メッセージ(みさきの思い)
テニスコートでの出来事があってから、ひかるはみさきがそれまでのように元気がなく、悩んでいるように感じていた。それでも時折、ひかるがやさしく声をかけ、それとなく励ますと、みさきはうれしそうな笑顔を見せた。
そんな状態が半月ほど続いたある日、
「放課後、いつもの教室で待っていてほしいの。話・・・したいこと、あるんだ」
ひかるはみさきからそう伝えられた。ひかるはテニスの練習が終わる時間まで、木洩れ日の差す誰もいない教室で、じっとみさきを待った。
みさきは、その日テニスサークルを休んだ。更衣室で髪をとかし、化粧を直し、服を着替えた。後ろ姿を鏡に映して、丸くかわいらしいおしりを包んでいるインディゴブルーのジーンズをじっと見つめた。ひかるにいちばん綺麗な、そして印象に残る自分を見せたいと思っていた。
しばらくののち、テニス用の大きなバッグとともに教室に現れたみさきの、顔の色艶と装いの美しさに、ひかるは思わず目を奪われた。
「留学?」
みさきの言葉に、ひかるがびっくりして訊ねた。
「ボストンにいるパパが、こっちへ来ないかって。英語の勉強にもなるし」
「いつまで?」
「行ったら、たぶん2年は帰れないと思う」
「そうなんだ・・・でも、突然なんだね・・・」
ひかるは言葉を失った。
静まり返った教室の中で、時間だけが過ぎていった。みさきは言葉の合間に、まるで沈黙を避けるように、大きな水筒のスポーツドリンクをストローで飲んだ。
「みさきとは、いつも急に、別れることになっちゃうんだね。あのときみたいに・・・」
ひかるがつぶやいた。
いつのまにか水筒の中のものを全部飲みきってしまったみさきは、思い切ったように、話し出した。
「私、卒業生を送る会のとき・・・ね・・・」
ふたたびためらうみさきの言葉をさえぎるように、ひかるが言った。
「覚えてるよ。いつも優等生で、そんな失敗しそうもないみさきだったから、びっくりした」
「恥ずかしい・・・」
「そんなことないよ。誰にでもあることだよ」
「自分でも、どうしちゃったのかな・・・って思ってたの。先生に言ってトイレに行かせてもらおうと思ったんだけど、タイミング逃しちゃった。そしたらなんだか心にぽっかり穴が空いちゃって・・・」
「穴?」
「みんなと別れて自分だけ引っ越しちゃうのが淋しかったっていうのもあるんだけど、あのとき、ひかるくんとけんかしちゃってたでしょ。謝りたくても謝ることもできない自分がいて・・・、そしたら自分の気持ちも伝えられないまま、私行っちゃうんだなあって」
「あれから、顔を合わせることもなく、みさき、行っちゃったもんね・・・。そうだったんだ。でも、そのとき伝えたかった気持ちって・・・?」
「・・・」
ふたたび長い沈黙が続いた。目を伏せたみさきが時折、脚を閉じたり、腰をおもむろにひねらせはじめていた。
みさきの様子が気になり、ひかるが訊いた。
「この間、みさき、水をこぼしたとき、泣いちゃったでしょ? あれって・・・どうして?」
みさきは、少しためらったあと、話しはじめた。
「急に・・・思い出しちゃったの。ひかるくんの前でパンツを濡らしちゃったことが、急に恥ずかしくなっちゃって・・・そのときはどうしようもなくって・・・ごめんね」
「そうだったんだ・・・」
みさきは続けた。
「でも思い出すうちに、あのときの気持ちが・・・なんだかよみがえってきたの・・・」
「あのときの・・・気持ち?」
「・・・」
ふたたび沈黙が訪れた。
みさきの様子が変わった。ひかるに悟られないよう、身体はじっと動かないでいるものの、小刻みに肩が震えているように感じられた。
みさきの心の中に、きっとわだかまりのようなものがある。みさきを傷つけないように、それを出してあげるには・・・
そう思ったひかるは、思い切って切り出した。
「みさきがあのとき・・・、送る会のとき、おしっこを漏らしてくれたから、僕、ずっとみさきのこと覚えてた」
ひかるの言葉に、みさきの目が輝きはじめた。その表情に促されるように、ひかるは続けた。
「みさきのこと、覚えてたから、だからこうしてまた逢えたんだと思う」
「ひかるくん・・・」
「僕、あのあとみさきのことが気になってたんだ。みさきの席の下に、綺麗な水が広がってるのを見て、みさきが何か言い残していったような、そんな気がしたんだ。みさきは、僕にきっと伝えたいことがあったんじゃないかって・・・。無理だと分かっていたけど、あのとき保健室に行って、みさきの世話をしたいって、そこまで思ってたんだ・・・」
みさきは言った。
「あのとき・・・、保健室で先生にジーパンを脱がされてたとき、これが先生じゃなくてひかるくんだったらなあって思ってた。ここにいるのがひかるくんだったら、きっと謝りたいことも、心のわだかまりも、今だったらぜんぶ素直に話して、行けるのにって」
みさきの顔が上気した。そして手が震え出していた。
「ひかるくんのこと、好きだったの。今も好き。私のこと絶対、忘れないでいてほしいの」
いつもは温和なみさきの叫ぶような声に、ひかるはただ黙ってうなずいた。
みさきは、身体の中から張り裂けんばかりの気持ちを発し、そしていよいよ、そのときが来たことを悟った。
「私・・・、怖い」
まるで引き付けを起こした子供のように、みさきの身体が硬直した。ひかるはみさきの脇にしっかりと寄り添い、肩を抱きかかえるようにして、彼女の手をしっかりと握った。ひかるが視線を落とすと、今にも弾けようとしている彼女をしなやかに包んでいるデニムのジーンズが見え、ひかるは固唾を呑んだ。
ひかるの愛を感じたみさきは、うれしそうにはにかんで、目を伏せた。
しばらくののち、みさきの身体の震えが収まった。わずかに開いたみさきの両太腿の間に、透明な水が静かにあふれていくのを、ひかるは見守っていた。
それは椅子の端に広がったあと、床に落ちていった。その水の音が静かな教室にやさしく、そして長く響き渡っていた。




