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脆くて儚い  作者: 枢無
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第18章 その顔を忘れないために

病院を出て、一足先に自宅へ戻った。

久しぶりに帰った自宅はどこか懐かしく、空の匂いがした。

車のエンジンの音が耳に届く。霊柩車が家の前に止まったとき、胸の奥が、ぎゅっと音を立てた気がした。

空が帰ってきた。でも、それは“帰ってきた”って言っていいのか、わからなかった。

白い布に包まれた空は、静かに、丁寧に、部屋の中へ運ばれていった。

空の妹の美海さんが、空の好きだった花を飾って、空がよく座ってた場所に布団を敷いて――何も言わずに、ただ手を動かしていた。

オレは、空のそばに座った。そして、顔を覗き込んだ。

……空は、きれいだった。

肌は穏やかで、髪も整えられていて、唇には、微かな笑みの形が残っていた。まるで、今にも「雨」って呼んで、笑いかけてくれそうだった。

その顔を見て、思わず息を止めた。

――まだ、生きてるんじゃないか。

空が、ただ眠ってるだけで、目を開けて「おかえり」って言ってくれるんじゃないか。そんな錯覚に、しばらく身を委ねていた。でも、美海さんの声が、その幻想を静かに壊した。


「雨くん……葬儀のこと、話してもいい?」


オレは、空の顔から目を離せなかった。でも、美海さんは続けた。


「空はね、生前に全部手配してたの。遺産も、全部雨くんに渡るようにって。葬儀も、静かに、身近な人だけでって。でも、雨くんには最後まで見送ってほしいって、そう言ってたよ」


……空は、自分がいなくなる準備を、全部済ませてたんだ。オレの知らないところで、静かに、丁寧に、“死”を受け入れていた。それが、空らしいって思った。でも、オレはまだ、受け入れられなかった。

空の顔は、あまりにも空らしくて、あまりにも穏やかで――


「……空」


声が漏れた。でも、その声に応える声は、もう返ってこなかった。

空は、もう「雨」って呼んでくれない。

もう、笑いかけてくれない。その現実が、静かに、胸に沈んでいった。

ふらりと外に出た。夕方の風が、少しだけ冷たかった。そのとき、隣の家の玄関が開いて、おばあちゃんが顔を出した。


「雨ちゃん……帰ってきたのね」


オレは、小さく頷いた。

おばあちゃんは、オレが小さい頃から知ってる人だ。ふと、思い出した。小学校の頃、陽翔に言われたことがある。


「雨って、お母さんと全然似てないよな」


その言葉が、胸に刺さった。オレは、初めて怒って、陽翔に手を上げた。空まで学校に呼ばれて、空は怒らなかったけど、すごく申し訳なかった。空とオレの関係が否定された気がした。でもその帰り道、空一緒に歩いていたとき、おばあちゃんが声をかけてくれた。


「空ちゃんと雨ちゃん、こんなに目がそっくりなのにね~」


その言葉が、ずっと心に残ってた。誰も言ってくれなかった。“親子”って呼ばれることも少なかった。でも、おばあちゃんだけは、空とオレの間にあるものを、見抜いてくれていた。

今、空を見送るこの瞬間に、その言葉が、静かに胸に戻ってきた。

おばあちゃんは、俺の顔を見て、そっと言った。


「空ちゃん、きれいだったね。まるで、まだ生きてるみたいだった。……でも、ちゃんと見送ってあげなさい。あの子は、雨ちゃんに見送ってもらいたかったはず。ねっ?」


オレは、何も言えなかった。おばあちゃんは、少しだけ笑って、続けた。


「雨ちゃんは空ちゃんに似てるね。優しいところも、頑固なところも、人を大事にするところも。……親子っていうには、ちょっと不思議な関係だったけど、それでも、あの子は雨ちゃんを大切に思ってた。雨ちゃんもそうだったんでしょ?」


その言葉が、胸に沁みた。

空が、オレを大切に思ってくれていた。

オレも、空を大切に思っていた。

それは、親子という言葉では足りないくらい、いびつで、でも確かなつながりだった。


「……ありがとう」


オレは、それだけ言って、頭を下げた。おばあちゃんは、静かに頷いて、玄関の中へ戻っていった。

夕暮れの空が、少しだけ赤く染まっていた。

オレは、空のいる部屋へ戻った。

最後まで、最期の瞬間まで――見送るために。



第19章 その名前で生きていく

空を見送る日がやってきた。その日は、空の笑顔みたいにきれいな青空が広がっていた。

澄んだ青空をみると、まだ現実だと信じたくない自分がいた。けれど、目を反らしてはいけない。空を――見送るんだ。

空の棺の前に立つ佐伯さんの声が、静かな部屋に響いた。


「どうしてよ……空さん!なんでこんなに急ぐの。雨くんの成長、見守るって言ったじゃない。どっちが先におばあちゃんになるかって、あんなに笑ってたじゃない……!」


その声には、怒りが混じっていた。

母親としての怒り。まま友としての悔しさ。

空さんと過ごした日々の重さが、その一言一言に滲んでいた。


「空さん……あんた、雨くんを置いていくなんて、ひどいよ……」


オレは、ただ黙って聞いていた。佐伯さんの言葉は、オレの胸にも突き刺さった。

陽翔は隣に立っていた。何も言わず、でも、そこにいてくれた。


「陽翔……」

「雨」


呼び捨てで交わす声。

それだけで、互いの気持ちが伝わる。陽翔は、空の棺に手を添えた。


「空さん、俺、雨のこと見てるから。ちゃんと空で見ててよ」


その言葉に、胸が詰まった。少し嬉しかった。

佐伯さんが、空さんに手を合わせながら言った。


「空さん、あんたの分まで、私が雨くんを叱るからね。泣いてばっかりいたら、あんたに怒られるもんね」


オレは、その言葉に涙がこぼれた。

空がいなくなることは、まだ現実じゃないみたいだ。でも、佐伯さんの怒りも、陽翔の静かな決意も、空が生きていた証だった。

やがて、みんなが席を立ち、佐伯さんも陽翔も、オレの背中に言葉を残して去っていった。


「雨くん、あとは任せたよ」

「またな、雨」


部屋に静寂が訪れた。

空の棺の前に、オレだけが残った。

空気が、少し冷たく感じた。

オレは、空の顔を見つめた。


「空……」


言葉にならない想いが、胸の奥で渦巻いていた。

空の記録帳を、棺の中に入れるか迷った。でも、入れなかった。それは、空が生きていた証だから。

オレが生きていくための、空の残した灯だから。

そっと棺に手を添えた。

――冷たい。でも、確かに空だった。


「空、ありがとう。オレに名前をくれて、オレを“雨”にしてくれて、オレを見てくれて、オレを残してくれて」


空がつけてくれた名前。

空が呼んでくれた名前。

空が残してくれた名前。

オレは、――その名前で生きていく。

棺の蓋が、静かに閉じられた。その音が、胸に響いた。

空は、もう見えなくなった。でも、空は、オレの中にいる。

最後まで、見送った。

それでも、終わりじゃない。

空は、オレの中で生きている。




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