第三話「コスプレ男」
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手にある竹刀の先を見た。
夕暮れの名残が消え、室内の薄暗い照明に照らされた竹の表面は、ただ乾いている。そこには、青いゼリー状の体液の残滓など、何も付着していない。つい先ほどまでスライムの核が砕け散ったリビングのフローリングも、まるで最初から何も存在しなかったかのように、光沢を保っていた。腐食の跡も、水気の跡も、匂いすらもない。すべてが完璧に消滅していた。
「……なんだ、幻覚だったのか」
真は喉の奥で呟いた。声には勝利の確信よりも、自己を欺瞞しようとする切実な願いが滲んでいた。長時間の鍛錬で蓄積された極度の疲労と、自分の常識が揺らいでいることへの深い不安だけが、身体の芯に残っている。
確かに、竹刀の剣先で核を砕いた手応えはあった。長年の厳しい鍛錬で培った、一点集中の一撃。その感覚の鋭敏は、誰にも否定できない真自身の現実だ。だが、フィクションでしか存在しない生物が、何の物理的な痕跡も残さず目の前で蒸発する。
この矛盾こそが、最も非現実的だった。痕跡が全く残っていないという事実こそが、この出来事が幻覚ではないかという疑念を、真の意識の底で、じわじわと増幅させた。
今、論理と感覚の板挟みで、真の精神は悲鳴を上げている。
「無理だ。疲れてる」
真はそう結論付けた。これ以上の思考は有害だ。長時間の鍛錬と、極度の緊張が、真の脳をオーバーヒートさせ、異常な幻覚を見せたに違いない。そう信じよう。そうでなければ、明日からの世界が真にとって支柱を失った虚ろなものになってしまう。
竹刀を下ろした。だが、体は自由に動かない。
全身の筋肉は鉛のように重く悲鳴を上げ、脳はこれ以上の情報処理を拒否している。これ以上考えることはやめだ。
リビングを静かに横切り、玄関から竹刀袋を回収した。竹刀を袋に収めながら、俺は自己暗示をかける。
(これは、昨日の見た鍛錬の夢の続きだ)
(疲労が原因で幻覚を見ている)
(稽古の時に異世界の話なんかするからだ)
重い足取りで階段を上り始めた。一歩、また一歩。全身の筋肉が軋み、膝が笑う。普段なら意識しない階段の段差一つ一つが、巨大な障害のように感じられた。廊下を歩く間も、真の頭の中は疲労の霧に包まれていた。早くベッドに横になりたい。頭の中の警報を止めたい。体が無意識のうちに、現実からの逃避を選び始めていたのだ。それが、今の真にとって唯一の生存戦略だった。
自室は二階にある。鍛錬に集中するため、真の部屋は簡素で私物はほとんどない。本棚には武術関連の専門書と、わずかながら真が幼少期に両親から隠れて読んでいた少女漫画が数十冊並んでいる程度だ。その漫画は、真にとって堅固な論理の世界から逃れられる、唯一の秘密の安息所だった。
真は自室のドアノブに手をかけた。いつも通りの重さ。いつも通りの冷たさ。
ギィ、と古びたドアが開き、真は部屋の電気をつけた。
六畳ほどのシンプルな自室。ベッドと机、小さな本棚。変わったところはない。そう、思いたかった。
ベッドの脇、真の愛読書(少女漫画)が並ぶ本棚の前。
そこに、男が立っていた。
長身で、光沢のあるブロンドの髪は、真の部屋の蛍光灯の下で眩く輝いている。瞳は澄んだ碧眼で、まるで外国の映画俳優のように端正な顔立ちをしていた。
その男は、真の部屋にはあまりにも不釣り合いな、豪華絢爛な装飾を身につけていた。白銀の鎧を思わせる服装だが、露出が多く、まるで舞台衣装のように装飾過多なデザインだ。腰には、真の竹刀とは比べ物にならないほど煌びやかな、宝石を散りばめた幅広の剣を差している。
そして、その男の手には真の秘密の楽しみである少女漫画が握られていた。表紙には、涙を流すヒロインと、彼女を抱きしめる美形の主人公が描かれている。
男は、真が部屋に入ってきたことに気づくと、驚いたように顔を上げた。
「はい?」
真の口から漏れたのは疲れと混乱が入り交じった気の抜けた声で、全身の倦怠感がまともな警戒心すら阻害していた。
