第13章 届かないように
病気がわかってから数日が経った。
自分の中で病気を受け止めるための時間に数日を要した。治療を開始するため、会社の協力は不可欠になってくる。
自分なりに病気を受け止めてからようやく会社に報告する決心がついた。
昼休み、私は部長のデスクを訪ねた。
「少し、お時間いただけますか」
会議室の隅。
私は、資料を机に置いてから、静かに口を開いた。
「実は――ちょっと前から体調が悪くて、病院を受診したんです。そしたら――膵臓がんでした。ステージ3。治療を――始めます」
部長は、言葉を失ったように目を見開いた。
「……夜久課長、それは……」
「会社には、可能な限り出勤します。ただ、通院や副作用で急な欠勤があるかもしれません」
私の声は、淡々としていた。
「業務の引き継ぎは、今週中に整理します。部下への指示も、必要に応じてリモートで対応します」
部長は、しばらく黙ってから、深く息を吐いた。
「……夜久さん、無理はしないでください。責任は分担できます。あなたが倒れたら、現場がもっと困る」
私は、少しだけ目を伏せて、頭を下げた。
「ありがとうございます。そう言っていただけて、少し安心しました」
夕方、私は佐伯さんに声をかけた。
「少し、話したいことがあるの」
会社から少し離れた公園のベンチ。
ここならほかの社員に聞かれることはない。
私は、風の音に耳を澄ませながら、静かに告げた。
「膵臓がん。ステージ3。治療を始めたところ」
佐伯さんは、目を見開いたまま、言葉を探していた。
「……空さん、それ……雨くんには言った?」
佐伯さんが絞り出した言葉に私の手に力が入った。
私は、静かに首を横に振った。
「――――絶対に言わないで。お願い」
「は?空さん、それ本気?陽翔は雨くんの親友だよ?私から漏れたら、すぐ伝わる」
「それでも!!言わないで。雨には、知られたく…ないの…」
佐伯さんは、苛立ちを隠さずに言った。
「空さん、あんたっていつもそう。全部自分で抱えて、誰にも頼らない。そんなの、もう限界なんじゃないの!?」
私は、目を伏せたまま答えた。
「限界でも――言わない。雨には…雨だけには、言えない」
佐伯さんは、しばらく黙っていた。
「……わかったよ。根負け。言わない。でも、いつか後悔するかもしれない。後悔しても知らないからね」
私は、うなずいた。
「それでも、今はまだ。雨を守ってあげたいの」
夕方、私は隣の家のインターホンを鳴らした。
いつものようにおばあちゃんがゆっくりとした足取りで出迎えてくれる。
「こんにちは。少しだけ、お話してもいいですか?」
おばあちゃんは、笑顔でうなずいた。
「実は…病気になりまして。――膵臓がんです」
おばあちゃんは、静かにうなずいた。
「もし、私が倒れていたら……生存確認だけ、お願いできませんか?」
「もちろんよ。何かあったら、すぐに連絡するわ」
私は、ほっとしたように笑った。
「ありがとうございます。入院することになったら、妹にも連絡します。それで、雨には、伝えないようにしてほしいんです」
「雨ちゃんに?空ちゃんはそれでいいの?」
おばあちゃんは心底心配そうな表情で私をみた。
私はただうなずくだけ。言葉が見つからなかった。
「わかったわ。空ちゃんがそれで、いいなら。約束するわ」
「ありがとう、ございます。ご迷惑をおかけします」
深く頭を下げて、自宅に戻った。
夜、私はスマホを手に取り、意を決して妹にメッセージを送った。
「少し話したいことがある。電話、できる?」
数分後、妹の声が聞こえた。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
私は、静かに病気のことを伝えた。
「膵臓がん。ステージ3。治療を始めたところ」
妹は、沈黙のあと、低い声で言った。
「……お母さんには言ってないの?」
「うん。心配させたくないから」
「それって、お姉ちゃんの勝手な判断じゃない?お母さんだって、知る権利あるよ」
「……でも、今は言えない」
「じゃあ、一緒に住んでた子は?あの子、お姉ちゃんのことすごく気にしてたじゃん」
「……言ってない。あの子には、絶対言えない」
妹が、ため息をついたのが電話越しでもわかった。
「お姉ちゃん、お願いだから、誰かに頼って。私にも、もっと話して」
私は、少しだけ笑った。
「ありがとう」
「……うん。少しずつでも、ちゃんと話して。私は、いつでも聞くから」
身近な人たちに伝えられたことで、少しだけ心の中にあった不安が晴れた気がした。
それでも、雨には言えない。絶対に伝えられない。
だってあの子は自分の道を歩き始めたばかりだ。私が足かせになるわけにはいかない。
私は…最後まであの子を守る存在でありたい。
ただ、そう思う。
外は暗闇に包まれていた。
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