レンガの小径(届かない思い)
家に帰ってから、沙緒理の気持ちはどんどん高ぶっていた。遼希がジーンズを濡らしたうしろ姿と、女性教師の肩に倒れこむ姿が頭から離れなかった。
沙緒理はその夜、遼希が先生のジャケットを腰に巻いて連れて行かれ、姿が見えなくなったあとの、ありとあらゆる可能性を想像しては、その後の遼希のことを思いめぐらせた。
遼希は途中で倒れずに保健室に行けただろうか・・・
途中で泣いたりしなかっただろうか・・・
先生はどんな言葉をかけたのだろうか・・・
具合が悪そうだったから保健室で寝ていたのだろうか・・・
替えのパンツやジーンズはどうしたのだろうか・・・
先生はどこまで遼希に付き添っていたのだろうか・・・
具合が悪かったのなら、先生が遼希のジーンズを脱がせたりしたのだろうか・・・
遼希のパンツはどんなふうに濡れていたのだろうか・・・
先生は遼希の裸を見たのだろうか・・・
おしっこは、全部出きっていたのだろうか・・・
まだ実はしたかったのではないだろうか・・・
遼希と沙緒理は、本人たちはあまり自覚していなかったが、根も葉もないうわさを周囲の女子が立てるほど、まわりから見れば似合いの二人だった。しかし、沙緒理はまだ遼希のことをさほど気にする存在として見てはいなかった。二人で話すことはあったが、沙緒理からみれば、細い身体に中性的な顔立ちの遼希は、警戒心なく普通の気持ちで接することができる一方で、まだときめいたり恥ずかしかったりする相手ではなかった。ましてや、遼希が沙緒理に対してどう思っているかなど、考えたこともなかった。
したがって、学校で会って話す以外には、彼の携帯の番号も知らなければ、家に電話をかけたこともなかった。
ただ、以前家庭訪問で先生を遼希の家まで送っていったことがあり、その場所は知っていた。学校と同じように木立に囲まれたレンガの道の先に彼の家があった。そこへ行くと、不思議とほっとした気持ちになれたのを思い出した。
次の日から連休となり、学校は長い休みに入った。遼希のことが気になって仕方がない沙緒理は、ブラウスの上にあのとき遼希が着ていたのと同じようなショートのジャケットを羽織り、細身のジーンズを穿いて過ごした。遼希に会えない代わりに、せめて少しでも遼希に近づきたい、そんな気持ちが彼女にそうさせた。
《あのときの遼希はどんなふうに感じていたのだろう・・・》
一晩経った沙緒理の心は、そのことを真剣に考えはじめていた。
終了式の体育すわりのとき、自分もおしっこを我慢していて苦しかった。遼希はそれ以上に我慢していたのだろうか・・・
それは、どんな苦しさだったのだろうか・・・
それとも寒さのせいや、体調が悪くなったせいで、急にしたくなってしまったのだろうか・・・
そして立ち上がったとき、姿勢が変わったことで我慢ができなくなったのだろうか・・・
みんなに見られながら、あのレンガの道を歩くのって、どんな気持ちなのだろうか・・・
恥ずかしかっただろうか・・・
傷ついただろうか・・・
保健室では裸にされたのだろうか・・・
どんな手当てをしてもらったのだろうか・・・
先生にどんな言葉をかけてもらったのだろうか・・・
先生たちの思いやりで、遼希は少しでも暖かい気持ちになれただろうか・・・
それはどんな気持ちなのだろうか・・・
温かかっただろうか・・・
おしっこを漏らしてしまう瞬間って、どんな感じなのだろうか・・・
パンツを穿いたままおしっこがあふれると、どんな感じがするのだろうか・・・
そして、脚の内側や靴の中は・・・
いつまで温かいのだろうか・・・
すぐに冷たくなるのだろうか・・・
そのまま歩くときはどんな感じがするのだろうか・・・
沙緒理は、幼稚園のとき以来いままで、家庭や集団生活の中を含めておもらしをした記憶が一度もなかった。漏らしてしまいそうに思うことは幾度となくあったが、それらは幸いなことにすべて切り抜けられた。これまで、本当に運が良かったと沙緒理自身も思っていた。
しかし、刻々と、遼希のことが気にかかりだす沙緒理にとって、おしっこを漏らした遼希の気持ちが分からない自分が歯がゆく、もどかしく、そして悔しい気持ちさえ感じていた。沙緒理は幸運な自分の生い立ちを初めて恨んだ。
おもらししてしまった遼希が、なにか自分には想像のつかない、とても大きな未知の体験をしたように感じて、自分がそれに追いつけないことが哀しく、そして切なかった。中学校でも、小学校でも、あるいは幼稚園でもいい、そういう記憶があれば、少なくとも彼に近づき、彼の気持ちを思いやることができるのに、と思った。
彼と同じ服を着て、姿見に自分の姿を映した沙緒理は、そこでおしっこをすごく我慢している状態を想像し、膀胱の筋肉を引き締めたあと、そっと緩めてみた。鏡に映る自分の姿が、あの日の遼希と重なり、彼が、そして自分が、か弱く、そして可愛らしく感じた。
しかしいくらそう思ってみても、彼にその気持ちが届かない切なさだけが残った。