「な!君か!?僕をここに召喚したのは!」
ブロンドの男は、碧眼の瞳を真に向けて怒鳴った。だが、その視線はなぜか落ち着かず、手元の少女漫画のページをチラチラと見ながら怒鳴っている。どうやら、物語の展開が気になって仕方ないらしい。僅かに瞳が潤んでいるような気さえする。たしかに17巻は感動話ではあったが。
「だ、誰ですか?不審者?」
真は警戒して一歩後退した。目の前の男は、さっきのスライムよりもよほど現実的な人間に見える。だが、その異様な存在感と格好が、それゆえにより非現実的だった。
「フシンシャ?は知らないけど、君、僕のことを知らないのかい?」
男は不満げだ。真の手に持っている竹刀袋を見て、僅かに顔を顰めた。その視線には、まるで価値のない粗末な道具を見ているような侮蔑の色が浮かんでいる。
「ともかく、僕が何者であるか、教えてあげよう!」
男は読んでいた少女漫画を机に置き、真に向けて堂々と胸を張った。彼が纏う装飾が、ジャラジャラと音を立て、視覚的な圧力をかけてくる。
「僕は、リディオン王国が誇る、神剣『アークレイ』の使い手!救国の勇者フェリオンだ!」
その名乗りは、あまりにも唐突で、現実離れしていた。
「……」
もう一度言おう。真の疲労はピークに達していた。スライムを見た衝撃、それを討伐した緊張、そして今、このフェリオンとかいう仰々しいコスプレ男の名乗りで、真の感情の許容量は完全にオーバーしていた。
「勇者ぁ?コスプレじゃなくて?」
真の口調は、疲労のせいで完全に冷め切っていた。目の前の男の格好と名乗りは、手の込んだコスプレにしか見えない。しかも、自分の秘密の少女漫画を勝手に読んでいたという事実に、真の怒りは湧くことなく、ただただ疲弊していった。
「こすぷれ?さっきから君は分からない事ばかりいうんだな。まさか、新手の呪文!?」
彼は腰の煌びやかな剣に手をかけた。その剣の柄には、確かに本物の宝石が埋め込まれているように見えた。
「君、僕を召喚しておきながら、その態度はなんだ!すぐに僕を元の世界に戻し、今回の無礼を深く詫びるがいい!」
「召喚なんてしてない」
真は冷静に返したかったが、全身の倦怠感がそれを許さない。まともな会話を続けることすら、エネルギーの無駄に思えた。男は真の返答を無視し、剣を抜き放ち真に向けて切っ先を向けた。銀色の切っ先が、部屋の照明を反射して眩しく輝く。
「さもないと、この神剣アークレイが、君を異端の魔法使いとして処理することに——!」
ガチャンッ
男のセリフは途中で途切れた。
真が男の剣を無視し、手に持っていた竹刀袋を床に放り投げたのだ。鈍い衝突音が、緊張した部屋に響く。真は全身の力を抜いた。真の脳はこれ以上、スライムや、目の前の光を放つコスプレ勇者といった異物に対応することを拒否した。
「…おい、君!」
男が怪訝な声を出す。真はそのままベッドに歩み寄り、制服のまま疲労に任せて横になった。
あぁ、温かい。
柔らかいマットレスが体を包み込む。温かい毛布が、冷え切った体を優しく覆う。全身の神経が、休眠を強く求めている。真は、そのまま目を閉じた。
「寝る」
真の口から、蚊の鳴くような声が漏れた。男が完全に混乱し絶叫に近い声で叫ぶが、もう耳にノイズとして処理され、完全に入ってこない。
「は!?君!ここで寝るのかい!?僕が、この僕が目の前にいるんだぞ!?」
「うん」
男の怒声は、真の耳には届かなかった。
真の呼吸がゆっくりと深くなる。五体満足な男に比べ、真の疲労は深刻だった。現実だとしてもこのまま戦えば、勝てる可能性は低い。だからこそ真は戦うことを放棄し、眠りを選んだ。
勇者フェリオンは、真の部屋の中央で、神剣アークレイを片手に、少女漫画の横に立ち尽くすことになった。彼にとって、これは想像を絶する放置と侮辱だっただろう。
しかし、真はもう意識の彼方だ。
異界の侵入者であるスライムを倒し、異界の勇者と名乗るフェリオンを無視して、
神来 真は、眠りに落ちた。
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