第3章 封筒の重さ
これは人間の倫理に反することだ。
母が知ったらきっとまた私に失望するに違いない。
『だからあんたはだめなのよ』
結婚をしないと決めた日にも母は私にそういった。
『なんのためにあんたを育ててきたと思ってるの?あんたがだめならせめて自分の子どもくらい妹のように育てなさいよ!!』
私は自分の人生を親に決められるのがいやで、私は成人してからすぐに家を出た。
家を出てから実家に帰ったのは冠婚葬祭以外にない。妹は嫌いではないし、仲はいい方だ。だから親はどうしようもなくても、妹とは連絡を取っている。
雨の母親を見ると自分の母親を思い出す。本当ならもう2度と会いたくない。そう思っていたけど、こればかりは自分も覚悟を決めなければ。
意を決してまたあのマンションへ向かった。インターホンを押す。
ほどなくして扉が開き、あの女が出てくる。
「あら?早かったわね。お金、用意できたの?あんな子のために簡単に100万だすなんて、あなたには安かったかしら。ふふっ、あの子の価値なんて、お金くらいね」
女の声は、氷のように冷たかった。
「あーあ。こんなに簡単に払ってくれるんなら、もっと上乗せすればよかったわ。まあいいわ。もう、あれはあなたにあげる」
私は、黙って封筒を差し出した。
指先が震えていた。それは怒りか、恐怖か、それとも――自分の弱さへの嫌悪か。
「もう二度と、あの子の前に現れないで。あなたはもう、母親じゃない」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が軋んだ。
女は、きれいに手入れをした爪を見ながらため息をついた。
「母親かどうかなんて、どうでもいいの。あんな子でも、金になるなら――使い道はあるわ」
女は再び笑った。
雨も、自分も、ただの“取引”の対象だった。
その現実が、私の中の何かを静かに壊した。
ずっと、自分も母の言葉に縛られていた。反論することも、逃げることもできず、ただ従うしかなかった。
でも――雨の瞳だけは、母の声よりも強かった。
その瞳を守ることが、自分のすべてになった。
怖くても、逃げても、迷ってもいい。でも、守ることだけは、絶対に諦めない。
雨を連れて、誰にも見つからない場所へ行こう。
彼女の目も、言葉も、届かない場所へ。
もう、誰にも触れさせない。
それが、空の“はじまり”だった。
彼を家に連れ帰ってから、しばらく経った。あの日、私は彼を“返さない”と決めた。
あの日から、彼は私のそばにいる。
仕事の日は、終わるのを待っていてくれる。誰かに迎えられる日が来るなんて思っていなかった。
休日は、朝から一緒に過ごす。
まるで、私の生活にそっと入り込んできたように。彼が“来る”のではなく、私が“迎える”ようになった。
そんな日々が、静かに続いている。
少しずつ、彼についてわかってきたことがある。
名前は不明。おまえと呼ばれていたし、母親にはあの子と呼ばれていた。年は10歳。学校には行っていないようだ。
家には母親と継父。実の父親の存在は知らないらしく、継父を父親と思っているようだった。そのほかの親戚も祖父母の話も聞いたことがない。
言葉を喋ることはできる。でも語彙は少ない。
それでも、年相応の勉強はできるみたいだった。
母親が買い与えたものは、最低限の食物と勉強道具だけ。
昼間から夜にかけては、母親に言われて外で過ごすようになっている。
なかなかのネグレクトだと思う。
小さくて細かった身体は、最近少しふっくらしてきた。でも、同じ年齢の子どもよりはまだまだ幼く見える。
あの女にとって、私のような存在はきっと厄介者だ。
それに、この子のことを思えば、児童相談所に言うのが一番だと思う。そうすれば、専門の人たちが動いてくれる。この子の生活も、きっと改善される。もっとよりよい環境で暮らすことができる。それこそあたたかい家庭が迎え入れてくれるかもしれない。
それなのに、私は言えない。
ただの気まぐれで面倒をみている大人がいる。それは彼にとっては不幸なのかもしれない。
