第30話《side:ランス》
――俺はエヴァンジュリンが欲しい。氷の美貌を歪ませて、俺のためだけに泣かせたい。
いつのまにか、そんな妄想ばかりが頭を占めるようになっていた。
俺はようやく理解した。そうか、これが恋なのか……と。
身の内側から焦げ付くような熱――俺は今、間違いなくエヴァンジュリンを愛している。
だからこそ、兄上のベル=ツェルネ行きを俺は心待ちにしていた。
クララ元王女と外務局のターナー公爵は「必ず上手くいく」と自信たっぷりだったし、わざわざこの俺が海の向こうまで足を運んで、あれだけ手間をかけたんだ。王位のひとつやふたつ、当然の礼だろう?
――本気で、そう思っていたのに。
「なっ……!? 兄上がクララとターナーを追い返しただと!?」
自室で過ごしていた俺に、内廷府長官であるナサニエル・ガルシア公爵が知らせを運んできた。
「ええ。残念ながら」
「嘘だろ……!? 兄上なら、国のために喜んで身を差し出すと思っていたのに……!」
ベル=ツェルネ産魔晶石の関税撤廃は、国の発展に直結する交渉だ。
だから、国を思えば兄上は行くに違いないと思ったのに。
「……なぜだ、兄上」
俺は兄上の性格を知っている――自分が損をしてでも国益を優先するのが兄上だ。なぜか私利私欲が薄く、あんなに優秀なのに法に準じて期限付きの一代王という立場に甘んじていた。
……なのに、蹴る?
「くそっ。兄上め……見損なったぞ! 今さら王位が惜しくなって、ベル=ツェルネ側の要求を突っぱねたんだな!?」
俺が鼻息を荒くしていると、ガルシア公爵は首を振った。
「いいえ。グラディウス陛下は、ただ突っぱねただけではありません。両国の利になる良い取引をなさったようで」
「なんだと?」
「ランス殿下とマグダレーナ様が練りに練った今回の計画ですが……陛下のほうが上手でしたね」
王家と同じ紫の目を細め、ガルシア公爵はゆったりとした口調でそんなことを言ってきた。
「くっ」
悔しさに歯噛みする俺をよそに、ガルシア公爵は余裕そのものだ。
「やはり、陛下の手腕はいつもながら鮮やかでいらっしゃる。なんと素晴らしい王でしょう」
「おい、ガルシア公爵! お前、母上の寵臣のくせに!! 兄上を褒めるな!」
「……おや。これはこれは、失礼いたしました」
ガルシア公爵は笑みを深めた。まるで、間抜けな動物を眺めるような目をしていやがる。
「ところで、ランス殿下。陛下はあなたに、このような命令を下されましたよ」
ガルシア公爵は、手に持っていた書状を俺に差し出した。
ひったくるようにしてそれを読み、俺は声を裏返らせた。
「……はぁ!? こ、この俺を、王家直轄領の管理官補佐に任命する……だと!?」
左遷だ。しかも補佐。
兄上は、俺を王都から追い出す気なのか!?
「今回の密約へのささやかな仕返し……あるいは、『現場を学べ』というお考えなのかもしれませんね」
「ふざけるな!!」
憤慨する俺をよそに、ガルシア公爵は完全に他人事のような顔をしている。
「市井での経験は、ランス殿下が国王になられた折にも役立ちましょう。それでは、私はこれで」
悠々と礼をして、俺の部屋から去っていく。
「ふん!!」
書状をびりびりに破いて捨てたが、気分は全然すっきりしない。肩で荒い息をついていると、今度はメイドがやってきた。
「ランス殿下。書状が届いております」
「なんだ、また手紙か! 今度は誰からだ!? どうせまた、ろくでもない手紙だろ!?」
「それが……」
メイドは眉を寄せながら、濁った声で告げた。
「パトリシア・ヴェルトワーズ侯爵令嬢からの私信です」
「……パトリシア?」
そういえば、婚約破棄の後は一度も会ってなかった。手紙を渡してきたメイドが退室してから、俺は手紙の封を切った。
――『ランス様。助けて! このままじゃ私、お父様に修道院送りにされちゃう! ランス様なら、なんとかできるでしょ!?』
(……ふん。バカな女だ)
今さら助けて、俺になんの利益がある? こんな女、もう『価値のない駒』に過ぎないのに。
母上からは「パトリシアには二度と会うな」と言われていたし、俺も会いたいとは思わなかった。昔はパトリシアを可愛いと思っていたかもしれないが、今は違う。
そう、あの女はエヴァンジュリンを嫉妬させるための道具に過ぎなかったんだ。
パトリシアの手紙をクズ籠に捨てようとして、不意に思いとどまった。
「……いや。パトリシアの利用価値は、まだある」
にやりと口角が上がる。
文机に向かい、俺は返事を書き始めた。
『パトリシア、お前に会いたい』――密会の日時と場所を指定して、封をした。
次話は今日(2/5)の20時です。





