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脆くて儚い  作者: 枢無
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第2章 雨の日の出会い

その日は、静かに雨が降っていた。

いつもなら聞こえるはずの、子どもたちのはしゃぐ声は聞こえない。きっと、あたたかい家で家族と一緒に過ごしているのだろう。

「子どもは宝」――よく言われている言葉だけど、私には少し遠い。

仕事帰りの道すがら、ふと、思い出す。

あの子は……どうしているだろう。

見つけたのは偶然だった。いつも同じ場所、同じ服、同じ時間にあの子はいる。でも、今日は雨だ。雨の日はいないと勝手に思い込んでいた。

なぜだろう。今日はどうしても気になった。

きっといないはずだ。そう思ったのに、公園の前で顔を上げる。

……いた。

いつもの場所、いつもの服、いつもの時間。

びしょ濡れになった子どもが、そこにいた。

雨の中、ひとりでいる子どもを見過ごすことはできなかった。


「ねぇ……ひとりなの?」


声をかけると、その子はびくりと肩を震わせ、私を見た。

目が合った瞬間、怯えたように顔を伏せる。

その仕草に、なぜか胸がざわついた。


「あ……え……」


顔を伏せたまま、声にならない声を絞り出す。

その姿が昔の自分と重なった。

挨拶するように言われても、俯いたままだった。消極的で周りの顔色ばかりを伺っていた。

「おとなしくていい子ね」と言われるたびに、何かが胸の奥で冷えていった。

母は、私がおとなしいことを“扱いやすさ”と勘違いしていた。

でも、本当は――ただ、怖かっただけだ。

怒られるのが怖くて、嫌われないように必死だった。

だから、黙っていた。

だから、この子の怯えた顔が、あの頃の自分と重なった。顔を伏せたまま、声にならない声を絞り出す姿に昔の自分を見た気がした。


「風邪ひくよ?」

「だい……じょ……ぶ……」


か細い声が、雨音にかき消されそうになる。

その弱々しさに、心配が募る。


「とりあえず、うちにおいで」


言動が完全に不審者だ。誘拐犯と言われても仕方ない。

そう思いながらも、私はその子を家に連れて帰った。

知らない大人についてくるのは怖かっただろう。

それでも、子どもを保護するのは大人の役目だと、自分に言い聞かせた。

マンションに連れて帰ったのは、たぶん気まぐれで、同情だった。もしかしたら昔の自分と重なったから放っておけなかったのかもしれない。

これが、この子との初めての交流だった。


「そこに立ってても服乾かないでしょ。それに風邪ひくから、お風呂に入りな」

「あ……でも……」

「でももだってもないの。大人のいうことはききなさい。ひとりじゃ入れないなら、入れたげるよ」


風呂場まで連れていき、服に手をかける。


「!? だ! 大丈夫!!」

「そう? じゃあ、いうこと聞いて」

「は……はい」


大きい声も出るのね。

まあいい。自分のために沸かしておいたお風呂が、役に立った。

恥ずかしそうにしていたけど……あの子、結局どっちなの?男の子?女の子?

どちらにせよ、すごく細かった。

ちゃんと食べてるの?食べさせてもらっていないのかもしれない。それほどあの子は細く、簡単に折れてしまいそうだった。

いつも同じ服。雨の日も外。―――やっぱり虐待……?

そんな子を安易に連れてきてよかったのかと、今さら後悔しながら、ご飯の準備をする。

ものの数分で、お風呂から出てきた。


「あり……がとう……」

「よし! じゃあ、ご飯食べよ」


簡単なものしか作れないけど、並べた瞬間、子どもは目を輝かせた。

こんなのでも、喜んでくれるのか。なんだか少し心がくすぐったい。誰かのために食事を用意するのはいつぶりだろう。私の簡単な料理に喜んでくれるなんて、この子はいつも何を食べているんだろう。

食事を始めるとすぐに目についたのが箸とスプーンの持ち方だ。持ち方が悪い。

食べ方も、本当に小さい子だ。


「誰も取らないから、ゆっくり食べな」


掻き込むように、急いで口に入れている。子どもがいたら、こんな感じなのかな?

