第7章 歩幅を合わせる
朝、窓の外が白く曇っていた。季節はめぐり、この土地での生活にも慣れてきた。
天気予報は雪。通勤路のバス停に並ぶ人たちが、肩をすぼめて立っている。
コートのポケットに手を入れても、指先は冷たいままだった。
雨は、もう自分で起きて、支度をするようになった。
私が声をかけなくても、服を着替えて、髪をとかして、玄関に立っている。
「いってらっしゃい」
その言葉をかけると、雨は小さくうなずいて出ていく。それだけで、少し安心する。でも、安心と同時に、少しだけさみしくなる。
雨が“自分の足”で歩き始めたことは、うれしい。でも、私の手を必要としなくなる日が、こんなに早く来るとは思っていなかった。
もう社会性を身につけている。
「大きくなるのって、こんなに早いんだっけ」
仕事では主任として、部下の相談に乗ったり、会議をまとめたりしている。佐伯さんとも、よく話すようになった。
雨のことも、少しだけ話した。
「空さんって、ちゃんと“親”してますよね」
そう言われて、うれしかった。でも、心の奥では、まだ“親”になりきれていない気がしている。
窓から見えた冬の空は、広くて、静かだった。
その静けさの中で、私は、雨のことを考えていた。
「次の案件、佐伯さん、進捗どうですか?」
会議室の空気は、年末らしい慌ただしさに包まれていた。資料の束、パソコンの画面、誰かの咳払い。私は主任として、全体の流れを見ながら、言葉を選んでいた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には「晴海小学校」の文字。
一瞬、視界が狭くなった気がした。
「すみません、少しだけ外します」
声が少し硬くなったのが、自分でもわかった。
廊下に出ると、窓の外は灰色の空。
冷たい風が、ガラス越しに頬を刺すようだった。
「はい、夜久です」
電話の向こうから、担任の佐藤先生の声。
「夜久さん、突然すみません。雨くんのことで、少しご相談がありまして…」
“雨くんのことで”
その言葉だけで、心臓が少し早く打った。
「今日、学校で少しトラブルがありまして。雨くんと、佐伯陽翔くんが口論になり、雨くんが感情的になってしまったようです」
佐伯陽翔。
佐伯さんの…?
「詳しくは直接お話できればと思いまして、ご都合がよろしければ、今日の午後、学校にお越しいただけますか」
「…はい。伺います」
声が少し震えた。
電話を切ったあと、しばらくその場から動けなかった
雨が怒った?誰かに向かって、感情をぶつけた?
それは、私がまだ知らない雨だった。
会議室に戻ると、佐伯さんが目を合わせてくれた。
私は、ほんの少しだけうなずいて、言いかけた。
「午後、外出します。続き…」
そのとき、ふと気づいた。
晴海小学校。雨と口論になったのは——佐伯陽翔。佐伯さんも、呼び出されているかもしれない。
「…すみません、午後の進行、他の方にお願いできますか」
佐伯さんは、少しだけ目を伏せて、静かにうなずいた。
その仕草に、何か言いかけたような気配があったけれど、私はそれ以上、言葉を探せなかった。
会議室の空気は、さっきより少しだけ重く感じた。
私は、資料を閉じて、席を立った。
廊下を歩きながら、頭の中では雨の顔が浮かんでいた
怒った雨の顔を、私はまだ知らない。それが、少し怖かった。
晴海小学校の正門をくぐると、冷たい風が頬を撫でた。校庭の隅に積もった落ち葉が、風に巻かれて舞っていた。
受付を済ませて、面談室に案内される。
廊下の窓から差し込む光は、冬らしく淡くて、静かだった。
面談室には、担任の佐藤先生と佐伯さんがすでに座っていた。
雨は、廊下の椅子に座っていて、うつむいたまま動かない。一瞬私を見てはっとした顔をしていたけど、すぐに目線を下に戻した。
「お忙しいところ、ありがとうございます」
佐藤先生の声は丁寧で、でもどこか緊張していた。
「今日、雨くんと陽翔くんが口論になりまして…、それで、陽翔くんが少し不用意な言葉を使ってしまったようです」
私は、佐伯さんの横顔を見た。
佐伯さんは、静かにうなずいていた。
「“雨のお母さんって似てないよな”とか、“お父さんのいない、変な家”とか…」
その言葉が、胸の奥に重く落ちた。
