eo.1 僕と横蜂さん
6月の晴れた気持ちのよい日だった。
昼休みが終わり、生徒たちは各々の教室に入っていく。
お腹を満たした彼らはどこか眠そうな顔をしていた。
机の上に教科書とノートを出し、先生が来るのを友達とおしゃべりをしながら待つ。
いつもの日常。
何も変わらない風景。
しかし非日常がそこにあった。
誰もいるはずのない授業前の屋上で綾波ハルトは高い柵を越えようとしていた。
「もう嫌だ。死んでやる。」
ハルトは大きな独り言をしながら足をかけるところのない柵をよじ登ろうとしていた。
しかしなかなかうまくいかない。
足はツルツル滑り、柵の上部にさえ手が届かない。
ハルトは2本のポールを掴み、「檻の中のゴリラみたいだ」と思った。
晴れ渡る夏の空は青く澄み渡っている。
ハルトは屋上から飛び降りることさえスマートにできない自分に嫌気がさした。
今さら教室に戻る気にもなれない。
「何をしてるのですか?」
女の子の声がしてハルトは後ろを振り返った。
そこにはメガネをかけた髪の毛のボサボサの女子生徒が立っていた。
「別に。」
ハルトは視線を戻して関わらないで下さいとでも言うようにぶっきらぼうに答えた。
その女子生徒はハルトの横に来て同じようにポールを2本持った。
「もしかしてこれを登りたかったのですか?」
女子生徒は真剣な眼差しで柵を観察していた。
「別に。」
ハルトはなんだか恥ずかしくなって柵から手を離した。
「垂直に並ぶ真っすぐの棒を登るには…」
女子生徒は一人でブツブツと何かを言い始めた。
そしてハルトを見てまたブツブツ独り言を言っている。
ハルトは女子生徒が奇妙に見えて少し怖くなってきた。
授業中に屋上にいるなんてこの進学校では普通ではない。
ハルトはブツブツ何かを言っている女子生徒から離れようと少しずつ後ずさりをした。
見れば見るほど、彼女が幽霊か何かに見えてきたのだった。
「あなたの身長と体重、それに筋力を考えるとこの柵を登ることは不可能ですね。どうしても登りたいと言うなら何か道具が必要です。手伝いましょうか?」
女子生徒は早口で一気にそう言うとハルトを見てニヤリと笑った。
「え?いや、僕はそんな…」
ハルトはこの女子生徒に殺されるのではないかと恐怖を覚えた。
「遠慮しなくていいですよ。」
女子生徒はそう言うと柵から少し離れて助走をつけて走ってきた。
ジャンプをするとハルトがどうやっても届かなかった柵の上部に両手でつかまり、鉄棒でもするかのように柵の上に飛び乗った。
女子生徒は文字通り、柵の上に立っていた。
「何してるの?危ないよ!!」
ハルトは思わずそう叫んでしまった。
女子生徒は柵の上で器用にしゃがみ込み、ハルトに向かって手を伸ばした。
「さぁ、手を取って。」
そう言って手を伸ばす女子生徒の後ろに太陽があって、ハルトには彼女が光り輝いているように見えた。
不思議にもこの髪の毛ボサボサの女の子が女神か天使に見えたのだ。
思わず手を出してしまったハルトは女子生徒にすごい力で腕を掴まれて柵の上へと引っ張り上げられてしまった。
「柵がないといい眺めに見えるね。」
女子生徒は柵の上に座りまたニヤリと笑った。
ハルトは柵の上に座ろうとして失敗し、柵の向こう側に落ちてしまった。
50cmもない幅のコンクリートの先は何もない。
「もしかして飛び降りようとしてたの?」
女子生徒は首を傾げながらハルトに向かってそう聞いた。
「は?別に。おまえに関係ないだろ。」
ハルトは思わず下を覗いて見てしまった。
4階建ての校舎で地上20mくらいあるだろうかとハルトは思った。
高いところが苦手ではないハルトだったが、目の前に何もない状態になると足がすくんでしまっていた。
「助走はつけられないわね。足だけで踏み切ったとして…そうね、おおよそあの花壇の向こう側までは行けると思うわ。失敗すると花壇に直撃ね。レンガは柔らかいとはいえ、この高さからだとかなりの衝撃になるわね。大丈夫よ。土の上に落ちなければちゃんと死ねるわよ。土の上だと…土の深さにもよるけど死ねない可能性があるわ。それでも意識不明の重体とかになって脊椎も折れて歩けなくなって悲惨でしょうけど。」