喉に詰まらないかハラハラしたり、口に入れたご飯を端から溢したり。

見たことない生き物みたいで、少し新鮮だった。

食べ終える頃には、口の周りはケチャップだらけ。

なんだか微笑ましくて、つい手を伸ばして拭いてやる。


「ねぇ、あんた名前はなんていうの?」

「な……まえ……。おまえ?」

「……おまえ?」

「うん。おまえ!」


その言葉に、思わず言葉を詰まらせた。

これは名前じゃない。呼び方だ。でも、この子はそれを“自分の名前”だと思っている。

どんなふうに呼ばれてきたんだろう。

どんなふうに育てられてきたんだろう。

名前を持たない生活。

それは、存在を認められていないことと、同じじゃないか。


「年は? いくつ?」

「10歳」


10歳!? こんなに小さくて細くて子どもみたいな子が?

嘘でしょ?10歳はこんなに幼くないはずだ。少なくとも私の知っている子どもにこんなに幼くて、小さい10歳はいない。


「学校は?」

「学校? 学校……ママが……行かなくていいって」


言葉足らずの男の子。

もしかして知能も遅れているかもしれない。でも、知能が遅れているにしては言葉が出てるし、人の様子を窺う素振りもある。


「名前がないと呼びづらいから……そうね、雨。雨って呼ぶわ」

「あ……め……?」

「私は空。空っていうの」

「そら……ぼく、雨!」

「そっか。『ぼく』ってことは、男の子なのね」


だから恥ずかしそうだったのか。かわいいかもしれない。

なぜか、放っておけなかった。だから、連れて帰ってきた。

雨が冷たくて、心が震えていたのかもしれない。人恋しかったのかもしれない。

濡れたこの子が可哀想だっただけなのかもしれない。

ただただ、捨て犬や捨て猫を拾う感覚だったのかもしれない。


「ねぇ、よかったらまたここにおいでよ」

「えっ?」

「私もひとりだから」


そう言った瞬間、自分でも驚いた。

誰かに“ひとり”を打ち明けるのは、ずいぶん久しぶりだった。この部屋の静けさに慣れすぎて、誰かの気配があることが、少し怖かった。でも、雨が頷いたとき――その静けさが初めて心地よいと感じた。

誰かといることが、こんなにも静かで、怖くないなんて。

まだ信じきれてはいないけれど――

それでも、今夜は少しだけ、ひとりじゃない気がした。


その日は、あの子と出会った頃のように雨が降っていた。

残業が長引いて、帰路についたのは夜の10時を過ぎていた。

傘を差して歩く道は、街灯に照らされて濡れたアスファルトが鈍く光っている。雨粒が頬に跳ねる。その冷たさがじわりと肌に染みこむ。

ずいぶん遅い時間になってしまった。

あの子はあれから毎日私の家に来るけれど、今日は来ていないだろう。来ていてもきっともう帰っているはずだ。

そう思いながらも、心のどこかで“もしかしたら”を探していた。

毎日のように顔を合わせていたから、今日だけ会えないと思うと、妙に落ち着かない。

いないはずだと思いながらも、足が自然と速くなる。

マンションの前に人影はない。

さすがにいないか。子どもがこんな時間まで外にいたらそもそも警察に保護されるはずだ。

 ほっと胸を撫でおろす。でも、同時に少しだけ、寂しさが胸をかすめた。


「空?」


背後から名前を呼ばれる。

聞き慣れた声。か細く消えてしまいそうな小さい声。

振り返ると、あの日と同じように、ずぶ濡れの雨が立っていた。


「雨!?こんなに濡れて…待ってたの?」


雨は、黙って頷いた。

私は、何も言わずに雨を連れて家に入った。

やはり合鍵を渡しておくべきか――そう思ったが、そこまでする理由が見つからない。

ペットのように可愛がるだけなら、そんなことまでする必要はない。

結局、私もこの子の親と同じかもしれない。

同情。ただ、昔の自分に似ていたから放っておけなかった。可哀想な子―――最初そう思ったから、ここに連れてきた。

でも…いつからだろう。同情以外の感情が湧いてきたのは。

とりあえず、お風呂に入るように促す。

雨は慣れたように着替えを持って浴室へ向かう。

その後ろ姿に、ふと目が留まった。

初めて見る雨の背中に驚いた。

身体中に痣があった。殴られてできたものだろう。

古い痣、新しい痣。色も形も違うそれらが、まるで地図のように雨の身体に刻まれていた。

ああ、そうか。

この子は、ここに逃げてきたのだ。

その瞬間、初めて雨の“意思”を汲んだ気がした。

この子は、逃げてきた。

親から。

誰にも守られない場所から。

赤の他人の私のもとに。

誰もが見て見ぬふりをするから、助けを求めてきたのだ。

私はこの子を地獄へ帰していたのか。何も知らずに、何も見ようとせずに。自然と抱きしめていた。

どうして私が泣いているんだろう?

