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脆くて儚い  作者: 枢無
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第4章 私たちの場所

2年前、人生の中で一番高い買い物をした。必死に働いてきたお金を頭金にして、ローンまで組んで買ったマンションだった。いい値段したのを覚えている。

仕事も安定していたし、キャリアも積み上げた。猫を飼う予定もあった。

それが、今は雨がいる。

あの日、100万円を払った瞬間から、私の生活の真ん中には、雨がいる。

この部屋は、もう“私ひとりの場所”ではなくなった。

この部屋も仕事のキャリアも手放すことに、迷いはなかった。上司には少し残念がられたけど、自分のことはどうでもいい。

いまはこの子を守るために、動くだけだ。

不動産屋に連絡して、売却の手続きを始めた。

会社には、支店への異動を願い出た。「家庭の事情で」とだけ伝えたが引き留められた。仕事はできる方だ。だから支店に行ってもそれなりの役職をつけてくれると言っていた。

家庭の事情というのも嘘ではない。

雨は、私の“家庭”になりつつある。

それが、今の私のすべてだった。でも、荷物をまとめながら、何度も手が止まった。

本当にこれでいいのか。

逃げることが、守ることになるのか。

私は、ただの気まぐれな大人だったはずだ。

100万円を払った。

それは、彼を“買った”ということなのか。

そんなこと、認めたくない。でも、事実は消えない。

あの女の言葉が、頭の奥で何度も響く。


「あんな子でも、金になるなら――使い道はあるわ」


雨は、商品じゃない。

私の手の中に、領収書もない。

ただ、現金を渡した。それが、私の“守る”という行為の始まりだった。

こんな形でしか守れなかったことが、悔しい。でも、もう戻れない。

私は、彼の母親ではない。母親になるつもりもない。でも、彼の“居場所”にはなれるかもしれない。

それが、私にできる唯一の償いだと思った。


「空、なにしてるの?」


振り返ると、雨が部屋の入り口に立っていた。

小さな手を壁に添えて、少し不安そうな顔をしている。


「荷物をまとめてるの。ちょっと遠くに行こうと思って。引っ越しだよ」

「遠くって、どこ?」

「私たちのことを誰も知らない場所。雨のお母さんが来ない場所」


――――誰にも邪魔されない場所。


雨は少し考えてから、ぽつりと言った。


「空が行くなら、ぼくも行く」


その言葉に、胸が詰まった。

こんなにも簡単に、私を信じてくれる。

こんなにもまっすぐに、私と一緒にいることを選んでくれる。

私は、彼を“買った”のかもしれない。でも、彼は私を“選んだ”のだ。

その違いが、私を少しだけ救ってくれた。

玄関の扉を閉めるとき、少しだけ振り返った。

2年間住んだ部屋。

何もないようで、いろんなものが詰まっていた。ここで過ごした時間は人生には短い時間だったかもしれない。この部屋は確かに私の城だった。でも、今の私には、雨がいる。

それだけで、十分だった。

雨は、小さなリュックを背負って、私の隣に立っていた。


「空、ほんとに行くの?」

「うん。行こう」

「どこに?」

「誰にも知られてない場所。大丈夫。きっと楽しいよ」


雨はうなずいた。


「そらと一緒なら、どこでもいい」


その言葉に、私は笑った。でも、心の奥では泣いていた。

守るって、こんなに重いんだ。でも、重さを感じるってことは、私がようやく“誰かのために生きている”ってことなのかもしれない。

駅までの道を歩く。

雨は、私の手を握っていた。その手の温度が、私を支えていた。

電車に乗ると、窓の外の景色が流れていく。

雨は、静かに外を見ていた。

私も、同じように外を眺めた。

変わっていく風景を眺めながら、世界が、少しだけ色づき始めた気がした。

電車を降りると、空気が変わった。

都会の湿った風じゃない。澄んでいて、少し冷たい。

駅の周りには、田んぼと畑。遠くには山が見える。

本当に、何もない場所だ。でも、子育てにはもってこいの場所だと思った。

車の音も少ない。

鳥の声が聞こえる。

雨は、駅のホームでくるくると回っていた。


「そら、ここって…」

「うん。今日から、ここが私たちの場所。私たちの家がある場所」


雨は、少し驚いた顔をしてから、笑った。


「なんか、空が広いね」

「そうだね。空も、広いし、静かだし」

「ぼく、ここ好きかも」


その言葉に、胸がじんとした。

近所の人が、駅前の小さな商店から出てきて、「こんにちは」と声をかけてくれた。

都会ではなかったこと。

ここでは、誰かが誰かを見ている。雨を無視する人はいない。

それが、少しだけ安心だった。

会社が用意してくれた家は小さな平屋だった。

古いけれど、手入れはされていて、庭には季節の花が咲いていた。

雨は玄関の前で立ち止まり、私を見上げた。


「ここが、ぼくらの家?」

「うん。今日から、ここが私たちの場所」


雨が、玄関の扉をそっと開けた。

前の家にはなかった畳の匂いがした。静かで、あたたかい空気が流れている。

私は、荷物を置いて、深く息を吐いた。

本当に、ここで暮らしていけるのだろうか。

雨は学校に通えるのか。

私は仕事を続けられるのか。

ご近所の人たちは、私たちを受け入れてくれるだろうか。

何もかもが未知だった。でも、雨の手の温度だけは、確かだった。

ここなら、もう誰にも傷つけさせない。

世界が、少しずつ色づき始めていた。

その色は、まだ淡くて、揺れていたけれど――確かに、そこにあった。

雨の手の温度が教えてくれる。

ここが、私たちの場所。



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