女子生徒は淀み無くスラスラと早口でまくし立てた。
ハルトは思わず彼女の言うことを想像してしまった。
4階から飛び降りて死なない可能性があるなんて思いもしなかったのだ。
「別に飛び降りようとなんてしてないよ。ちょっと度胸だめしがしたかっただけだよ。」
ハルトはバツが悪くなって嘘をついた。
苦しい言い訳だとわかっていたけど飛び降りるよりマシだと考えた。
「あなたってそういうことで興奮を覚える変な人なのかな?面白いね。」
女子生徒はクスクス笑った。
そして柵の内側に飛び降りた。
女子生徒はそのまま校舎の中へと続くドアの方に歩いて行ってしまった。
「待ってよ!助けてよ!」
ハルトは一人で戻れないと気がついていた。
女子生徒はハルトの左側を指差した。
見るとそこには謎の突起があって、それに登れば柵の上部に手が届きそうだった。
ハルトはカニ歩きでゆっくりとそこまで移動して謎の突起に足をかけた。
なんとか柵の上部に手が届いたハルトは乗り越えようと必死だった。
「死ぬ気でやればきっと乗り越えられるわよ。」
女子生徒はハルトにそう言うとクスクス笑いながら去って行ってしまった。
「ちくしょー」
死のうとしていたくせに、今は死なないように死ぬ気で柵を乗り越えようとしている。
それに気がついたハルトはなんだかおかしくなってしまった。
それと同時に悔しさを感じたハルトは意地でも乗り越えてやると気合を入れた。
そしてついにハルトは柵の内側に戻ることができた。
勢い余って倒れ込んでしまった。
ハルトはそのまま仰向けになって空を見た。
相変わらず空は青く澄んでいた。
「僕はいったい何がしたかったんだよ。」
ハルトは自分が情けなくなってしまい、涙を流した。
────
進学校である常嶺学園は県内トップクラスの進学率を誇っていた。
その中でハルトは中くらいの目立たないポジションにいた。
家は両親共働きで裕福な方だった。
顔は不細工ではなかったがイケメンでもなく、背も低くはなかったがガリガリで貧弱に見えた。
中学の頃からイジメの対象になることが多く、最近は金銭を要求されるまでになっていた。
進学校だからストレスでもあるのか、特にお金に困っているわけでもない生徒たちがまるでゲームでもするかのようにハルトにお金を要求していた。
ハルトは共働きの両親が忙しくて家を空けることも多く、その分お小遣いも多くもらっていた。
だから最初のうちは渋々お金を渡していたわけだが、そんなもの続くはずもなく、財布は空になってしまった。
そうなるといじめっ子たちはシカトをしてみたり、わざとぶつかってみたり、水やお茶をかけてみたり、ゴミをぶつけたりしてくる。
他のクラスメイトはクスクス笑うか、無関心かのどっちかだった。
最悪なことに担任の先生は見て見ぬフリを決めこみ、「ハルトは人気者だな」なんて言うこともあった。
両親はいつもピリピリしていて夫婦間の仲も良くないようだった。
そんな両親にハルトは相談なんてできないと決めつけていた。
とうとう我慢できなくなったハルトは屋上に来たわけである。
もう何もかもが嫌だと思っていたのに、いざ飛び降りようとしたら怖くなってしまった。
「どうしよっかなー。」
ハルトは屋上で寝っ転がったまま、このまま消えてしまいたいと思った。
ハルトが屋上でウトウトしている間に授業が終わり、放課後になったようだった。
グラウンドから運動部の人たちの声が聞こえてくる。
ハルトは塾があるので部活には入っていない。
もともとスポーツは得意ではないし、文化部にも興味があるものはなかった。
今日も19時から塾がある。
いつもならコンビニに寄っておにぎりでも買うのだが、今のハルトにはそのお金もない。
