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脆くて儚い  作者: 枢無
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第17章 残されたものを抱いて

ここからは雨の独白に変わります。

もう少し続きますので、お付き合いいただけるとありがたいです

白い壁、白い天井、無機質な機械音。そのすべてが現実じゃないと思えた。夢だったらどんなによかったか。

空の胸に顔を埋めたまま、オレは動けなかった。

息が荒くて、喉が痛くて、でも、泣くのを止められなかった。

空の身体は、もう動かない。さっきまで、唇がかすかに動いていたのに。

「……ごめんね」って、言った。

聞こえた。ちゃんと、聞こえた。でも、オレは違うって言いたかった。

空は、オレにとって――……何だったんだろう。母親じゃない。

そんな言葉、オレには使えない。でも、空は……オレの居場所だった。

誰にも言えないことを言えた。

誰にも見せられない顔を見せられた。

空がいないと、オレは……どうすればいいんだよ。


「空……」


声が震える。涙が止まらない。そのとき、病室の扉が静かに開いた。

白衣の医師が入ってくる。

空の妹と看護師が、少しだけ身を引いた。

医師は無言で空の傍に立ち、脈を取り、瞳孔を確認し、静かに時計を見た。


「……ご臨終です」


その言葉が、病室の空気を変えた。

オレは、空の胸にすがったまま、その言葉を聞いた。

“死んだ”ってことが、現実になった。

空は、もういない。

オレの中で、何かが崩れた。

空の妹が、そっと近づいてきた。

初めて見る顔。でも、空に似てる。


「……雨くん、だよね」


声は静かだった。でも、確かにオレの名前を呼んだ。

オレは、顔を上げられなかった。

空の胸から離れたくなかった。

そのとき、看護師がそっと背中に手を添えてきた。


「……ごめんなさい。お身体を整えますので……」


オレは、反射的に肩をすくめた。背中の手を振り払うように、少しだけ身をよじった。


「……ちょっと待って……」


声がかすれて、うまく出なかった。でも、離れたくなかった。

看護師は、少しだけ間を置いて、それでも静かに、確かな手つきで、オレの腕を空の胸からそっと引き剥がした。

オレは、力を入れて抵抗した。でも、空の身体はもう冷たくなり始めていて、その現実が、オレの力を奪った。

オレの手が、空の胸から離れていく。

その瞬間、空の温もりが、もう戻らないものになった。

オレは、空の顔を見つめた。

目を閉じて、穏やかな顔だった。

でも、もう二度と、オレの名前を呼んでくれない。


「……空……」


声が、かすれた。病室の外に出されたオレは、廊下のベンチに座っていた。

何も考えられなかった。

何も感じられなかった。

空が死んだ。

それだけが、頭の中に響いていた。

空の妹は、オレの近くで誰かに電話をかけていた。

親族、職場、医療関係、葬儀社――冷静に、淡々と、空の死を伝えていた。

その声が、遠くで鳴っているように聞こえた。

オレは、ただ座っていた。

手は膝の上に置いたまま、動かない。

そのとき、空の妹がそっと近づいてきた。


「雨くん……これ、空から」


手渡されたのは、一通の封筒と、スマホだった。

封筒に書かれていたのは、空の字だった。見慣れた、でも少し震えた字。

オレは、すぐに読みたかった。でも、読めなかった。これを読んだら、本当に空がいなくなったって、実感してしまう気がした。だから、手紙は膝の上に置いたまま、スマホに目をやった。

ロックはかかっていなかった。

空らしい。

ホーム画面には、オレとの旅行の写真があった。指が勝手に動いて、写真ホルダーを開いた。

そこには、ここ半年の写真が、ぎっしり詰まっていた。

オレの写真ばかりだった。

料理をしている横顔。

ゲームをしている真剣な顔。

カフェで笑っている顔。

寝ている後ろ姿。


「……こんな写真まで撮ってたのか」


声が漏れた。オレは知らなかった。

空が、こんなふうにオレを見ていたこと。

何気ない瞬間を、こんなにも大切にしてくれていたこと。

スマホの画面が、急に重く感じた。

オレは、スマホを胸に抱えた。

手紙には、まだ触れられなかった。でも、空がオレを見ていた時間が、確かにここにある。それだけで、少しだけ、呼吸ができた気がした。

空の妹が、もうひとつの封筒を差し出した。


「これも……空が雨くんに渡してって」


分厚いノートだった。

表紙には、空の字で「記録帳」と書かれていた。オレは、そっと開いた。

そこには、日付とともに、空の手書きの文字が並んでいた。

空の記録帳を、静かにめくっていく。

ページの隅に貼られた写真。

オレが笑ってる。

怒ってる。

寝てる。

何気ない日常の断片。

その横に、空の文字が並んでる。


……なんで陽翔が、空に俺のことを話してたんだよ。

陽翔は、オレの親友だ。

空とも自然に仲良くなって、生活圏も重なってて、空にとっても安心できる存在だったんだろう。でも、空がオレのことを知るのに、陽翔が必要だったっていうのが――なんか、悔しい。


「今日の雨は、カレーに唐辛子を入れすぎて泣いてた。本人は怒ってたけど、私はちょっと笑ってしまった。そういうところ、ほんとに可愛い。陽翔がいたら、きっと同じように笑ってたと思う。

……それを想像して、またちょっと悔しくなった」


空、オレのこと、そんなふうに見てたんだな。でも、なんでそこで陽翔が出てくるんだよ。

オレのことを笑ってくれるのは、空だけでよかったのに。


「陽翔くんが『空さんって、雨のこと好きすぎません?』って言ってきた。うん、そうかもしれない。でも、それでいい。私は、雨が好きすぎるくらいで、ちょうどいい。陽翔くんにそう言われて、なんだか照れてしまった」


……空。

オレのこと、好きすぎるくらいでちょうどいいって――そんなふうに思ってくれてたんだな。でも、その気持ちを陽翔に話してたっていうのが、なんか、胸に刺さる。オレには言わなかったのに。


「陽翔くんと話してると、雨の話ばかりになる。私が雨のことを話すと、陽翔くんは嬉しそうに聞いてくれる。でも、時々、陽翔くんが雨のことを語るとき、私よりも雨を知ってるような顔をする。それが、少しだけ、胸に刺さる。……私、雨のこと、誰よりも知っていたいのに」


……それ、オレも同じだよ。

空のこと、誰よりも知っていたかった。でも、空の中には、陽翔との時間もあって、オレの知らない空が、そこにいた。

それが、嬉しくて、悔しくて、切なかった。


「この記録帳が、雨の手元に届く頃、私はもういないかもしれない。でも、雨が笑ってくれた時間が、私の生きた証です。ありがとう。雨が雨でいてくれて、ありがとう」


空。

オレは、空が空でいてくれて、本当にありがとうって思ってるよ。でも、空がいない今、オレは、空の言葉にすがるしかない。

空、ずるいよ。でも、その“ずるさ”が、空の優しさだった。

オレは、空の記録を抱えて、少しだけ、泣いた。




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