「雨くんが、それに対して怒って…手を出てしまったようです」
雨が怒った。誰かに向かって、拳を振るった。
それは、私がまだ知らない雨だった。でも、知らないままでいたかったわけじゃない。
怒ることも、傷つくことも、誰かにぶつかってしまうことも——それが“子ども”だってことは、わかってる。でも、私はその“子ども”の親じゃない。
それは、ずっとわかっていた。
私は、雨を産んではいない。
雨を育てる資格があるとも、思っていない。
「変な家」
「お母さんに似てない」
その言葉は、私に向けられたものじゃない。でも、雨がそれを受けたとき、私の中にも、何かが痛んだ。
私たちは、家族じゃない。でも、雨が泣くとき、眠るとき、笑うとき——そのすべてを見てきたのは、私だった。
それでも、誰かの言葉ひとつで、私たちの関係は“変な家”にされてしまう。
それが、悔しかった。でも、それ以上に、私は“親”として、雨の怒りをどう受け止めればいいのか、わからなかった。
叱るべきなのか。
抱きしめるべきなのか。
そのどちらも、今の私には、正解に思えなかった。
面談室の空気は静かだった。でも、私の中では、何かが崩れていた。私は、雨を育てられるのだろうか。
きっと、育てきれない。でも、雨が一人で立てるようになるまでは、私は、そばにいたいと思っている。
それだけは、私の中で、確かにある気持ちだった。
佐伯さんは学校を出るそのときまで私たちに頭を下げていた。
学校を出てから雨は、私の少し後ろを歩いていた。
足音の間隔が、いつもより少しだけ早い。私がいつもより早く歩いているからだ。必死に追いつこうとしている。でも、私の隣には来ない。
ふと振り返ると、雨が目をそらした。
その顔に、焦りのようなものが浮かんでいた。
怒ったことを、後悔しているんだと思った。でもそれ以上に、私に嫌われたくない――捨てられたくない、そんな思いがにじんでいた。まるで、何かを取り繕うように、雨は小さく笑った。
その笑顔が、痛かった。
私は、少しだけ歩く速さを遅くして、何も言わずに歩き続けた。
それが、雨への答えになる気がしたから。
「寒くない?」
そう聞くと、雨は「うん」とだけ答えた。
それ以上、何も言わなかった。
私も、何を言えばいいのか、わからなかった。
「怒ったの、初めてだったね」
そう言ってみたけれど、雨は何も返さなかった。
それでも、歩く速度は私と同じだった。
それだけで、少しだけ安心した。
コンビニの前を通り過ぎるとき、雨がふと立ち止まった。
「…ジュース、買ってもいい?」
「いいよ」
それだけのやりとりが、
今日いちばん自然だった気がした。
店の前で待っている間、私は空を見上げた。
雨が、誰かに怒りをぶつけた。
それは、私が育ててきた“静かな雨”とは違う顔だった。でも、それも雨なんだと思った。
私は、雨の全部を知っているわけじゃない。そして、雨の全部を受け止められるほど、私は“親”じゃない。
それでも、雨が一人で立てるようになるまでは、私はそばにいたい。それだけは、きっと間違っていないと思っている。
雨がジュースを持って戻ってきた。
「帰ろう」
私はそう言って、今度は雨と並んで歩き出した。
冬の風が、少しだけ優しくなった気がした。
家の前まで戻ると、隣のおばあちゃんが植木に水をやっていた。
「あら、空ちゃん、雨ちゃん。おかえりなさい。本当に仲良しね~、一緒に帰ってきたの?」
「ただいま。ちょっと、学校に呼ばれてて…」
雨が、少しだけおばあちゃんの後ろに隠れるように立った。
私は簡単に今日もことを話してみた。誰かにアドバイスを言ってほしかったのかもしれない。おばあさんはゆっくりと聞いてくれた。
「まあ!?そんなことがあったの?こんなに目がそっくりなのにね~」
おばあちゃんは、雨の目線に会わせるように屈んで、にこっと笑った。
伏せた目元。けれど、口元がほんの少しだけ緩んでいる。
「…そうですかね」
私はそう言って、鍵を開けた。
ドアの向こうに、いつもの静かな部屋がある。でも、今日の空気は、少しだけ違っていた。
おばあちゃんの言葉が、私の胸の奥に、そっと、灯りのように残った。
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