第14話
カウンター席に並んで座り、私は少し気まずくなりながら尋ねた。
「……いつから気付いていらしたんですか?」
「いつからだろうね」
質問をさらりと流し、陛下はすっかりくつろいだ様子でバーテンダーにビールを注文している。……ずいぶんと余裕ですこと。
「君は何にする?」
尋ねられ、答えはすぐに出てこなかった。酒場に来るのは初めてだし、成人したばかりでお酒のことはよく分からない。
(ワインなら飲めるけれど、こういうお店にもあるかしら。……メニューって、どこかに書いてあるの?)
さりげなく視線で周囲を探ろうとしていると、
「――エヴァ。私が代わりに選んでも?」
そう言って、陛下は私に確認してから代わりにオーダーしてくれた。
「蜂蜜酒を頼む。度数は低く、甘みを抑えた物を」
バーテンダーが、流れるような手つきでそれを用意してくれた。ことり、と私の前に蜂蜜酒入りのグラスが置かれる。
「それなら飲みやすくて酔いにくいよ。初めてでも、きっと楽しめる」
「……ありがとうございます」
「乾杯しよう」
かちん。と、グラスを合わせる小さな音が響いた。
(それにしても、この人の順応ぶりには驚かされるわ……)
グラスに口をつけながら、ちらりと陛下を見つめた。
今の彼は平民風の上下を纏い、気品が漏れ出ているのに酒場の空気に溶け込んでいる。伊達メガネのレンズに色が付いていて、王家特有の瞳の色も目立たなかった。
長い黒髪は緩い三つ編みに纏められ、飾り気がなくてむしろお洒落だ。――気さくな資産家、とでも言われたら誰も疑わないだろう。
ふと、陛下と視線が合った。
にこりと微笑まれ、また心臓がひくりと鳴る。
「……私、まだあなたの妻ではありません」
周囲に聞こえない声で呟くと、すぐに耳元で囁き返された。
「じきにそうなる」
「……っ」
返す言葉が見つからず、グラスに口を付けた。
……おすすめしてくれた蜂蜜種は、確かにおいしくて飲みやすかった。
「……よく、いらっしゃるんですか?」
「ああ。行きつけのひとつだ。《《引退》》したら毎日でも通いたいと思っていたんだが――愚弟のおかげで、先送りになりそうだ」
陛下は、苦笑しながらジョッキを傾けている。
「好きなんだ。人々の暮らしを見るのが」
そう言って、彼は店内に目を向けた。笑い、語らい、杯を交わす人々を見て、陛下は本当に幸せそうだ。
「君もそうだろう?」
「私が?」
「ああ。君が民を見る眼差しは、とても温かいから」
……いつのことだろう。
私が国民の前で何かをする機会は、あまりなかったけれど。
「三年前、王家の収穫祭に君も参加していただろう? 迷子を見つけた君は、泣き止むまでずっと手を握っていた。親が見つかったとき、本当に嬉しそうだったね」
「……見ていらしたんですか?」
「ずっと見ていたよ」
静かな微笑を口元に溜めて、陛下は長い睫毛を伏せる。
「眩しかったんだ――あの幼かった少女が、こんなにすばらしい淑女に成長していたことが。君が国母になる未来が、楽しみでたまらなかった。……だから私も、君が安心できる環境を整えたいと思った」
陛下の言葉は。とても意外で。
(……そんなふうに考えていてくださったの?)
ランス殿下に婚約を破棄されるまで、陛下とはほとんど話したことはなかった。公的な場での挨拶はあったけれど、私的な会話なんて、たぶん一度も――。
私が記憶をたどっていると、陛下が明るい声音でそれを遮った。
「おや、そろそろ始まるみたいだ」
「……始まる?」
見れば、酒場中央のテーブルから食事が片づけられていく。店員たちが食べ物の代わりに運んできたのは、なぜか何枚ものチェス盤だった。客の視線がチェス盤に集まり、楽しげな声を上げている。
「何が始まるんですか?」
「チェス大会だよ」
「……チェス大会」
チェスはもともと、貴族の遊びだ。けれど、最近では庶民の娯楽としても親しまれるようになってきたのだと陛下は教えてくれた。
「この大会では、プレイヤーの持ち時間は各10分だ」
「10分……かなり短いですね」
「そうだね。だからこそ気軽に盛り上がれる。ところで、エヴァ。チェスの経験は?」
「ありません。ルールは知っていますけれど」
チェスの試合を見るのは好きだ。
お父様――ヴェルトワーズ侯爵が盤に向かう姿を、幼いころには毎日のように見つめていた。
「だったら、やってみないか」
「でも……」
「見るよりも、手を動かすほうが楽しいよ」
そう言って、陛下は私の手を取って立ち上がった。空いているチェス盤のほうに向かっていく。
「王を取られたら負け。あとは、相手の考えていることを想像して遊べばいい」
盤の前の椅子を引いた陛下は、私をそこに座らせた。そして自分も、私と向き合って席に着く。
「さあ、始めよう」
(……もう、押しが強い人ね)
小さくため息をつくと、私は盤上の駒を見下ろした。
……そろり、と前列中央にある白のポーンを進める。中央を取っていくのが定石だと、昔父が言っていた。
陛下も応じるように駒を動かす。
物静かで、手堅いやり取り。……の、はずだった。
(……あれ?)
気付いたときには、退路が消えていた。
すかさず王を逃がそうとしたけれど、すぐに別方向から追いつめられてしまう。
「チェックメイト」
「……あ」
十手にも行かないうちに、負けてしまった。
(こんな呆気なく負けちゃうなんて……!)
「おもしろかったよ」
労うように優しい目線を向けられて、悔しさが込み上げてきた。
「……もう一回お願いします」
「そう? 君が言うなら」
私のやり方、どこがいけなかったの? 今度は先ほどよりさらに、慎重に駒を進めた。
なのに――。
「チェックメイト」
「……っ」
十三手目には、また負けた。
「……もう一回お願いします」
繰り返すうち、少しずつ負ける理由が分かってきた。
でもひとつ弱点を防いでも、すぐに別のところを攻められてしまう。
「チェックメイト」
「あぁ……っ!」
いつしか私は、完全にチェスに夢中になっていた。
「もう一回!!」
次話は20時投稿です。
長編デビュー2周年となりました^^ いつもありがとうございます。
デビュー作のコミカライズも先週1/16に発売されましたので、機会がありましたらお楽しみください^^





