卒業旅行(私、無理してる、絶対・・・)
替えのズボンや靴を持ってきていなかった海斗をコテージに残し、紗季はひとり、リゾートセンターのランドリーコーナーにいた。
つま先まで濡れた海斗のスニーカーを靴の洗濯機に入れ、ジーンズ、ショーツ、シャツ、靴下などをひとつひとつバスケットから手に取るたびに、紗季にはさっきまでの衝撃的な光景が鮮やかによみがえってきた。
靴からあふれ出し、広がっていく水、
みるみる濡れていく両脚、
ジーンズの中でおしっこが渦巻く音、
おしりやひざから滴る水、
私のなすがまま、脱がされる彼、
ズボンの中でふやけてしまったシャツ、
ぐっしょり濡れたショーツ、
綺麗な太腿とVライン、
そして・・・
それらはすべて自分のせいだったり、自分が進んで世話したから目にしたことなのに、まるで傍観しているかのような目線で繰り返し繰り返し、続けざまに紗季の脳裏に浮かんできて、彼女の心は乱されていった。
そこには、きっとすごく恥ずかしい思いをして、気丈に振る舞っていてもきっととても傷ついている、海斗の心を思いやる気持ちももちろんあった。しかしそれだけではないと感じていた。思いやり、感情移入、謝罪・・・、それらの類とは明らかに何か違う感情が、激しく彼女の心を叩きはじめていた。
「おかえり、紗季。洗濯、大変だったでしょ? ありがと」
ランドリーから帰ってきた紗季を迎えた海斗の明るい声に、紗季ははっとした。
空のバスケットを玄関に置き、テーブルの椅子に腰掛けた紗季の前に、キッチンからアイスコーヒーとグラスを持って海斗が現れた。
紗季のすぐ脇で、身体を斜めにかしげながらコーヒーを置く海斗の太腿が、女性のように艶かしかった。身体にぴったりしたタートルネックの白いセーターから、ブルマーのように綺麗なVラインを醸し出している紺色のショーツを見せながら、恥ずかしげもなく立つ彼の姿に、紗季はどきっとした。
「うぅん・・・」
一言だけそう応える紗季の斜め横に海斗が腰掛けると、ふたりはコーヒーを飲んだ。海斗が言った。
「ほんと、ごめんね紗季、さっきはびっくりさせちゃって」
「うん・・・でも、海斗くん・・・どうしておしっこ漏らしちゃったの?」
「わかんない・・・でも、なんだか漏らしちゃってすごくすっきりしたんだ。こう・・・ジャーッてしちゃってちょっと恥ずかしかったけど・・・べつに強がっているわけじゃなくて」
海斗が、ショーツから伸びる長い両脚の内股をさするような仕草で、漏らしたときの様子を表現する姿に、紗季はドキッと胸が高鳴った。その一方で、その気持ちを打ち消そうと、彼のそういう態度を否定する思いで言った。
「恥ずかしかった・・・でしょ、すごく?」
すると、すかさず海斗が明るく答えた。
「恥ずかしいよね~。まさかこの歳になって漏らしちゃうなんて」
彼は、まるで車酔いしていた子がたくさん吐いてすっきりしたあとのように、急に快活になっていた。
《なんで・・・そんなに元気に振る舞えるの?》
《さっき脱がせていたときは、あんなに沈んで、傷ついていそうだったのに・・・》
元気になった海斗を見て、紗季は少し安心したのと裏腹に、あれほど恥ずかしいはずのさっきの出来事について、避けようともせず堂々と話す海斗にどぎまぎした。まるで、お世話してあげた小さな男の子が、急に素敵な男性になったかのように、紗季の気持ちは混乱した。
《そんなに爽やかにしていられたら、こちらが逆になんだか切なくなる・・・》
《ねえ、さっきみたいに戻ろうよ。もう一度、おもらししたら・・・そしたらまた、着替えさせてあげるのに・・・》
海斗が言った。
「でも、紗季、ほんとにありがとね。・・・最後におもらしなんて、格好悪いけど・・・紗季にお世話してもらって気持ちよかったし、すごく・・・忘れられない思い出になった気がする」
《え、そんなのないと思う。もうお別れみたいに言うの・・・最後の思い出だなんて・・・》
《私、どうしちゃったんだろう? 海斗に惹かれてる? 焼きもち焼いてるのかな?》
《ここへきて、いまさらどうして、こんな気持ちに?》
「そうね、いい思い出・・・かも」
紗季は笑顔を引きつらせながら、そう言っておもむろに立ち上がると、海斗に背を向けて、暮れかかる夕日の差し込む窓辺にもたれかかった。
目の前の木々はすっかり葉が色づき、地面はまるで落ち葉のパレットだった。紗季はそれを眺め、黙った。
ずっと海斗の世話に気持ちを集中していた紗季は、いまはじめて自分が、とてもおしっこしたくなっているのに気がついた。だが、それはきっと窓辺の冷気のせいだろうと思っていた。