気まぐれな大人―――それが、私だ。
彼にとって何が一番いいことなのか、わからない。
疑問は残る。でも――
児童相談所に言ったら、私が彼と会えなくなってしまう。
それが怖かった。この感情はなんのかわからない。でも、私の中で何かが変わっていた。
100万円で買ったなんて知られたら、私も罪に問われるかもしれない。
それも怖い。
結局、自分の都合で黙っている。それが、私という人間なのだと思う。
ご飯のあと、彼が寝るまでの時間に、勉強をみるようになった。私が仕事から帰ってきて、夕食を一緒に食べて、そのあと、机に向かうのがいつもの流れになっている。
最初は知能の遅れを心配したけれど、杞憂だった。
賢い子だ。
教えれば、スポンジのようにぐんぐん知識を吸収していく。読み書きも計算も、少しずつ形になってきた。まだまだ常識を教える必要はあるけれど、それでも、彼の中には確かな“理解する力”がある。
そんな姿を見ていると、ふと考えてしまう。
学校――――。
当たり前だけど、大人と過ごすだけでは得られないものがある。
それは、同じ年齢の子どもたちと過ごす時間の中で育まれるもの。私にも友人がいるように、彼にも友人がいたほうがきっといい。
でも、私は保護者ではない。
学校に通わせる権利は、私にはない。
母親…ね。
「雨、学校行きたくない?」
そう問うと、彼は困ったように笑った。
「わかんない。でもね、そらが行きたいっていうなら行きたい!」
その言葉に、胸が少し痛んだ。
私はもう社会人だから、学校には行かないし、仮に学校に行ったとしても一緒に行くわけではない。
この子を、どうにかして学校に行かせてあげたい。
私とこの子は他人。他人が口出すことではない。それはわかっているけど、普通の子どもが経験することはできるだけ経験させてあげたい。同じ年齢の子どもと過ごすことで、社会性も学ぶことができるはずだ。
そう思った瞬間、大きくため息をついてしまった。
隣の小さな肩が、びくりと震えた。
――――――しまった。
大人の言動を気にする子どもの隣で、ため息を吐くなんて。
隣を見れば、彼は下を向いて、気づかないふりをしている。
その姿が、胸に刺さった。
こんな子どもに、気を遣わせるなんて。
懐いてくれているのはわかる。
数日間、私は彼を拒むことなく接してきていた。だから彼が心を開きかけているのも、私にはわかる。
あの雨の日から、拒むこともできた。でも私は拒まなかった。いや、拒めなかった。
最初に手を差し伸べたのが、私だから。
あの日から、毎日、仕事の日は仕事が終わって、休日は朝から、二人で過ごしている。
始めは驚いた。
ただの気まぐれで招き入れた男の子がマンションの前に、座っていたから。
管理人がいるから、中には入れなかったみたいで、だから、マンションの前にいたのだろう。空が暗くなるのに待っていた。いつから待っていたのか。その姿を見たとき、胸の奥がきゅっとなった。
手を差し伸べなければ。
時々、そんな考えが浮かぶ。
私は、そんなに優しい人ではなかったはずだ。惨めな子どもを傍に置く理由なんて、ない。警察や児童相談所に通報すれば、それで済む話だった。他の放置子のように、厄介者だったらよかったのに。
この子は、ただそこにいるだけの子どもだった。
「雨…?おばちゃんのこと、どう思う?」
「おばちゃんってだれ?」
「私のこと」
「そらはそら! ぼく、そら好き」
「そっか」
頭を撫でてやると、嬉しそうに笑う。
これが、彼が欲しかった愛情かどうかはわからない。母親と同じようにただ見てほしい、愛してほしいと思っているから笑っているだけかもしれない。
けれど、この笑顔は――守るべきものではないのだろうか…。
あー人間じゃなくて、猫を飼おうとしていたのに。
それが、いつの間にかこの子になっていた。
100万円で繋いだ関係がいつまで続くかわからない。
2人の時間が流れる。
私には、案外心地よい時間だった
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