ハルトは起き上がり、飛び降りるにしても今日ではない、と自分に言い聞かせた。
あの女子のせいで失敗したのだと思うことにした。
無断で塾を休むと親に連絡がいく。
それも面倒くさいのでハルトは塾に行くことにした。
帰りのバスには生徒たちがギュウギュウに詰められ、一般の人たちは嫌な顔をする。
スクールバスもあるのだが、成績優秀者から乗る権利が発生するシステムでハルトは乗れるほど優秀ではなかった。
満員のバスの中でハルトはこのまま窒息して死ねばいいのに、と思った。
────
駅前にある塾に行く前にいつもはコンビニに寄るのだが、今日はそれもできず、時間を持て余したハルトは近くの公園に向かった。
小さな児童公園で特別な遊具もなく、ベンチと藤棚があるだけの不思議な公園だった。
遊具がないわけだから、遊びに来る子供もいない。
ときどきベンチに疲れた顔をしたおじさんが座っているくらいの人気のない公園だった。
案の定ベンチは空いていて、公園内に人がいる気配もなかった。
ハルトはベンチに座り、数日前に買ったグミが残っていたことに気がつき、喜んで食べた。
こんな時でも人間はお腹が空くんだなと思ったハルトは「地球が滅亡すればいいのに」と声を出して言った。
「それはどのようにですか?」
急に女の子の声が聞こえ、ハルトはビクッと驚いた。
藤棚の下に人がいたのだ。
それはハルトが屋上で会ったあの女子生徒だった。
「なんでおまえがいるんだよ。どのようって何がだよ。」
ハルトは少しイライラしながら答えた。
「ですから、どのようにして地球が滅亡すればいいとお思いですか?」
女子生徒はいつの間にかベンチまでやって来てハルトの横に座った。
「えっと、隕石とか?」
「なるほど。人類が滅亡するほどの大きな隕石ですね?はい、あなたが生きてる間にそんな隕石が降ってくる可能性はありません。次!」
女子生徒はまた早口でそう言った。
次と言われてハルトは焦った。
「強力な殺人ウイルスで人類滅亡。」
「なるほど。防ぎようのないウイルスなら可能ですね。」
女子生徒はニヤリと笑った。
「あの、あなたいったい誰ですか?なんか隣に座ってますけど。」
ハルトはベンチのギリギリの端っこまで移動して女子生徒に向かってそう聞いた。
「これは失礼しました。私は常嶺学園2年3組の横蜂ルイカです。あなたは1年2組の綾波ハルトさんですね?この公園にはよく来るんです。いい公園ですよね。」
ハルトはこの女子生徒が先輩であることと、自分の名前を知っていることに驚いた。
「なんで僕の名前を知ってるんですか?」
「飛び降り自殺をしようとする人に興味があったので調べました。」
ルイカはニヤリと笑いハルトを見た。
ハルトは顔を真っ赤にして、「別に!自殺だなんて!」と言い返せずにいた。
「自分じゃ死ねないからって地球が滅亡すればいいだなんて、どうしてそうなるのか私には理解できません。」
ルイカは真顔になってハルトをジロジロと見た。
「別におまえに理解してもらおうなんて思ってないよ。」
真っ赤な顔のハルトは立ち上がり公園を出て行った。
ルイカは首を傾げたまま走り去るハルトを眺めていた。
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塾には自習室という部屋があり、生徒は自由に使うことができる。
ハルトは授業の時間まで自習室で勉強することにした。
さっきのルイカという女に言われた言葉が頭から離れない。
「興味があったってなんだよ。」
ハルトはつい口から声が出てしまい自分でも驚いた。
自習室では基本みんな静かにしているので何人かに睨まれてしまった。
ハルトの中にあった死にたいという気持ちがルイカに対するモヤモヤした気持ちで打ち消されたようだった。
その日の授業はハルトの頭に全然入ってこなかった。
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