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脆くて儚い  作者: 枢無
19/25

第15章  あと、数日

病気が見つかってから、半年が経った。

私は、毎日欠かさず日記を書いた。

髪が抜けた日。ウィッグを買った日。雨と旅行した日。最後の一ヶ月は、雨とできる限りの時間を過ごした。

一緒に料理をした。ゲームをした。映画を観た。私は、母親としての時間を、できるだけ丁寧に刻んだ。

雨も、私も、それぞれの部屋で暮らしている。

だからこそ、私は「母としての時間」を意識していた。雨の部屋に通い、食事を作り、洗濯を手伝い、話を聞いた。


「今のうちに、できることを全部してあげたい」


それが、私の願いだった。

仕事は、1ヶ月前に長期休暇を申請した。引き継ぎ資料は完璧に整え、後輩へのメッセージも残した。


「私がいなくても、現場は回る。でも、私がいたことは、誰かの記憶に残る」


そして、静かな一人の時間が始まった。

雨が大学に行っている昼間。私は、自分の部屋で静かに過ごしていた。

その日も、いつも通りだった。

朝、日記を書いた。洗濯物を干した。

それから少しだけ、横になった。

そして――私は、倒れた。

身体が、動かなかった。呼吸が浅く、意識が遠のいていく。


「雨……」


声にならない声が、喉の奥で消えた。

そのとき、隣のおばあちゃんが、いつものように生存確認に来てくれた。


「空ちゃん、いるかい?」


返事ができない。

ドアが少し開いていた。おばあちゃんの顔が見えた。


「……空ちゃん!」


救急車の音が遠くで鳴っていた。

私の意識は、ゆっくりと沈んでいった。

夢のような感覚の中で、私は雨の声を聞いた気がした。


「空、どこにいるの?」

「ねえ、返事してよ」


私は、答えたかった。でも、声が出なかった。

その声が、遠ざかっていく。

そして――白い天井が、視界に広がった。病室だった。

点滴の音。

機械の呼吸音。

私は、目を開けた。

医師がそばにいる。


「夜久さん、意識が戻りましたか」


私は、かすかにうなずいた。


「もう、身体が限界です。入院が必要です。一人暮らしには、戻せません」


私は、静かに目を閉じた。


「……わかってました」


その言葉の裏には、“もう戻れない場所に来た”という実感があった。

私は、冷静だった。でも、心の奥では、小さな恐怖が、静かに膨らんでいた。


「死ぬことは、怖くない。でも、雨を残して逝ってしまうことが、怖い」


泣きたいと思っている訳ではないのに、涙が出た。それは、誰にも見せない涙だった。

そして、私は、日記のページを開いた。

ペンを握る手は震えていた。


「今日の私は、少し怖かった」

「死ぬことじゃなくて、雨を残してしまうことが」

「でも、私は母親だから、最後まで母親でいたい」

「そのために、まだ生きる」


ペンを置いた私は、


「明日も、日記を書こう」


と、心の中でつぶやいた。


病室の窓から、午後の光が差し込んでいた。

私は、ベッドの上で便箋を広げていた。

入院が決まった時に妹に連絡をとった。妹は静かに入院するに当たって必要なものはなにか、自分は何をしたらよいのかを聞いてきた。それに私も静かに答えることしかできなかった。

妹が荷物を持ってきたときに無理をいって便箋を準備してもらった。

ペンを握る手は、少し震えていた。


「雨へ」


その一行を書いた瞬間、私の胸に、言葉にならない痛みが走った。どうして、もっと早く伝えられなかったんだろう。病気のことも、弱っていく身体のことも。

ずっと「強い母親」でいたかった。

それが、私のわがままだった。

あなたに心配させたくなかった悲しませたくなかった。でも本当は――弱い自分を見せるのが、怖かった。

私は、空でいたかった。

どんなときも、あなたの上に広がる空でいたかった。

ペン先が、便箋に触れる。


「あなたを初めて見た日、あなたは私に似ていました。誰にも頼らず、誰にも甘えず、それでも誰かに気づいてほしいと願っている目」


放っておけなかった。


「私は、あなたを守ると決めました。それだけでした」

「あなたの母親は、金額を提示しました。『100万円』。私は、何も言わずに払いました。それは、取引ではありませんでした。私の覚悟でした」


罪だった。でも、あなたを守りたかった。


「母親になりたかった。でも、なりきれなかった。ごめんね」


私は、ペンを止めた。

涙が、便箋に落ちる。そして、字を滲ませる。


「『ずっとそばにいる』って言ったのに、守れなくてごめん」

「あなたを置いて、私は逝きます。でも、心はずっとあなたのそばにいます」

「あなたに出会えて、私は救われました」

「ありがとう」


私は、手紙を封筒に入れた。

封を閉じる手は、いつもよりも震えていた。

雨がこの手紙を読む日、どんな顔をするだろう。

怒るかもしれない。

泣くかもしれない。

それでも、私は願った。


「どうか、生きてください」


病室の時計が、静かに時を刻んでいた。

私は、そっと目を閉じた。

雨の笑顔を、思い浮かべながら。雨からのLINEでは、他愛ない話ばかり。


「今日の空、ちょっと曇ってたね」

「あのカフェ、また行こうよ」

「陽翔、また変な夢見たらしいよ」


空は、笑顔のスタンプを返す。


「あなたの母親でいたかった」

「あなたともっとゆっくり年を重ねたかった」

「あなたの子どもがみたかった」

「あなたがほかの誰かと歩んでいく姿がみたかった」

「あなたが幸せになる瞬間を共有したかった」


その夜も、空はLINEを開いた。

雨からのメッセージが届いていた。


「空、今日の夕焼け、すごかったよ」


空は、笑顔のスタンプを返した。

そして、そっとスマホを伏せた。


「あと、数日」




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