第5章 守るということ
主人公の名前は「夜久」です。
2人を見守っていただけるとありがたいです
「おはようございます。昨日、引っ越してきた方ですよね?」
朝の空気を感じたくて外に出ると、玄関先で、隣の家の女性が声をかけてくれた。年の頃は60歳くらいか。
柔らかい笑顔と、畑仕事帰りの手袋が印象的だった。
私は、少しだけ身構えた。
この土地で、私たちは“異物”だ。それでも、笑顔で声をかけてくれる人がいる。
「はい。夜久空といいます。こちらでお世話になります」
「まあ、空さん。いい名前ね。お隣は子どもさん?こんにちは」
雨が、私の後ろから顔をのぞかせた。
小さな手が、私の服の裾を握っている。
「……こんにちは」
「まあ、かわいい! お名前は?」
雨は、少しだけ私を見てから、答えた。
「あめ、です」
女性は少し驚いたように目を見開いたけれど、すぐに笑った。
「素敵なお名前ね。空と雨、なんだか詩みたい」
私は、少しだけ肩の力が抜けた。
ここでは、名前の意味よりも、関係性の方が大事なのかもしれない。それでも、心の奥ではまだ緊張していた。
雨のことを、どこまで話せばいいのか。
私たちは、家族ではない。でも、今は一緒に暮らしている。
それだけで、十分だと思いたい。
女性は、にこにこと笑いながら言った。
「この辺はみんな顔見知りだから、すぐに馴染めると思うわ。学校も近いし、子どもさんもすぐにお友達ができるわ」
雨が、私の顔を見上げた。
その瞳には、少しだけ期待の色が混じっていた。
私は、まだ迷っていた。
雨を学校に通わせること。
それは、彼を“社会に戻す”ということ。
本当に、それができるのか。
でも――彼の瞳が、私の迷いを静かに押し返してくる。
「ありがとうございます。少しずつ、慣れていけたらと思います」
そう言いながら、私は雨の手を握った。その手の温度だけは、確かだった。
夕方、夕食のあと。
雨は、机に向かって絵を描いていた。クレヨンの色が、少しずつ紙の上に広がっていく。
その背中を見ながら、私は言葉を探していた。
「雨、ちょっと話してもいい?」
雨は振り返って、うなずいた。
「うん、なに?」
「この町にも、学校があるの。小学校。雨と同じくらいの子が、毎日通ってる。みんなと一緒に遊んだり、勉強したりする場所よ」
雨は、少しだけ目を見開いた。
「ぼく、行かなきゃだめ?」
「だめってことはないよ。でも、行ってみたら、きっと楽しいこともあると思う」
雨は、クレヨンを握ったまま、下を向いた。
「知らない人ばっかりでしょ? こわいかも」
「うん。こわいよね。私も、知らない場所に来たとき、ちょっとこわかった」
雨は、ちらりと私を見た。
「そらは、こわくても行ったの?」
「うん。でも、雨がいたから、がんばれた」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
私は、雨に“いてほしい”と思っている。でも、雨は私を“選んだ”わけじゃない。たまたま私が一番に手を差し伸べただけ。私が、100万円で手に入れた関係。
それを、雨は知らない。
「じゃあ、ぼくも空がいたらがんばれる」
雨の言葉が、まっすぐすぎて、少しだけ苦しかった。
私は、彼の母親じゃない。でも、彼は私を信じている。
「学校には一緒に行けないけど、帰ってくるの、ちゃんと待ってるよ。ご飯も作って、絵も描いて、勉強も一緒にしよう」
雨は、まだ少し渋っていた。
「うーん……じゃあ、行ってみるけど、つまんなかったらやめてもいい?」
私は笑った。
「うん。つまんなかったら、また考えよう。でも、まずは一日だけ、行ってみようか」
雨は、少しだけ考えてから、うなずいた。
「空が待っててくれるなら、ぼく、がんばる」
私は、そっと雨の頭を撫でた。
「ありがとう。雨なら、きっと大丈夫」
でも、心の奥では、まだ罪悪感がくすぶっていた。
私は、彼にとって何者なんだろう。
彼の笑顔を見て、嬉しいと思う自分と、その笑顔の裏にある“知らない事実”を隠している自分。
クレヨンの色が、紙の上で少しだけ鮮やかになった気がした。
その色が、いつか本物になるように――
私は、もう少しだけ、がんばってみようと思った。
翌朝、私は電話をかけた。
「はい、晴海小学校です」
女性の声だった。落ち着いていて、柔らかい。
晴れた海――この町に、ぴったりの名前だと思った。
「あの、昨日引っ越してきた者です。夜久と申します。夜に久しいと書いて、夜久です」
名字を口にするのは、少しだけ緊張した。
それは、私が“誰かの保護者”として名乗る瞬間だった。
「夜久さんですね。ご連絡ありがとうございます」
「はい。一緒に暮らしている子どもを、学校に通わせたいと思っているのですが…」
