第六話「一閃の攻撃」
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アスファルトは苔に覆われ、異様に捻じ曲がった枝を伸ばしていた。夜の闇の中外の世界はすでに数日、数週間放置されたような終末的な景色に変わっていた。空気は湿気を帯び、異様な土の匂いと何か腐敗したような異様な匂いが混ざり合っている。
真は慣れた住宅街の裏道を使い、建物の影を選んで進んだ。異常な状況下で研ぎ澄まされた危機察知能力と、周囲の状況を瞬時に把握する冷静な判断力だけが頼りだった。一歩踏み出すたびに、足の裏で苔を踏む嫌な感触があった。
「この世界の光景はまるで複数の世界が無理やり一つに縫い合わされたようだね」
フェリオンが小声で呟いた。彼の歩調は驚くほど静かで、煌びやかな装束の装飾が音を立てることもない。彼の動きからは並々ならぬ経験が窺えた。
「敵に見つかったら頼むよ。俺はフェリオンみたいに戦う力はない。倒せてもスライムくらいだ」
「でも君は――いや今はいい」
真たちは路地裏を曲がり開けた駐車場に出た。そこを横切れば大通りに出て、指定された避難所市役所はすぐそこだ。緊張で手のひらに汗が滲む。微かに人の話し声が聞こえるが悲鳴も混じっていた。
「まって」
フェリオンが真の前に立つ。その時、駐車場の奥放置された車の影から低いうなり声が聞こえた。
影から飛び出してきたのは、犬のようだが全身の毛が抜け落ち、皮膚は腐敗したように爛れている獣だった。牙は長く鋭く、目には狂気的な赤色が宿っている。
「犬?」
「なんだこの獣は?」
フェリオンは戸惑ったような声を出した。ゲームでよく見るゾンビ化された犬のような存在だ。動きは速い。だけど一匹しかいないようだ。
「魔獣ではない。アンデッドのようだが僕が知るものより速い……そして何よりも汚い」
フェリオンは顔を顰め、そう言いながらも剣を半分ほど鞘から引き抜いた。剣が鞘の中で微かに擦れる音が妙に大きく聞こえた。
アンデッドの犬は腐敗した口から涎を垂らし、一直線に真めがけて突進してきた。そのスピードは狩りの本能に駆られた野生の獣そのものだ。
「———っ!!」
真は竹刀袋から竹刀を引き抜くこともせず、咄嗟にフェリオンの背後に下がった。自分の竹刀では、あの獣に傷一つつけられないことはスライム討伐で経験済みだ。
フェリオンは一歩も動かない。微動だにしないその姿はまるで彫像のようだった。犬がフェリオンの足元に到達しようとしたそのコンマ数秒――。
「一閃」
フェリオンの口から短い言葉が発せられると同時に、彼の体が残像になった。彼が完全に抜刀した動作すら見えなかった。ただ一筋の金色の光が犬の体を水平に走り抜けたのだけが確認できた。
犬はフェリオンの足元でピタリと動きを止め、胴体の中心から上下に滑らかに分離した。そしてスライムやゴブリンと同じように、たちまち灰色の塵となって消滅する。フェリオンは剣に残った微細な塵を払い優雅に鞘に戻した。
「僕の世界の魔獣とは違う。ただ本能に忠実。だがその分脆い」
真はフェリオンの圧倒的な速度と正確な剣術に舌を巻いた。この男の戦闘能力は真の常識を遥かに超えている。
「汚いな。フェリオンの故郷のモンスターはもっと綺麗で礼儀正しいのか?」
「剣を向けた事は謝っただろう皮肉はもうよしてくれ。僕の世界の魔獣は明確な法則と魔力を持つ。この生物はそれがないまま変質している。一体どこからやってきたんだか」
「ゲームの序盤によく出てくるゾンビ犬って感じだ。数で押してくるタイプ。警戒すべきはあの空飛ぶドラゴンかロボットだろうな」
真は視線を遠くの市役所に向けていた。道のりはまだ三分の一程度。
「このまま建物沿いに市役所まで走ろう」
再び建物の影に身を潜め暗闇へと溶け込んだ。
真たちは、裏道を抜けて市役所前の大通りに合流する地点まで来た。夜の闇と街灯の壊滅的な状態により視界は悪かったが、それでも大通りに出た途端、異様な光景が広がった。車は完全に放棄され、渋滞したまま赤茶けた苔に覆われている。遠くでは爆発音も聞こえた。
「この先が大通りだけど市役所までここからは開けている」
「ああでも開けた場所での戦闘は避けたい。君を巻き込む可能性がある」
真たちが物陰から大通りを観察していたその時だ。
「きゃああああ!」
叫び声と共に、大通りの奥から奔流のような人々の集団が押し寄せてきた。数百人規模だろうか。彼らは真と同じく、制服姿の学生からスーツ姿のサラリーマン主婦らしい姿まで雑多な構成だった。皆顔は蒼白で避難所へ向かうというよりは、ただ恐怖から逃走しているように見えた。
「何だ?何が起きている?」
フェリオンが驚いて声を上げた。彼が見てきた戦場にはこれほど無秩序で統制の取れていない集団はいなかったのだろう。
「パニックだよ」
真は反射的に状況を把握した。
「何かに追われている。避難所にたどり着けなかった人間が本能で逃げているんだ」
群衆は一瞬で、真たちが隠れている場所まで押し寄せた。彼らはもはや理性的な判断力を失っており、真たちの存在など目に入っていない。
ドンッ!
後ろから来た屈強な男が、真の背中に激しく衝突した。真はたまらず前によろめき、フェリオンも群衆の流れに押し出されそうになる。
「離れよう!」
真はそう叫びながらフェリオンの服の袖を掴み、近くの閉まった商店のドアの脇に無理やり体をねじ込んだ。
群衆の波は文字通り津波のように押し寄せ、数十秒間真たちの視界を完全に遮った。彼らの足音、喘ぎ、叫び声が全ての音をかき消す。その群衆の中を真は冷徹な目で観察した。彼らの恐怖の先にあるもの――。
「彼らは何から逃げているんだ」
フェリオンが店のガラス越しに顔を青くして尋ねた。
「何かデカいものだ」
群衆の最後尾からそれが現れた。
甲高い金属音を響かせながら、アスファルトを砕き建物を薙ぎ倒しながら進む巨大な昆虫の姿。それはカブトムシのような硬い外骨格と、カマキリのような鋭利な鎌を持つ巨大な虫型モンスターだった。体長は五メートルを超え、全身が錆びついたような黒鉄色に輝いている。その姿はまるで装甲車が昆虫に変異したかのようだ。
ゴオォォォ!
残された人間をその巨体で容赦なく踏み潰し、その鎌で建物の壁を削りながら大通りを占拠しているようだ。
「あれは……厄介そうだね」
フェリオンの口調に初めて明確な焦りが混じった。群衆はすでに通り過ぎ、巨大甲虫は真たちの目の前を通過しようとしている。真たちは建物の影に隠れていたが、甲虫が通り過ぎる際の地響きで店の壁が破壊され逃げ道が狭まった。
「戦えると思う?」
「やめておいた方がいいと思う。あの硬い外骨格は、僕の攻撃が通用するか分からない。無駄に消耗すべきではないね。目的地はあそこなんだろ?通り過ぎた直後全力で走った方がいい」
「わかった」
甲虫の巨大な影が通り過ぎ、視界が開けた瞬間を見計らった。
「走れ!真!!!」
竹刀袋を握りしめ再び夜の闇へと飛び出した。
避難所の市役所はもう目と鼻の先だ。
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