってくれた恩に完全に報いれるかは分からないけど……何かして欲しいことないか」
「……ない」
「ああ……やっぱりそう言うと思ったよ。本当に何もないなら無理にとは言わねえよ、して欲しいことが出てきたら言ってくれよな」
命を救ってくれた恩に完全に報いるのは無理かもしれない。ただの自己満足かもしれない。けれど、恩を返さないと俺の気がすまない。だから、
「お前がして欲しいことは俺に出来る限り叶えるよ、約束する」
「…………」
本当にこの子はして欲しいことがないみたいだな。それとも出来るわけないとか思ってんのか?
とにかく、約束はしたんだ。この先どうなるか分からないけど、この子が望めば絶対に叶えよう。
「お待たせしました」
話が一段落したところでエーテルの用事が終わったみたいだ。
「それでは行きましょうか」
先を進むエーテルに付いていく俺の後で、少女はまるで何かを必死に考えているみたいだった。
エーテルに付いて建物の中を見て回った。
やけに廊下が静かなのは今が授業中だかららしい。異世界でも授業中に廊下を歩くってのはなんかへんな感じだ。
エーテルは聞けば説明はしてくれるけど、自分からは話しかけてはこなかった。ちらちらと少女の方を気にしているので色々と聞きたいことがあるのかもしれない。
いくつかの部屋を回ったところでエーテルは我慢の限界がきたようで少女に話しかけた。
「あなたは……感情の起伏が極端に少ないですね。《代行者》とはそのようなものなのですか?」
「私以外の個体を確認したことはない。だけど、私に類似する性質の可能性が高い」
「? 何故分かるんですか?」
「私を含めて《代行者》には使命に支障をきたさないよう感情にプロテクトがかかっているから」
「「えっ……?」」
なんてことはないように言うけれど、それって元々こんな性格なんじゃなくて無理やりこんな性格にされてるってことか?
「そんなのおかしいです!! 何でわざわざそんなことをする必要があるんですか!!」
「……感情は意志を狂わせるから」
淡々と。いつもと変わらない調子で。少女はそれを当たり前のように言う。
「笑えねぇ……」
感情を封じるのが当たり前だって?
楽しいときに笑えず、悲しくても泣けない。
「それじゃあ、まるで道具じゃないですか! 感情がないなんて、そんなの死んでるのと同じじゃないですか!」
「……《代行者》は主の眼だから。それが役割だから」
「―――っ」
俺は悟った。
この子にとっての自分の存在意義は役目を果たすことだけなんだろう。
他人に少し言われたところで変わることのない使命感。ここで俺達が何を言ってもこの子は変わらないだろう。
今俺に出来ることはない。
だったら仕方がない。
「1つ約束をしよう」
「……?」
表情は変わらないけど唐突に何だと言いたげだ。エーテルも怪訝そうにうかがっている。
「俺はいつかお前を笑顔にしてやる。何時になるかは分からないけど、絶対に守る。約束する」
今が無理なら、時間をかけて変えていくしかない。未来でこの子を変えることが出来ないなんて保証はないからな。
「……そう」
さっき約束したときと同じ返事でどう思っているのかは分からない。けれど、そこはどうでもいい。どう思われようと問題じゃない。
ただ、約束をしたなら絶対にこの子を笑顔にしてみせる、それだけだ。
「……あなた、変わった人ですね」
エーテルは呆れたような、けれど優しい表情で俺のことを変わった人呼ばわりしてきた。
「ほっとけ」
一言だけそう返しておいた。
あの約束の後、案内されたのは中庭だった。
今は人がいないけれど、実技の授業などで使われたり、授業がないときは生徒が集まって賑やかになるらしい。
その一角にあるベンチに座って色々考える。
この先どうするのか。
今までこの子が言っていたことは全部本当だ。
名前がないのも本当で、もしかしたら家がないのかもしれない。
どうやって恩を返そう。
命を救われた恩に報いるなんて本当に出来るのか。
どうやって約束を果たそう。
それはこれから考えていくしかない。
人を変えるなんてそう簡単に出来るものじゃないから。
けれど、諦めたりするつもりはない。
恩を返す、約束を守る。それが俺だから。
横をみてみる。
エーテルも何かを考えているみたいだ。
さっきの学長室での話のときに最後まで食い下がったし何かあるのかもしれない。
他人が考えていることなんて全く分からない。自分じゃないんだからな。
けれど、エーテルの人格は決して悪いものではないと思う。
さっき、俺が少女と約束を交わした時の彼女の優しい顔は多分本心だと思うから。
そういえば、さっきから普通に会話に入っていた魔学って何なのか聞いてなかったな。さっきまでの雰囲気だと聞きずらかったけど今なら普通に聞いても大丈夫だろう。
「なあなあ、さっきから気になってたんだけど―――――」
魔学ってなんのこと? とまでは聞くことが出来なかった。
エーテルがどこか一点を険しい表情で見つめていたからだ。
その視線を追ってみる。
そこには、さっき見た時と同じく歪んでいっている空間があった。
「……来た」
そして、そのときと同じく少女がそれを告げた。
歪みが段々大きくなっている。
あいつが何なのかを知っていれば、驚きはしない。たしか、《歪み》だったっけ。
エーテルも油断なくその場を注視している。さっき見た方はエーテルにとっても少し予想外のものだったらしいけど、心構えさえ出来ていれば問題なさそうだ。
しかし、俺とエーテルはそれでも驚く事になった。
歪みが大きくなって形を成していき、具現化した。
見たことはないけど、あの透明な奴が普通じゃなくて目に見えるのが通常の《歪み》なんだろう。
けれど、目の前にいるのは―――――――何処からどう見ても人間の姿をしていた。