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異界ログイン  作者: 穹麿


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第一話「異世界」

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 高校の剣道部の道場は、冬の夕暮れ時、外気を取り込んで凍てついていた。道場内に設置された古い石油ストーブは、隅で微かに燃えているだけで、広大な空間を暖めるには全く足りていない。神来真(しんらいまこと)が吐く息は白く、防具の内側に熱気がこもる一方で、肌に触れる空気は鋭く冷たい。



 真は全身の筋肉が軋むほどの疲労を感じていた。早朝練習から始まり、放課後までみっちりと続いた今日の稽古は、特に厳しかった。全身が熱を発し、その熱が冷たい外気とぶつかって肌を粟立たせる、独特の感覚があった。




 カアァン!



 真の放った一撃が、先輩の面に見事に打ち込まれる、乾いた高い音が道場全体に響き渡った。竹刀が竹刀を打ち、打突部位に正確に当たる。それは勝利の音だった。


「そこまで!」


 審判役の声が上がり、真は面紐を緩め竹刀を下ろした。今日の部活動の稽古は終わった。全身は汗で濡れていたが、勝利の達成感と徹底した鍛錬による疲労が、真の体を芯から満たしていた。


「くっそー、真はやるたびに成長するなー!」


 面を脱いだのは、二つ上の先輩だった。頬を赤くし、爽やかに笑っている。


「ありがとうございます、先輩」


 真は礼儀正しく頭を下げた。真にとって、この汗と、筋肉の疲労と、竹刀の重みこそが、努力によって積み上げられた揺るぎない現実だった。


 先輩は防具を外し、竹刀を片付けながら、突然妙なことを口にした。


「いやぁ、俺、つくづく剣道向いてないのかもなぁ。だってさ、前に異世界行ったときおすすめ職業が遠距離攻撃系魔術師だったんだぜ?この世界でも、刀じゃなくて魔法で戦うべきだったかな」


 真の表情は、明確な関心のなさを示していた。先輩は数年前から世間を騒がせた「異世界ブーム」に乗っかっている人だ。しかし、真にとって、それは単なるヒステリックな流行病に過ぎなかった。


「異世界、ですか」

「ああ、もちろん異世界だよ!真は行ったことないのか?あれ、この話前も聞いたっけ?」


 先輩は気にする様子もなく続けた。


「いや、あの世界でスキルを磨いたおかげで、こっちに戻ってからも集中力だけは上がったんだけど、あのハラハラ感、恋しいなぁ」


 真は先輩の話を、無意識のうちに左から右へ流していた。


 なぜ、目の前の確かな汗と努力を否定し、曖昧な「魔法」や「スキル」に価値を見出すのか理解できなかった。それは、長年かけて積み重ねてきた自分の価値観そのものへの侮辱のように感じられる。





 その時、体育館の扉が開き同じ部活の女子部員が、明るい声で入ってきた。


「先輩たち、異世界の話してるんですか!混ぜてくださーい!」


 彼女はタオルで汗を拭きながら、二人に近づいた。


「ねえ先輩、先輩はどんな世界行ってたんですかー?私は獣人のお姫様がいて、みんな尻尾がフワフワしてる可愛いファンタジーでしたよ!異世界って、本当に夢があって!」


 彼女は目をキラキラさせ、興奮した口調で語る。その話のディテールは細かく、まるでつい昨日の出来事のようにリアルだったが、真はそれを、集団ヒステリーの副産物として片付けた。


「私は精霊使いっていうジョブで、風の精霊と契約して、毎日空を飛んでたんです!楽しかったなー、でも戻っちゃったんですよね。戻る瞬間も本当に突然で、ちょっと寂しかった!」


 先輩は笑いながら答える。


「俺はもっとハードコアな世界だったぜ。魔物も容赦なく襲ってくるし、酒場の飯は不味いし。トイレなんて野ざらしだったしな。俺のジョブは魔術師だったけど、全然スキルが発動しなくてさ。やっぱり向いてなかったんだよ!おかげで、こっちに戻ってきて、日本の温かいトイレに感動したんだよな!」



 真は彼らの会話を、ただの「現実逃避の井戸端会議」として聞いていた。数年前から起こっている集団ヒステリーが、この部室の隅で細々と生きている。なぜ、あの不安定で無意味な体験を、これほどまでにポジティブに捉えられるのか。真には、その思考回路が理解できなかった。



 自分の竹刀袋に防具を詰め込みながら、無意識のうちに彼らとの距離を取った。防具の革の匂い、汗の匂い、そして竹刀の竹の匂い。この五感で感じるものが、唯一の真実だ。


「俺は……」


 真は竹刀袋を肩に担ぎ直した。


「異世界、は別にいいかな」

「えー!真くん、もったいない!」


 女子部員が驚いたように言った。


「別に。俺はゲームとか漫画は好きだけど、そこはきっちり現実とは区切ってるんで」


 少し強い口調になったことに気づいたが、後悔はしなかった。


 なぜこの二人はこれほど楽しそうに語れるのか。この竹刀を握り、この地面を踏みしめる現実こそが、最も重要であるはずなのに。


「俺にとって現実は、この道場の硬い床と、汗の匂いと、竹刀の重みだけです」







「じゃあ、俺はこれで帰ります」


 真は二人に軽く頭を下げると、凍てつく道場を出て、自宅への道を急いだ。夕暮れ時、街灯が道を照らしている。真の肩に食い込む竹刀袋の重みが、現実を繋ぎ止める最後の鎖のように感じられた。


 



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