第四話「勇者」
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目が覚めると、部屋は完全に夜の闇に包まれていた。窓の外の街灯の光が薄く差し込む程度で、真は自分がどこにいるのかを一瞬把握できなかった。全身を覆う倦怠感は相変わらずだが、深く眠ったおかげで、意識は幾分かクリアになっていた。
部屋の暗闇の中で、ズビ、ズビと鼻をすする妙な音が響いている。まるで、誰かが静かに泣いているような音だ。
真は横になったまま、軋む体をゆっくりと反転させた。
視線の先に、その人物はいた。
昼間、コスプレだと断じて無視して寝た勇者フェリオンと名乗った人物だ。その男は真のベッド脇の床に胡座をかいて座り、煌びやかな装飾を纏ったまま肩を震わせている。その手元には、真の大切な少女漫画、第27巻が握られていた。
「そこ、泣けるよなあ」
真は半ば反射的にそう口を開いた。この漫画の終盤のクライマックス、主人公のすれ違う想いが最高潮に達する場面だ。
男は真の声だと気づかず、鼻を啜り上げながら激しく同意した。
「想いが伝わらないというのは、こんなにも辛いものなのか」
男は白銀の服の袖で乱暴に目元をゴシゴシと拭った。その袖の刺繍はどう見ても高級品であり、真は思わず「汚れるだろ」と指摘しそうになった。
「――っは!君!!」
ようやく真の存在に気づいた男は、驚愕の声を上げ、手に持っていた漫画を慌てて胸に抱き寄せた。
「夜だからもう少し静かにしてくれない?」
真がそう言うと、男は反射的に片手で自分の口を塞いだ。その動作はあまりにも単純で、まるで躾られた子供のようだ。昼間見た剣を突きつけてきた殺気はどこへ行ったのか。なんとも単純なヤツだろう。
「はぁああ」
真は深く、大きなため息をついた。
起き上がり、腕の皮膚を強く抓る。痛い。痛みはある。つまり、これは夢ではない。しかし、少女漫画を抱えて号泣するブロンドのコスプレ男は消えない。リビングでスライムが出たという幻覚を見た後、さらに上書きされたこの光景もまた、現実の一部だというのか。
「スライムとか、勇者とか、なんだそのファンタジー」
「あああ」と唸りながら体を完全に起き上がらせた。部屋の隅に放り投げた竹刀袋が目に入る。真の言葉を聞き逃さなかった男は、瞬時に涙を止め、表情を引き締めた。
「スライムがどうかしたのか?」
「…家に帰ったらリビングにスライムがいる幻覚を見たんだ。疲れてたからかな」
男は抱えていた漫画をそっと床に置き、真剣な顔でこちらを見た。
「ああ、下にいたやつか。スライムならそこら辺の石ころでも核に当てれば簡単に倒せるよ」
真の思考が停止した。
「うん。核ね、うん。壊したよ」
真は確認するように頷いた。
うん???
真は反射的に、バッと顔を上げて男の顔を見た。片眉を上げて真を心配するような目つきだった。寝る前は、あれほど殺気をぶつけてきた相手だというのに、今は心底善良な市民(勇者仮)の顔をしている。
「スライム、見た?」真は、一音一音区切って尋ねた。
「青いこのくらいのモンスターだろう?子供でも簡単に倒せるやつだ」
男はベッドに漫画を置き、両手で囲うように真が破壊したスライムの大きさを正確に説明した。
「下で?」
「ああ、階段をおりた左手の扉の先にいたね。近付かなければ害はないが、僕の故郷では初心者狩りの定番だ。なぜ君がその程度で幻覚を見る必要があるのか、理解に苦しむけど」
「え、夢じゃないの?」
「夢?何を言ってるんだい?」
男は心底不審そうに首を傾げた。
「――って違う!なんで僕が君の質問に答えないといけないんだ!」
男は我に返ったように怒鳴った。そして腰から煌びやかな剣を引き抜き、切っ先を真に向ける。剣先は驚く程に鋭く尖っており、見るからに刺したら引っ込むような玩具ではない。数刻前の幻覚が、明確な現実として真の前に突きつけられた瞬間だった。
「さっさと僕を元の世界へ返すんだ!」
体から、一気に血の気が引いた。
「さあ!」
剣の切っ先を突きつける。スライムも、この男も、すべて現実だったのか?
