白い洗面器(はやく吐きたい・・・)
「だめ?」
「うん・・・せんめんき・・・」
ベッドに横向きに寝ていた麻衣が、思い切ったように、翔人に言った。
翔人は急いでバスルームから白い洗面器を取ってくると、そっと麻衣の顔の横へ差し出した。
ホテルの朝食バイキングを食べ終わった麻衣が、部屋に戻る途中のエレベーターの中で軽い吐き気を催したのは30分ほど前だった。美味しさに乗じて、普段朝から食べ慣れない料理をたくさん食べてしまったのと、夕べのお酒が残っていたせいもあるのかもしれない・・・
麻衣はそう思い、自分の行動を後悔していた。
翔人とは、初めての旅行だった。恥ずかしい、みっともないところは見せたくない、早く快復したい、その麻衣の願いは時間が経つにつれ、叶わないように思えてきた。
《吐きたくない・・・》
そう思っていた麻衣だったが、ある瞬間を過ぎたときから、動悸に見舞われはじめた。気持ち悪さが一線を通り越して、身体が吐くことを予感したからだった。そして、吐きたくないという彼女の気持ちは、いつしか
《どうしよう、吐いちゃう・・・》
《はやく、吐きたい・・・》
という気持ちに変わっていた。
それでも麻衣は、翔人の前で嘔吐するのを恥ずかしくてためらっていた。でも、喉の奥がひくっと動くのを感じはじめたとき、覚悟を決めて翔人に言った。
「おねがい・・・せんめんき・・・」
麻衣は、翔人の持ってきてくれた洗面器の上に、うつぶせになって顔を出した。綺麗な白い洗面器の底にある使い込んだ無数の小傷が、間近に見えた。やがてそれが自分のたくさんの吐瀉物で隠れてしまう様子を、麻衣は想像した。
何も言わないのに、すぐに翔人の手が自分の背中を力強くさすってくれるのを感じた。すると、さっきまで感じていたものすごい気持ち悪さが嘘のように引いていった。
《あ、なんだ・・・大丈夫かも・・・》
そんな麻衣の一瞬の期待はすぐに裏切られた。まるで絶頂のように身体から何かがこみあげてくる、猛烈な感覚が高まっていったからだ。
「あっ・・、吐いちゃう・・・」
恥ずかしい気持ちもかなぐり捨てて、麻衣は初めて翔人の前で「吐く」という言葉を口にした。予想以上に早くやってきたこみあげに、もう抗うことなど不可能に思えた麻衣の選択だった。
「どうしよう、吐く・・・」
「吐いていいよ、麻衣」
「あっ・・ぁぁっ・・・」
麻衣はかすかな悲鳴に似た声を上げると、洗面器の上で自然にしどけなく口をあけた。
「ぁ・・ぐぅぇっ・・・」
「・・・」
「げぅぇぇぇぇっ・・・」
普段の自分の声とは全く違う、恥ずかしい太いげっぷのような声とともに、ご飯粒の混じった透明な液体が、洗面器の中に”サァァァ・・・”と静かな音を立ててたくさん流れていった。麻衣はおなかの筋肉が痛いほど激しく収縮するのを感じていた。
翔人はずっと麻衣の背中をさすり続けた。
「吐いちゃった・・・」
麻衣は上擦った声で言った。胃液の酸っぱい香りが自分の口と鼻いっぱいに広がっていた。
「麻衣、いっぱいげぇしちゃったね」
「うん・・・」
「すっきりした?」
「うん・・・」
麻衣は翔人のやさしい問いかけに、少しはにかんだ笑みで答えた。翔人の前でやっぱり吐いてしまった自分を恨めしく思いながら、麻衣の身体は吐いた直後の、やるせなさの混じった気持ちよさに包まれていた。
でも、なぜか翔人は、まだ背中をさするのをやめなかった。彼の手が背中を上下するのにあわせて、自分の首が揺れているのを感じながら、麻衣は自分が吐いたもので満たされた洗面器の奥のほうをしばらく見つめていた。
《たぶん、もう吐かない・・・》
と麻衣が思った頃、
「麻衣、まだ出そうでしょ?」
ふとかけられた翔人の言葉に、麻衣の身体はふたたび刺激された。それは”もう吐かない”という彼女の希望を裏切らせるように、さっきまでの「やるせない気持ちよさ」を少しだけ悪いほうに変えた。
「うぅん・・・」
「ほんとに?」
「ぁ・・・まだちょっと、気持ち悪いかも・・・」
「じゃあ」
背中をさする翔人の手が少しずつ速くなった。麻衣の気持ち悪さがふたたび引いて、吐き慣れてしまったせいか、絶頂感に似た感覚がさっきよりも急にこみ上げてきた。麻衣はふたたび自分が吐くことを予感した。
《あ・・・また・・・吐いちゃう》
翔人の手がいっそう速く、そして力強くなったそのとき、
「あ・・・ぁっ・・・」
「げぇして、麻衣、げぇ」
「ぁごぇっ・・・」
「・・・」
「げぇぇぇぇ・・・」
2度目の絶頂に似たこみあげとともに、身体全体が痙攣するかのような力が入り、麻衣はふたたび洗面器の上で吐いた。麻衣の身体を気持ち悪くしていた残りの吐瀉物が、流れるようにたくさん洗面器の中にあふれていった。
やがて麻衣の嘔吐が完全に止まったのを確認すると、翔人は少しずつその手を止めた。