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脆くて儚い  作者: 枢無
6/11

第5章 守るということ

主人公の名前は「夜久やひさ」です。

2人を見守っていただけるとありがたいです

「おはようございます。昨日、引っ越してきた方ですよね?」


朝の空気を感じたくて外に出ると、玄関先で、隣の家の女性が声をかけてくれた。年の頃は60歳くらいか。

柔らかい笑顔と、畑仕事帰りの手袋が印象的だった。

私は、少しだけ身構えた。

この土地で、私たちは“異物”だ。それでも、笑顔で声をかけてくれる人がいる。


「はい。夜久空といいます。こちらでお世話になります」

「まあ、空さん。いい名前ね。お隣は子どもさん?こんにちは」


雨が、私の後ろから顔をのぞかせた。

小さな手が、私の服の裾を握っている。


「……こんにちは」

「まあ、かわいい! お名前は?」


雨は、少しだけ私を見てから、答えた。


「あめ、です」


女性は少し驚いたように目を見開いたけれど、すぐに笑った。


「素敵なお名前ね。空と雨、なんだか詩みたい」


私は、少しだけ肩の力が抜けた。

ここでは、名前の意味よりも、関係性の方が大事なのかもしれない。それでも、心の奥ではまだ緊張していた。

雨のことを、どこまで話せばいいのか。

私たちは、家族ではない。でも、今は一緒に暮らしている。

それだけで、十分だと思いたい。

女性は、にこにこと笑いながら言った。


「この辺はみんな顔見知りだから、すぐに馴染めると思うわ。学校も近いし、子どもさんもすぐにお友達ができるわ」


雨が、私の顔を見上げた。

その瞳には、少しだけ期待の色が混じっていた。

私は、まだ迷っていた。

雨を学校に通わせること。

それは、彼を“社会に戻す”ということ。

本当に、それができるのか。

でも――彼の瞳が、私の迷いを静かに押し返してくる。


「ありがとうございます。少しずつ、慣れていけたらと思います」


そう言いながら、私は雨の手を握った。その手の温度だけは、確かだった。

夕方、夕食のあと。

雨は、机に向かって絵を描いていた。クレヨンの色が、少しずつ紙の上に広がっていく。

その背中を見ながら、私は言葉を探していた。


「雨、ちょっと話してもいい?」


雨は振り返って、うなずいた。


「うん、なに?」

「この町にも、学校があるの。小学校。雨と同じくらいの子が、毎日通ってる。みんなと一緒に遊んだり、勉強したりする場所よ」


雨は、少しだけ目を見開いた。


「ぼく、行かなきゃだめ?」

「だめってことはないよ。でも、行ってみたら、きっと楽しいこともあると思う」


雨は、クレヨンを握ったまま、下を向いた。


「知らない人ばっかりでしょ? こわいかも」

「うん。こわいよね。私も、知らない場所に来たとき、ちょっとこわかった」


雨は、ちらりと私を見た。


「そらは、こわくても行ったの?」

「うん。でも、雨がいたから、がんばれた」


その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少し痛んだ。

私は、雨に“いてほしい”と思っている。でも、雨は私を“選んだ”わけじゃない。たまたま私が一番に手を差し伸べただけ。私が、100万円で手に入れた関係。

それを、雨は知らない。


「じゃあ、ぼくも空がいたらがんばれる」


雨の言葉が、まっすぐすぎて、少しだけ苦しかった。

私は、彼の母親じゃない。でも、彼は私を信じている。


「学校には一緒に行けないけど、帰ってくるの、ちゃんと待ってるよ。ご飯も作って、絵も描いて、勉強も一緒にしよう」


雨は、まだ少し渋っていた。


「うーん……じゃあ、行ってみるけど、つまんなかったらやめてもいい?」


私は笑った。


「うん。つまんなかったら、また考えよう。でも、まずは一日だけ、行ってみようか」


雨は、少しだけ考えてから、うなずいた。


「空が待っててくれるなら、ぼく、がんばる」


私は、そっと雨の頭を撫でた。


「ありがとう。雨なら、きっと大丈夫」


でも、心の奥では、まだ罪悪感がくすぶっていた。

私は、彼にとって何者なんだろう。

彼の笑顔を見て、嬉しいと思う自分と、その笑顔の裏にある“知らない事実”を隠している自分。

クレヨンの色が、紙の上で少しだけ鮮やかになった気がした。

その色が、いつか本物になるように――

私は、もう少しだけ、がんばってみようと思った。


翌朝、私は電話をかけた。


「はい、晴海小学校です」


女性の声だった。落ち着いていて、柔らかい。

晴れた海――この町に、ぴったりの名前だと思った。


「あの、昨日引っ越してきた者です。夜久と申します。夜に久しいと書いて、夜久です」


名字を口にするのは、少しだけ緊張した。

それは、私が“誰かの保護者”として名乗る瞬間だった。