その目は真剣で、少女漫画片手に泣いていた泣き虫の影は微塵も感じられない。真は崩壊しそうな理性をかろうじて保ち、自分に言い聞かせた。
「落ち着け俺、まだそうとは決まってない」
「この僕をまた無視するのか!?」
男は怒鳴った。夜の静寂を切り裂くような声だった。
この男も幻覚で、スライムも幻覚だ。もう一度寝よう。
そうすることで、すべてが元通りになるのではないか。非論理的だが他に打つ手がない。真は男を無視し、再びベッドに横になろうと体を傾けた。
「君!また寝る気か!?そうはさせな―――」
怒声を上げた男の手が、真を掴もうと勢いよく伸ばされる。
その手が、真に触れることはなかった。
ガシャンッ
甲高い金属音が響き、男の伸ばされた手がガラス窓の外から飛んできた何かによって弾かれた。
「なに!?」
声をあげて真よりも早く、男は壁に叩きつけられた何かに目線を送る。真も自然と視線をそちらに向ける。壁と床の境目に、奇妙な生物がへばりついていた。
体長は三十センチほど。肌は灰色がかった緑色で、醜い顔と鋭い歯を持つ小さな人型生物だ。粗末な革の鎧を身につけている。そいつは、壁に激突した衝撃から立ち直ろうと、ゴキゴキと異様な音を立てていた。
その姿は、真の頭の中に蓄積された「異世界の生物」の知識と即座に照合された。男はその生物を一瞥すると、興味を失ったかのように鼻を鳴らした。
「ただのゴブリンか」
「え、ただの?あれが?」
真の思考回路は、再びショート寸前だった。スライムで限界だったのに、今度はゴブリン? しかも、目の前の男は、それを「ただの」と表現した。
男は苛立ちを隠せない様子で、再び剣を真に向ける。
「さあ、早く僕を元の世界に」
「そういう場合じゃないだろ!明らかにヤバいってアレ!!!」
ゴブリンと呼ばれた生物は、怒りに燃えた目で男と真を交互に見つめた。そして、その体が、ゴキゴキと嫌な音を立てて、骨格が再構築されるかのように急速に大きくなっていく。
数秒のうちに、それは体長一メートルを超え、まるで小さな獣のようになった。手に持っていた石斧のようなものが床に落ち、部屋のカーペットに小さな穴を開けた。
「僕の話を最後まで聞かないか!」
「今どう見てもそれどころじゃない!!!!!」
ゴブリンの咆哮が真の耳を劈く。その醜悪な顔と、大きく太くなった腕が、殺意をもって真たち目掛けて振りかぶられた。
ゴブリンの巨大な手が、振り下ろされる。
真は咄嗟に両腕で頭を庇うことしかできなかった。肉体的な疲労と、異常な事態への恐怖で体が動かない。
しかし、その衝撃は訪れなかった。
一瞬、部屋全体が金色の光に包まれた。熱もなく、まばゆいだけの光。
男は真の前に仁王立ちしていた。
「――リディオン王国が誇る勇者を、無礼にも無視しようとする愚か者達め!!」
その言葉が言い終わる頃には、光は収束していた。
目の前で、男の剣先がゴブリンの頭蓋に深く突き刺さっていた。ゴブリンは体を硬直させたまま、呻き声一つ上げずに、塵となって崩れ落ちていく。スライムと同じ、跡形もなく消える現象だ。
その一連の速すぎる動作は、剣道の鍛錬を積んだ真の動体視力でも、完全に捉えきれなかった。
男はまるで埃を払うかのように剣を振り、ゆっくりと鞘に戻した。その一連の動作には、先ほどの少女漫画を読んでいた号泣男の姿は微塵もない。
真は全身の震えを抑えながら、立ち上がる。
「貴方、一体何者なんですか」
真の質問は、もはや「コスプレ」を疑うものではない。純粋な恐怖と驚愕からくる問いだった。
男は夜の闇の中で涼しげな顔を上げ、真を見下ろした。その碧眼には、揺るぎない自信が宿っている。
「言っただろう、僕は勇者だ」
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