第10章 名前を呼んだあと
雨が大学に進学することになった。進路は気にしなくていいと伝えていた。でも、大学に進みたい。それを聞いたとき、私は、心の奥がふわりと揺れた。
合格発表の時にドキドキした。合格したときには2人で喜んだ。
「すごいね!よかったね」
そう言いながら、胸の奥では、何かが静かにほどけていくような感覚があった。
雨が「一人暮らしをしたい」と言ったときも、私は反対しなかった。
それが、雨の選んだ道なら。でも、ずっと子どもだと思っていた子が、自分の足で歩き出す瞬間に、私は、少しだけ立ち尽くしてしまった。
引っ越しの日。
佐伯さんと陽翔くんが手伝いに来てくれた。車で荷物を運んでくれた。
佐伯さんは、キッチンの棚を拭きながら、
「空さん、寂しくなりますね」
と言った。
私は、笑った。
「そうですね」
それだけしか言えなかった。
陽翔くんは、カーテンをつけながら、
「この部屋、雨っぽいなぁ」
と言った。
雨は、照れくさそうに笑ってた。
その笑顔を見て、私は、胸がきゅっと締めつけられた。
雨が初めて笑った日。
初めて泣いた夜。
初めて「そら」と呼んでくれた瞬間。
その全部が、私の中で、ひとつの物語になっていた。そして今、その物語のページが、ゆっくりとめくられている。
雨は、もう守らなくてもいい存在になったのだ。
自分で選び、自分で歩き、自分で生きていく。それは、安心でもあり、少しの寂しさでもあった。でも、何よりも、誇らしかった。
私は、雨の背中を見ながら、「立派になったな」と思った。
そして、その思いが、胸の奥で、じんわりとあたたかく広がった。
「困ったら、いつでも帰っておいで。困ってなくてももちろん帰ってきていいからね」
私はそう言った。
雨は「ありがとう」と言ったけど、その声は、少しだけ震えていた。
私は、何も言わなかった。ただ、雨の部屋の窓から見える空を見上げた。
春の空は、少し霞んでいた。
雨が、自分の空を見つける日が来たのだと思った。そして、その空に、いつか、雨が自由に飛べるように――私は、そっと、背中を押した。
佐伯さんが「お昼、食べていきます?」と声をかけてくれた。私は「じゃあ、少しだけ」と答えた。
その声は、ほんの少しだけ、軽くなっていた。
雨が巣立った。
引っ越しの荷物を運び終え、新しい部屋に雨を送り届けた帰り道。車の中は、静かだった。
8年ぶりの、独りの部屋。でも、本当は、雨と出会う前も、私はずっと独りだった。
あの日――あの夏の雨の日。残業帰りの夜、公園の前で、ずぶ濡れの子どもが、じっと座っていた。
傘もなく、声もなく、ただ、世界から切り離されていた。
目が合った瞬間、私の中で、何かが静かに崩れた。
「関わってはいけない」
そう思ったのに、足が止まった。声をかけて、家に連れて帰って、名前をつけた。
「雨」
あの日の空から降っていたもの。でも、それはただの天気じゃない。雨は、私の人生に降り注いだ、小さな奇跡だった。
名前のない子に、名前をつけることは、存在を認めることだった。そして、その名前を呼ぶたびに、私は、自分の孤独が少しずつ溶けていくのを感じていた。
雨が笑った日。
雨が怒った日。
雨が「空」と呼んでくれた日。
その全部が、私の部屋を、私の人生を、少しずつ、あたたかくしてくれた。
そして今日、雨が巣立った。
部屋は、静かだ。以前のように、ひとりに戻っただけ。でも、その“ひとり”は、もう、以前の“ひとり”とは違っていた。
雨がいた時間が、この部屋の空気に染み込んでいる。
ソファのへこみ。
ケチャップのシミ。
洗面所に残った歯ブラシ。
どれも、雨がここにいた証。私が、雨を守ると決めた。
100万円で引き取ったことは、雨には絶対に言わない。いう必要がないと思っている。だってそれは、ただの値段ではない。私の覚悟だった。
雨が巣立った今、その覚悟は、少しだけ報われた気がする。
雨は、自分の空を見つけた。そして、私は、雨の名前を呼ぶ。
「雨」
その声は、部屋の中で静かに響いた。そして、私の胸の奥で、じんわりと広がっていった。
雨がいない夜。でも、私は、もう、本当の意味で独りではない。
雨が、私の人生にいたという事実が、これからの私を、静かに支えてくれる気がする。
雨のいない部屋で、私は、また紅茶を淹れる。
それは、雨のためではなく、私自身のために。静かな時間が、また始まる。
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