《私、無理してる、絶対・・・》
《海斗くんは最後に勝手におもらしして、勝手にびっくりさせて、勝手に私に甘えて、勝手に私にショックを与えておいて、勝手に私を魅了して、そして別れるんだ》
《海斗くん、私だけ後ろ髪引かれる思いをさせるなんて、ひどい・・・、ひどすぎる》
まるで大きくなった彼がどんどん離れていって、自分がどんどん小さくなり、置いていかれそうな気がした。紗季は、身体から何かがこみ上げてきそうな感覚に襲われた。
そのとき、海斗が紗季に訊いた。
「そういえばさっき・・・脱がせてもらってたとき、紗季にもこんなことあったって言ってたけど、ほんとなの?」
紗季は、はっと気づいた。
《そのとき心の中にあった、哀しさや淋しさのような気持ち・・・》
《大切な人がどこかに行ってしまいそうな、自分が取り残されそうな不安や怖さ・・・》
《子どもだったら、おもらししちゃうかのような気持ち・・・》
《でもその人に甘えれば・・・治るんだよね》
《・・・さっきの海斗くんもこういう気持ちだった・・・》
紗季は、今にもこみ上げてきそうな感覚が何を表しているのか、分かりはじめていた。
《それで・・・海斗くん、おもらししちゃったんだ》
《ごめんね海斗くん、あんな恥ずかしい思いをさせちゃって》
《海斗くん、私のこと、きっと恨んでるよね?》
《それなのに、私・・・私、どうしたらいい?》
紗季は海斗に背を向けたまま、その感覚を一生懸命に抑えながら、話しはじめた。
「そういうこと・・・、うん・・・あるかも・・・」
日が沈み、庭の落ち葉が、風にそよいでざわめきはじめた。紗季の身体をいっそう冷気が包んだ。
「え・・・いつのこと?」
海斗が訊ねた。外が暗くなるにつれ、紗季の顔がガラスに反射して海斗からもかすかに認めることができた。紗季は物憂げな表情をしながらも綺麗な目をしていた。
「すごく・・・最近・・・」
「最近?」
「・・・」
ガラス越しに海斗と目が合った。だんだんはっきりと映ってくる海斗の顔から、紗季は視線をそらした。怖くて、とても海斗のほうを向きなおることはできなかった。
《いま、海斗くんのために、そして私のために、できること・・・》
《それは・・・怖い、でも、今じゃなきゃ、もう・・・》
《これを言ったら、もうあと戻りできない・・・》
紗季は思いきって、声を震わせながら言った。
「大切な人が、どこかに・・・あの木立の中に消えてしまいそうで、不安で、怖かったの」
「でも、その人はそんなの関係なさそうで、その人の気持ち、見えなくって・・・」
「・・・」
「淋しくて・・・」
「でも、その人だって・・・、その人だってきっと淋しくって・・・」
「紗季・・・それって・・・」
「・・・しちゃったんだ、って分かったの。だから・・・」
「紗季、待って・・・」
紗季の身体の異変に気づき、海斗が慌てて呼びかけた。
「海斗くん、私・・・もう・・・」
その瞬間は、我慢できないんじゃなくて、気持ちが抑えられないんだと感じた。下腹部に熱いものがふわっと広がるのを感じると、紗季は凛として、ガラス越しの彼を見た。上気した息で曇りだした窓ガラスに映る海斗の視線が、自分のおしりのほうに向けられているのを紗季は見逃さなかった。
紗季はそのまま黙って目を閉じた。
《すごく、温かい・・・》
《海斗くんもさっき、車のドアにもたれたまま》
《こんなふうに感じてたんだ・・・》
「おしっこ・・・、しちゃった」
紗季は、さっきの海斗のようにそうつぶやいてみた。その声には曇りがなかった。海斗の感じていた気持ちをいま自分も感じ、うれしかった。
そっと駆け寄った海斗の両腕が、紗季の身体を包んだ。離れかけていた彼との距離が一気に縮まった気がした。
”ショォォォォ・・・”
安心して、勢いよく恥ずかしい音をさせながら、下腹部にあふれ出した温かい水が、窓辺にもたれて少し突き出したおしりの下をくすぐっていた。そこから太腿やふくらはぎ、かかとまで、みるみるうちに濡らしながら、紗季はさっきまでの苦しかった気持ちから一気に解放されていった。
「紗季、おしっこしちゃったの? 淋しかったんだね」
海斗が自分の身体を強く抱き寄せ、やさしく背中をさすっていた。
おもらししたのは大人になってから初めてだった。でも、いま彼の前で感じている、温かく、気持ちよく、そしてこの上なく恥ずかしい感覚が、紗季の不安や、怖さや、淋しさを、すべて消し去っていった。