感情移入しただけ?

哀れみ?――――違う。痛みが伝わったからだ。

無関心の方がましだと思えるほどの傷を抱えている。

まだ10歳の子どもなのに。

だから、こんなにもおとなしくて、こんなにも聞き分けのいい子どもなのだ。


「雨…もう帰らなくていいよ。ごめんね」


その言葉が、私の中で静かに決意に変わった。

誰かといることが、こんなにも静かで、怖くないなんて。

まだ信じきれてはいないけれど――

それでも、今夜は少しだけ、ひとりじゃない気がした


その日の夜、雨が眠ったのを確認してから、私はそっと部屋を出た。

彼が話してくれた住所を頼りに向かった先は、思ったよりも立派なマンションだった。

エントランスは清潔で、エレベーターの中には香水の残り香が漂っていた。

緊張する。それでも、扉の前に立ち、インターホンを鳴らす。

こんなことするべきではないとわかっている。それでも、この場所に来たのは自分だ。オートロックの物件でなかったことに安堵する。

 どんな人間なのだろう。

雨の母親はどういう人間なのだろうかと考える。子どもを見ない人。

自分の母親が思い浮かぶ。違う。今から会うのは雨の母親で自分の母親ではない。

 しばらくして、扉が開いた。

 きれいな格好をした女だ。

着飾っている。髪の毛も洋服も爪の先まできれいで、化粧までしている。

これが雨の母親だった。


「誰?」

「あの…子どものことで、お話がしたくて」


 彼女は目を細めて、笑った。


「ああ、あんたがあいつの世話してくれてるっていう奇特な人間ね。なに?今更なんかいうことあるの?私はね、あんなの、いらない。はじめからいらなかったのよ。産めって言われたから産んだだけ。はじめは金もくれてたし、育ててたけど……気持ち悪いのよ、あの子!!」


これが母親からの言葉だろうか。ヒステリックになりながら女は続ける。


「私の顔色ばかり伺って、何考えてるかわかんない。あんな子、いらない!私は女の子がほしかったの!かわいい服着せて、写真撮って、ママって甘えてくるような子が!あんな気持ち悪い子じゃなくて、もっとまともな子がよかったのよ!!男のだからいやってのもあるけど、あんなのがそばにいたら誰も寄りつかないじゃない。私、まだまだこれからなの。あれの父親ももう何もしてくれないし、お金もくれなくなった。新しい女ができて子どもが生まれたらこれよ。笑っちゃうでしょ?」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわめいた。

 似ている。

 この人は、私の母に似ている。


『なんであんたはそうなの!!』


 何度も言われた言葉が、耳の奥で響いた。

 妹と私。

 同じ家に育ちながら、扱いはまるで違った。

 妹には笑顔、私にはため息。

 「失敗作」――そう言われたことはない。 でも、言われたような気がしていた。母の目が、そう語っていた。


 雨も、そうなのかもしれない。

 母親の顔色を伺って、気持ち悪いと言われて。

 何度も、自分の中の何かが消えていったのかもしれない。

 それでも、雨は笑おうとする。

 それでも、雨は生きようとしている。


「でもね?ただで手放す気はないの。欲しいなら、100万円払って。あげるから」


 その瞬間、何かが音を立てて崩れた。

 雨は、物じゃない。

 それでも、この人にとっては、ただの“失敗作”でしかないのだ。


「……あなたは、母親なんですね」


声が震えた。

自分が母親になったら自分の子を平等に愛せるようになりたいと思っていた。でも、私は母親になることを自ら辞めた。そんな人間に子どもを育てることができるのだろうか。

そんな思いがよぎる。でも、私の中では答えがでていた。


「私は母親じゃありません。母親になるつもりもない。でも、あの子を返しません。もう、帰らせません」

「そう。じゃあ早いとこお金払ってね。あんまり遅かったら誘拐されたって言っちゃうから。あの子の味方いなくなっちゃうね。うふふ」


 彼女は笑い、ドアを閉めた。

 帰り道、私は自分の足音だけを聞いていた。


育てるって、なんだろう?

母親って、なんだろう?

答えは出ない。

でも、雨の寝顔が、すべてを語っていた。あの子は、誰かに“居場所”を与えられるべき存在だ。

 私は、そう思った。

 それが、私の選んだ答えだった。



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