「夜久さんですね。ご連絡ありがとうございます」

「はい。一緒に暮らしている子どもを、学校に通わせたいと思っているのですが…」

「かしこまりました。お名前と学年を教えていただけますか?」

「名前は雨です。年齢は10歳で、小学4年生になると思います」

「雨くん。珍しいお名前ですね」

「はい…ちょっと事情がありまして、戸籍などはまだ整理中で…」

「そうですか。ご事情は、ゆっくりで大丈夫ですよ。まずは見学にいらしていただいて、先生方とお話ししましょうか」


その言葉に、胸が少し緩んだ。

事務的な対応ではなく、“人として”話してくれている。


「ありがとうございます。本人も少し不安があるようなので、まずは見学からお願いできると助かります」

「もちろんです。今日の午後でも大丈夫ですよ」

「はい、伺います。ありがとうございます」


電話を切ったあと、私は深く息を吐いた。

雨を“社会に戻す”。

それは、私自身が社会と向き合うことでもある。

私は彼の母親ではない。でも、彼の“居場所”にはなりたい。

晴れた海のように、静かで広い場所で――雨が、少しずつ自分の色を取り戻せるように。

そんな願いを込めて、私は午後の見学に向けて準備を始めた。

午後、晴海小学校に向かった。

潮の香りが風に混じって、校門の前で深呼吸をした。

雨は、私の手を握っていた。

その手が、いつもより少し強く握られている気がした。


「こわくない?」

「ちょっとこわい。知らない人ばっかりだもん」


雨の声は小さくて、震えていた。

私も、同じだった。

この場所で、雨は“社会の目”に晒される。そして私は、“彼を守る責任”を問われる。

玄関で出迎えてくれたのは、校長先生だった。

穏やかな笑顔で、私たちを応接室に案内してくれた。


「遠くからようこそ。この町は静かですが、子どもたちは元気ですよ」


雨は、少し緊張しながらも、校長先生の言葉にうなずいた。

しばらくして、担任の先生が入ってきた。4年生の担任、佐藤先生。若くて、真面目そうな女性だった。


「こんにちは。4年生を担当しています、佐藤です」


微笑んではいたが、その目は、どこか探るような光を含んでいた。

雨は、私の後ろに少し隠れるように立った。

その姿を見て、胸がきゅっとなった。


「雨くんは、前の学校は…?」

「事情があって、通っていませんでした。今は私と一緒に暮らしています」

「保護者の方は…?」

「私です。戸籍上はまだ整理中ですが、生活は私が責任を持って見ています」


佐藤先生は、少しだけ眉を寄せた。

校長先生が、静かに言葉を添えた。


「夜久さんは、会社の支店異動でこちらに来られた方です。ご事情は伺っています。まずは見学から、ですね」


佐藤先生はうなずいたが、その視線は、雨ではなく、私に向けられていた。

“この人は、本当にこの子を守れるのか”

そんな問いが、言葉にはならないまま、空気に漂っていた。

佐藤先生に案内されて、4年生の教室を見学した。

廊下の窓から差し込む光が、床に長く伸びていた。子どもたちの声が、教室の奥から聞こえてくる。

雨は、私の手を握ったまま、足を止めた。


「こわい?」


雨は、うなずいた。


「知らない人ばっかりだもん」


教室の中では、子どもたちがグループで話していた。

佐藤先生が「新しいお友達が見学に来ています」と声をかけると、何人かがこちらをちらりと見た。

雨は、私の後ろに少し隠れた。その姿が、痛々しく見えた。


「大丈夫。今日は見るだけだから」


私はそう言って、雨の背中をそっと押した。

教室の空気は、明るいようで、どこか冷たかった。

佐藤先生の視線も、やはり探るようだった。

“この子は、ちゃんと馴染めるのか”

“この人は、本当に保護者なのか”

言葉にはならない問いが、空気の中に漂っていた。

雨は、教室の隅に置かれた水槽を見ていた。小さな魚が、静かに泳いでいた。


「空、あれ、きれい」

「うん。きれいだね」


その一言だけが、少しだけ空気をやわらげた気がした。

家に戻ると、雨はすぐに昼寝を始めた。慣れない土地で慣れないことをしたせいだろう。疲れてしまったみたいだ。

私は、静かな部屋の中で、ひとり考える。

教室の空気。子どもたちの視線。佐藤先生の探るような目。

私は、彼を“買った”。

それは、誰にも言えない事実。でも、あの教室の中で、私は、彼を“守らなきゃ”と思った。

誰かに見せるためじゃない。

誰かに認められるためでもない。

雨が、安心して笑える場所を作りたい

それだけだった。

彼が水槽の魚を見て「きれい」と言ったとき、私は、少しだけ救われた気がした。

彼は、まだ“感じる力”を持っている。

それなら、きっと大丈夫。

私は、彼の母親ではない。でも、彼の“居場所”にはなれる。

それが、私にできる唯一の償いだと思った。




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