「かしこまりました。お名前と学年を教えていただけますか?」
「名前は雨です。年齢は10歳で、小学4年生になると思います」
「雨くん。珍しいお名前ですね」
「はい…ちょっと事情がありまして、戸籍などはまだ整理中で…」
「そうですか。ご事情は、ゆっくりで大丈夫ですよ。まずは見学にいらしていただいて、先生方とお話ししましょうか」
その言葉に、胸が少し緩んだ。
事務的な対応ではなく、“人として”話してくれている。
「ありがとうございます。本人も少し不安があるようなので、まずは見学からお願いできると助かります」
「もちろんです。今日の午後でも大丈夫ですよ」
「はい、伺います。ありがとうございます」
電話を切ったあと、私は深く息を吐いた。
雨を“社会に戻す”。
それは、私自身が社会と向き合うことでもある。
私は彼の母親ではない。でも、彼の“居場所”にはなりたい。
晴れた海のように、静かで広い場所で――雨が、少しずつ自分の色を取り戻せるように。
そんな願いを込めて、私は午後の見学に向けて準備を始めた。
午後、晴海小学校に向かった。
潮の香りが風に混じって、校門の前で深呼吸をした。
雨は、私の手を握っていた。
その手が、いつもより少し強く握られている気がした。
「こわくない?」
「ちょっとこわい。知らない人ばっかりだもん」
雨の声は小さくて、震えていた。
私も、同じだった。
この場所で、雨は“社会の目”に晒される。そして私は、“彼を守る責任”を問われる。
玄関で出迎えてくれたのは、校長先生だった。
穏やかな笑顔で、私たちを応接室に案内してくれた。
「遠くからようこそ。この町は静かですが、子どもたちは元気ですよ」
雨は、少し緊張しながらも、校長先生の言葉にうなずいた。
しばらくして、担任の先生が入ってきた。4年生の担任、佐藤先生。若くて、真面目そうな女性だった。
「こんにちは。4年生を担当しています、佐藤です」
微笑んではいたが、その目は、どこか探るような光を含んでいた。
雨は、私の後ろに少し隠れるように立った。
その姿を見て、胸がきゅっとなった。
「雨くんは、前の学校は…?」
「事情があって、通っていませんでした。今は私と一緒に暮らしています」
「保護者の方は…?」
「私です。戸籍上はまだ整理中ですが、生活は私が責任を持って見ています」
佐藤先生は、少しだけ眉を寄せた。
校長先生が、静かに言葉を添えた。
「夜久さんは、会社の支店異動でこちらに来られた方です。ご事情は伺っています。まずは見学から、ですね」
佐藤先生はうなずいたが、その視線は、雨ではなく、私に向けられていた。
“この人は、本当にこの子を守れるのか”
そんな問いが、言葉にはならないまま、空気に漂っていた。
佐藤先生に案内されて、4年生の教室を見学した。
廊下の窓から差し込む光が、床に長く伸びていた。子どもたちの声が、教室の奥から聞こえてくる。
雨は、私の手を握ったまま、足を止めた。
「こわい?」
雨は、うなずいた。
「知らない人ばっかりだもん」
教室の中では、子どもたちがグループで話していた。
佐藤先生が「新しいお友達が見学に来ています」と声をかけると、何人かがこちらをちらりと見た。
雨は、私の後ろに少し隠れた。その姿が、痛々しく見えた。
「大丈夫。今日は見るだけだから」
私はそう言って、雨の背中をそっと押した。
教室の空気は、明るいようで、どこか冷たかった。
佐藤先生の視線も、やはり探るようだった。
“この子は、ちゃんと馴染めるのか”
“この人は、本当に保護者なのか”
言葉にはならない問いが、空気の中に漂っていた。
雨は、教室の隅に置かれた水槽を見ていた。小さな魚が、静かに泳いでいた。
「空、あれ、きれい」
「うん。きれいだね」
その一言だけが、少しだけ空気をやわらげた気がした。
家に戻ると、雨はすぐに昼寝を始めた。慣れない土地で慣れないことをしたせいだろう。疲れてしまったみたいだ。
私は、静かな部屋の中で、ひとり考える。
教室の空気。子どもたちの視線。佐藤先生の探るような目。
私は、彼を“買った”。
それは、誰にも言えない事実。でも、あの教室の中で、私は、彼を“守らなきゃ”と思った。
誰かに見せるためじゃない。
誰かに認められるためでもない。
雨が、安心して笑える場所を作りたい
それだけだった。
彼が水槽の魚を見て「きれい」と言ったとき、私は、少しだけ救われた気がした。
彼は、まだ“感じる力”を持っている。
それなら、きっと大丈夫。
私は、彼の母親ではない。でも、彼の“居場所”にはなれる。
それが、私にできる唯一の償いだと思った。
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