第11章 見ないふり
夏の気配を感じ始めた頃、8年ぶりの一人暮らしにも慣れてきた。8年間、雨と一緒に過ごしたこの場所にはまだ、所々に雨の気配を残している。時々帰ってくる雨も、どこか懐かしそうに家の中を見るようになっていた。
雨が巣立ってから、部屋は静かになった。でも、スマホの通知は、少しだけ賑やかになった。
「今日のご飯!」
そう書かれたメッセージには、焼き魚と味噌汁の写真。
「友達とカラオケ行った!」
「レポート、やばい」
「空、元気?」
そんな言葉が、毎日のように届く。私は、の通知を見るたびに、微笑んでしまう。
雨は、ちゃんと食べている。ちゃんと笑っている。ちゃんと生きている。それだけで、空の胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
本当の母親ではない。でも、この子の“今”を見守ることが、私にとって、何よりの幸せだった。
「今日のご飯、卵焼き焦がした」
「でも、うまかった」
雨からのLINEは、いつも、少しだけ雑で、でも、その雑さが、私の胸をあたためる。
焦げた卵焼きの写真。傾いた器。
私は、それを見て、微笑む。
「焦げるのも成長の証」
そう返すと、「うるさい」って返ってくる。そのやりとりが、なんだか、本当に家族みたいで、私は、少しだけ泣きそうになる。
雨は、私に1日なにがあったのかを報告するのが好きらしい。
「友達と映画行った」
「大学の図書館、静かすぎて逆に落ち着かない」
「空、今日なに食べた?」
私は、それに答えるのが日課になっていた。
「冷やし中華。きゅうり多め」
「図書館は、静かな中に音があるよ」
「映画、泣いた?」
そんなふうに適当に、返事を返す。
でも最近、朝が重い。
目覚ましの音が、遠くに聞こえる。
背中が、じんわりと痛む。
階段を上ると、息が切れる。
食欲も、なんとなく、ない。でも、この年齢だから更年期かもしれないし、疲れが溜まってるだけかもしれない。
1年に1回はちゃんと会社の健康診断も受けている。40代になってから、健康にも気をつけるようになったのに、体調が優れない。私はそれがただの年齢のせいだと決めつけた。
雨には、言っていない。年齢のせいなら言う必要もない。それに、心配させたくない。
雨は、自分の空を見つけたばかりだ。
「空、今度一緒にカフェ行こ」
その“今度”が、どれだけ先まで続くのか、私には、まだ、わからない。でも、今日もLINEが届く。
私は、画面を見て、微笑む。
それが、私にできる、たったひとつの“母親らしさ”だった。
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