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時間旅行(私、吐くんだ、きっと・・・ )

黒いリクルートスーツに身を固めた彩夏は、翔の目にはまるで別人と思えるほどまぶしかった。



3月のある昼下がり、大学が春休みの翔は、街まで彩夏を迎えにいき、車に乗せた。



4月から入社する内定者の懇親会は、食事会を挟んで無事終わったが、彩夏には緊張の連続だった。郊外へと走らせる車の中で、翔は彩夏の様子がおかしいことに気がついた。



彩夏は、緊張のまま無理して食べたランチコースの料理が消化されないでいた。緊張が解かれた安堵感と、車の揺れのせいで、今までずっと抑えていたものがあふれ出してくるような、心地よい吐き気を感じていた。無理に食べ物を流し込もうと柑橘系のジュースをたくさん飲んでしまったのも、いけなかった。



山沿いの道は少し曲がりくねってきて、アップダウンも多くなってきた。雨上がりの森の中は、木漏れ日がきらきらといくつもの光が明滅するように差し込んで、とても綺麗だったが、それが彩夏の身体をいっそう刺激した。



「うぅぅぇ・・・」



不意にそんな声を出してしまったことにびっくりしたのは、彩夏自身だった。だが、翔はこれから彩夏の身に起こることを予感していた。



翔は、少し広い駐車帯を見つけると、そこで静かに車を止めた。そして助手席の扉を開け、彩夏を支えながらそっと車から降ろした。目の前の常緑の潅木は、ちょうど彩夏たちの目の高さまで葉が生い茂っていて、さっきまで降り注いでいた雨粒が日の光に照らされて輝いていた。



翔は、彩夏の腰に手を添え、森の中をゆっくり進んで、たわわに生い茂る木立の前で立ち止まると、



「ここなら大丈夫」



と言って、おもむろに彩夏の背中をさすりはじめた。



翔にそう言われて背中をさすられた彩夏は、ずっとおなかのあたりを覆っていた重たいものが、すうっと軽くなっていくのを感じた。



目の前を包む木の葉が、自分の中のものを受け止めてくれる・・・そう安心したせいかもしれない。


彩夏は、いままでの気持ち悪さが引いて、すごく楽な気持ちになっていった。その一方、翔の手が自分の背中を上下するのにつれて、何かを出してしまいそうな絶頂感にも似た感覚が急激に高まっていった。



≪え・・・ちょっと、待って≫


≪あ、私、吐くんだ、きっと・・・≫



彩夏がそう思ったのも束の間、


「ごめんね、もっと早く気づけばよかった。でももうだいじょうぶ」


翔がやさしい言葉を囁いたことで、急にこみあげが絶頂に達した彩夏は思わず、声にならない声を出した。


「ぁっ・・・」

「いいよ、だいじょうぶだよ・・・」

「ぁっ、あっ・・・」



「ごぼっ・・・」



彩夏は自分の意思と関係なく、10メートル先にも聞こえそうな大きな喉の音をさせてしまった。慌てて平静を取り繕おうとしたものの、彩夏は自分の胃が勝手に収縮していくのを感じた。



黒いジャケットとスカート、そして白い襟付きのブラウスと、清楚に身を包み、さっきまで翔の前で優雅に振舞っていたはずの自分が、今はその喉もとから下あごにかけて、みるみるとしどけなく開かせていくのを、彩夏はどうすることもできなかった。そして次の瞬間、



「シャァァァ・・・」


と、口から噴き出させる音を森じゅうに響かせて、彩夏は吐いた。



≪私、吐いちゃった・・・≫


彩夏は思った。すごく久しぶりに吐いたこと、しかも寸前まで吐くと思っていなくて、ほとんど心の準備もできずに吐いてしまったことが、自分でも信じられなかった。


しかも、それが翔の前だったことが、すごく恥ずかしかった。


でも、翔に背中をさすってもらい、翔に見守られながら、胃の中のものを出して身体が楽になっていくことが、ものすごく気持ちよかった。


だから、自分が吐いてしまったのはきっと翔のやさしさのせいだと彩夏は思った。そして、今はそれに甘えてしまおうと思った。




《彩夏、こんなに吐いちゃうなんて・・・》


一方、彩夏の嘔吐を予感していたとはいえ、その光景を目の当たりにして翔は驚いていた。彼はただひたすら、彼女の背中をさすり続けていた。


緊張から解き放たれ、木立に守られながら吐いている彩夏の姿が、翔には気持ちよさそうにも見えた。その反面、彩夏がまるで自分の知らない世界に行ってしまうかのような不安をも感じさせた。



彩夏の口からあふれ出た、オレンジがかった太くて透明な液体は、目の前の木立の多くの葉を上から下まで無数の粒々で汚しながらも、それらによってしっかりと受け止められたことで、彼女の衣服をほとんど汚すことはなかった。



「ごめん、どうしてだろ・・・吐いちゃった」


吐き終わった彩夏は、恥ずかしそうに翔に軽く目配せをして、少しだけ微笑んだ。驚いて心細くなりかけていた翔には、そんな彼女がとても艶っぽく、また手の届かない存在に見えた。


「だいじょうぶだよ、気持ち悪かったんだもん、気にしないで・・・。すっきりした?」

「うん・・・」



翔がそっと彩夏をいたわるようにして、もと来た道を下り、駐車帯のアスファルトに降り立ったときだった。彩夏の歩みが急に遅くなった。翔が問いかけた。


「どうしたの?」

「ぅ・・・」

「彩夏?」

「ふぅむぅ・・・」



と力の抜けた悲鳴のような声とともに、彩夏はとっさに顔を横にそむけた。身体は山側に戻りかけようとしたが、それ以上は動けなかった。


彩夏はふたたびこみ上げてくるのを抑えきれず、路側帯の上で立ち止まった。それは全身の力が抜けていくような、気持ちいいこみ上げだった。



≪私、また吐く・・・≫



そう思った彩夏は、おなかに手をやりながら、立ったまま顔だけをちょっと下に向けるのが精一杯だった。


翔に甘えてしまったせいもあるかもしれないが、一度吐いた自分の身体は、もう吐くことに慣れてしまっていた。


「げぇっ・・・」


”ビチャビチャビチャ・・・”


さっきより薄くなったオレンジの液体は彩夏の口からだけでなく鼻からも同時に溢れて、アスファルトの上に音を立てて落ち、彼女のストッキングやパンプスにも激しく飛び散っていった。



翔はふたたび彩夏の背中をさすった。




「彩夏、よほど緊張してたんだね・・・大変だったね」



誰よりも大切な彩夏が激しく嘔吐する一部始終を見ていた翔は、一層心細くなっていった。彼は、吐き終わった彩夏をその場に座らせると、持っていたハンカチを彼女にそっと渡した。



彩夏はスーツ姿に似つかわしくないあどけない笑顔でうなずくと、それを使って口や鼻のまわりについた吐瀉物を拭った。吐いたことは恥ずかしかったが、すっかり胃の中のものを出した彩夏はすっきりした気持ちに包まれていた。そして翔にやさしくしてもらえたことがうれしかった。



吐き気がおさまるまで少し休んだほうがいいと判断したふたりは風に吹かれながら、その場でしばらく休むことにした。


「吐いちゃった後は、歯とか食道とか荒らすといけないから、口をゆすぎながら飲んでね」

「ありがと、翔くんもいっしょに飲も」


彩夏を迎えに行く前に買っておいて、少しぬるくなった2本のスポーツドリンクが、彩夏と翔の喉を潤した。


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