第二話「自宅でスライムに遭遇した件について」
以下から俺→真に変更しました
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カチャリ、と玄関の鍵を開ける鈍い音が、静まり返った家に響いた。
神来 真は、肩にかけていた竹刀袋をそっと床に下ろし、慣れた動作で靴を脱ぐ。稽古終わり、極度の疲労感に満ちた体を抱え、真は独り言のように呟いた。
「ただいま」
誰もいない家。返事がないことは分かっている。
この広い一軒家に、今、いるのは真ただ一人だ。現在の両親が真を引き取ってくれたのは、小学校に入学する少し前のことで、温かい愛情と共に、彼らは真に剣道という研ぎ澄まされた道を教えてくれた。その両親は研究者で長期の海外出張中だ。玄関に響いた「ただいま」という独り言は、この広い家で一人きりであることへの、拭い切れないわずかな寂しさと、彼らへの感謝の念が入り混じった、真なりの儀式だったのかもしれない。
リビングのドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開ける。
夕日が差し込み、室内は温かなオレンジ色に染まっていた。今朝と変わらない見慣れた家具が並ぶ。
その中央、木目のフローリングの上で。
何かが、ゆらゆらと異様な光沢を放ちながら蠢いていた。
「は?」
半透明の、青みがかったゼリー状の物体。液状でありながら一定の丸みを帯び、まるで巨大な水滴がそこに置かれたかのようだ。体表は夕日を反射して煌めき、その中心にはビー玉大の核のようなものが微かに透けて見える。
少しの沈黙。真の脳裏に「スライム」という単語が浮かんだが、即座にそれを否定した。「幻覚だ。これは現実じゃない」と、真は呼吸を整え、幻覚が去るのを待ったが、消えない。
「消えてない……」
目を瞬かせた。幻覚は消えないどころか、明確な存在感を放っている。
真は玄関に置いていた竹刀袋から竹刀を抜き取り、それを杖のようにして、ゆっくりと物体に近づいた。
しゃがみ込み、その奇妙な物体をじっくりと観察する。竹刀の剣先で、そのゼリー状の体表を、恐る恐る突ついてみた。
ブヨ
予想以上に弾力があり、柔らかい。竹刀の先端は僅かにめり込むだけで、すぐに押し返された。つい、その異質な美しさに目を奪われた。
「綺麗、だな」
夕日が差し込む海の中を凝縮したような美しさだ。
その瞬間、スライムの体内に透けて見える核が、強く、ドクンと脈打った。
「ん?」
顔を近づける。青い球体の中に埋め込まれたビー玉はもう一度大きく脈打った。その脈動は、まるで真の思考を嘲笑うかのような、明確な生命の意志を示していた。
真は反射的に大きく飛び退き、竹刀を中段に構えた。その動きに呼応するかのように、スライムはプルプルと振動し、ゆらゆらと真に向かってフローリングの上を滑るように近寄ってきた。
「う、動いた!?」
動揺の声が喉から漏れた。幻覚でも、ただの物体でもない。明確に、意志を持って動いている。
スライムは固まった真の靴下を履いた爪先に触れる。触れた瞬間、凍るような冷たい感覚が靴下越しに伝わり、触れた部分のゼリー状の体が僅かに侵食し、フローリングに焦げ跡のようなものを残しているのが見えた。
「―――っ!」
次の瞬間それは体を大きく歪ませ、青みがかった粘性のある液体を、弾丸のように真の顔めがけて吐き出した。
ヒュッ!
竹刀の稽古で培った反射速度が、極限の状況で発動した。脳が処理するよりも早く、体が後方へ大きくのけ反る。紙一重で、その液体は真の顔面を通り過ぎた。
「っ、危ねえ!!」
叫んだ瞬間、液体は背後の壁にペチッと張り付いた。白い壁紙と石膏ボードが、青い粘液に触れた途端にジュウという音を立て、激しく泡立ちながら、みるみるうちに黒く焦げ、溶け始めた、壁紙が溶け落ち、その奥の石膏ボードに直径五センチほどの穴が開く。
「なんだよこれ」
目の前の非現実的な生物が、酸性の物質で真の家の壁を溶かしている。これは夢でも、疲労による幻覚でもないのか?
その壁を見つめている真に対して、またそれは自身の体を大きく歪め始める。
竹刀を握る手に、全身の力を集中させた。
「先に攻撃したのはそっちだからなッ!」
真はそのまま竹刀を振り下ろした。しかし、竹刀がスライムに当たる直前、スライムの体は液状のまま爆発的に分裂した。十五センチほどの原形が、五センチほどの小さなスライムに一気に分裂し、四方八方へ飛び散る。
ブチッ、ブチッという粘液が弾けるような音と共に、竹刀は空を切り、勢いそのままにフローリングに叩きつけられた。
「くそっ!そんなん、アリかよ!」
四方に散らばった物理的な攻撃が効かない小さな集団を、たった一人で、どうやって処理すればいいんだ。
死角から来られないよう背後を壁にし、分散したものを見つめる。
そうすれば部屋の隅で、分裂した一つがゆっくりと元の形に戻ろうと合体を始めた。
「全然効いてなさそー…」
合体を完了させたスライムが、さらに別の小さな塊を取り込み、元のサイズに近づこうとしている真っ最中だった。中に浮いていたビー玉が現れ、それを中心に集まっているような気さえする。
「……なにあれ、弱点ってやつ?」
今の状況、何にでも試さないと行けなさそうだ。合体しつつあるそれは、真には最も無防備な状態にあるように見えた。
「今!!!」
竹刀を中段に構えた。呼吸を整える。全身の意識を、竹刀の剣先に集中させる。目の前の目標を打ち破るという、剣道で培った純粋な闘争心だけが残った。
床を強く蹴る。
「突きぃッ!」
喉から発せられた気合と共に、竹刀は一直線に突き出された。竹刀の剣先は合体中のスライムの体表を突き破り、内部の核に一撃でめり込んだ。
ピキッ―—
竹が核を砕いた、非常に微かなガラスが割れるような音が、リビングに響く。その瞬間、スライムの体が急激に発光した。光は内側から弾け飛び、スライムは液状ではなく、チリチリという音を立てて一瞬にして蒸発した。
跡形もなく、ただ水蒸気だけがわずかに残った。
「…はぁ、はぁ」
真は激しい吐き気に襲われ、その場に膝をついた。胃液が込み上げてくる。
「嘘だ……ほんとに消えた」
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