第16章 呼ぶ声が届くなら
病室の天井がやけに白く感じた。
目がかすむ。手に力も入らない。呼吸がしにくい。痛い。意識が飛びそうになる。
まだ――あと少しだけと思いながらも悟ってしまう。
――――ああ。
死んでしまうのか。
そうか……私は、あの子を置いて逝くんだ。今際の際に、そう思った。
思い返せば、おかしな人生だった。
独身貴族で一生を終えるつもりだった。
誰かを好きになったことはない。人並みに男女交際をしたことはあるけれど、それも長くは続かなかった。好きだという感情が長くは続かず、気がつけば自分から連絡するのを辞めていた。
友人たちが幸せそうに結婚していくのを何人も見てきた。私も、人並みの幸せを想像した。けれど、誰かと過ごすことの想像はできなかった。
30歳を過ぎた頃には、人並みの幸せを諦めた。
私の中で、自分の人生を決めた瞬間だった。
それから5年。
35歳になる時にマンションを買った。独りで生きていくと決めてから初めて買った、大きな買い物だった。ファミリー層の多いマンションだったせいか、近くには大きな公園があった。そこでは子どもたちの声が、いつも聞こえていた。
私には縁のない“こども”という存在を、近くに感じながらの生活が始まった。
しばらくして――あの子に出会った。
いつも同じ時間に、同じ場所で、同じ服でいる一人の男の子。
親らしい人はいない。
いつも一人。
公園の片隅に、いつまでもいる男の子。
始めは同情だった。憐れだと思った。
その可哀想な子が昔の自分と重なった。だから、声をかけた。
いま思えば、不審者だったかもしれない。でも、その子は私に笑いかけてくれて、素直に話をしてくれて……
いつしか、それが同情ではなく母性に変わった。
あの子が、可愛くて、愛おしくなった。そこで初めて、愛を感じた。異性には感じなかった愛を。
歪な関係が続いた。
あの子は赤の他人なのに、まるで自分の子どものように世話をするようになった。
そして――母親が提示した金額の100万円を私は、何も言わずに払った。
「この子をください」と言ったわけじゃない。「守る」と決めただけだった。
ああ、だからあの子を置いて逝くのは罰だ。
せめて、あの子に大事な人ができてから逝きたかった。
私がすべて悪いのだ。
あの子をお金で手に入れてしまったから。
私に出会わなければ……私が同情なんてしなければ……。
今更遅い。
こんなに早く、私が逝くことになるなんて、想像もしなかった。
あの子は、私がいなくなったらどうするんだろう。
もう少し、一緒に時を過ごしたかった。
ああ、あの子の子どもが見たかったなぁ……なんて、贅沢な夢を見たから。
あの子ももう大人だ。一人でも生活はできるだろう。それでも、あの子が心配なのは……母性のせいだろうか。
生んでもいない子どもの親。私は、あの子の母親になれていたのだろうか。
一人の人生を歪めてしまった大人の最期が、これか――。
あの子をお金で買った日、今までの家族を捨てた。
私も、あの子が生きがいだったのだ。
「ごめん……ご、ごめん……ね」
辛うじて出た声が紡いだ言葉は、それだった。
幸せになってほしい。
あなたは、幸せだった?この歪な関係で、辛くなかった?
この脆くて儚い関係が、私には心地よかった。
点滴の音が、止まった。
病室の窓から、雨が差し込んでいた。
ああ――雨の声だ。
遠くから、誰かが私を呼んでいる。
懐かしい声。
胸の奥に響く声。
「空っ……!」
扉が開く音。荒い足音。
息を切らした、泣きそうな声。
その瞬間、私の目に映ったのは――あの公園の片隅にいた、小さな男の子だった。
いつも同じ時間に、同じ場所で、同じ服でいた子。
親の姿はなく、ひとりぼっちで遊んでいた子。
あの子が、泣きながら私の胸にすがりついている。
「お願い……いかないで……! 置いていかないで……!」
ああ――雨だ。でも、今は小さな男の子に見える。
ほんの一瞬だけ、あの頃の姿に見えた。でもすぐに、現実の雨に戻る。
背も伸びて、声も低くなって、顔つきも変わった。
それでも――肩を上下させて、息を荒くして、泣きじゃくってすがるその姿は、やっぱり子どもみたいだ。
「オレ……オレ、まだ……空がいないと……!」
嗚咽まじりの声。震える手。涙でぐしゃぐしゃになった顔。
ああ――この子を置いていくんだ。
約束、守れなかった。
母親になってあげたかった。でも、私はこの子にとって“母親”ではなかった。
それでも――大切な人には、なれていたのだろうか。
この子の未来を、見届けたかった。でも、もう時間がない。
手は動かない。声も、もう出ない。
それでも、最後に。
この子に伝えたい。
「……ごめんね……」
唇だけが、かすかに動いた。
それが、私の最後の言葉。
雨は首を振っている。
何度も、何度も。
「違う……違うよ……!空は……オレにとって……」
言葉にならない。でも、その震えた声が、すべてを語っていた。
その言葉が、胸に染みる。
涙が、頬を伝う。
ありがとう。
そう言いたかった。でも、もう言葉にはできない。
瞼が重い。口が動かない。
雨の顔が、ぼやけていく。
最後に見えたのは――あの公園の片隅で、私に向かって笑った小さな男の子。
ああ――この子に、出会えてよかった。
病室の窓から、雨が差し込んでいた。
外は、もう晴れていた。
「……あの、妹さん。この方は……?」
看護師が、困惑した声で妹に尋ねる。妹は、少しだけ間を置いて、静かに答えた。
「……家族です。空の……大切な人です」
雨はまだ、空にすがりついていた。
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