1.異世界転生したら崖っぷち
――両親がいて、誕生日やクリスマスやお正月を祝いあって。
辛くて苦しくて、一人ではどうにもできないとき。〝家族〟って帰る場所があること。
それがどれだけ幸せなことか、大半の人はわかっていない。みんなそれを〝普通〟だと思ってる。
私も十八歳までは普通だって思ってた。でも親戚付き合いをしてなかった両親が亡くなって一人になってから、私は〝普通〟じゃなくなった。
私を待ってくれる人も〝実家〟と呼べるものもない。社会人になってからは友達とも疎遠になって、心を許せる人もいない。
私は、私だけの力で生きていくしかなくなった。そんな私の心の支えは――
「私は、努力してないあなたとは違うのよ!」
パソコンの画面に映る彼女は、長く美しい黒髪をなびかせ、うずくまっているアリシアを睨みつけた。
「この程度で彼の隣に並べると思わないことね!」
もはや口癖とも言うべき捨て台詞を残し、颯爽と去っていく。その後ろ姿を目に焼き付け、アリシアは唇をかみしめて立ち上がる。
「リナ様には負けない……!」
そんな彼女は、このPC乙女ゲーム『愛憎不落』のヒロインなんだけど……。
「へこたれた時に発破かけて立ち去るとか、悪役令嬢なのにリナって絶対いいやつじゃん」
缶チューハイをちまちま飲みつつ、私は同じ名前の「リナ」に思いを馳せる。
リナ・エスパーダはこの難易度マックスと噂される『愛憎不落』において、悪役令嬢としてヒロインであるアリシア・クレムリンの前に立ち塞がってくる。彼女は成績優秀、スポーツ万能、眉目秀麗と非の打ち所がなかった。なのに同じ相手を好きになったアリシアと張り合ったことで道を踏み外し、悪役令嬢になってしまった可哀想な人だ。
(アリシアなんか無視してうまいこと立ち回ればいいのに、絶対突っかかってくるんだよね)
だけどリナがいるからこそ、その対抗心で凡人のアリシアは奮起していく。ユーザー的には地獄のパラ上げがきついが、手を抜くと彼女が現れてさっきのような檄を飛ばしてくれるのだ。
(多少ツンケンしてるところはあるけど、パラ上げの時にリナも見守ってるみたいに後ろの方に映ってたりするんだよね)
好きになった相手に見てもらいたくて頑張ってるのに、リナは報われない。アリシアがハッピーエンドを迎える時、彼女は必ず命を落とす。
(どうやっても、ヒロインになれない……)
なんだかそれが自分と重なって、私はリナのことが嫌いになれない。だって、私の日常は——
「江角、これオレの代わりにやっておいてくんない?」
同期入社の新井くんには体よく仕事を押し付けられ。
「新井くんは仕事が早いなぁ、江角くんも見習ってよ」
手柄を横取りされては、上司から嫌味を言われる日々。極め付けは——
「女はやれ結婚だ、妊娠だって、自分のことばかりで仕事任せられないんだよねぇ」
〝女〟ってだけで努力しても認められない。だからって楯突いてどうにかなるものでもない。
(乙女ゲーみたいにハッピーエンドがあるなら頑張れるけど、現実はそんな甘くないし)
だから一時の癒しを求めて、私は乙女ゲーにハマっていった。パラ上げがきつい、選択肢が多い、バッドエンドにすぐなると言われている『愛憎不落』だって、私はむしろ燃える。
(主要なエンディングは見たし、コンプリートする日も近いな)
パソコンの電源を落とすと、暗い画面に長い黒髪を雑に縛っている自分が映った。黒縁メガネで冴えない。ヒロインには程遠い私。これが現実だ。
◇ ◇ ◇
定時を過ぎても押し付けられた仕事が終わらず、残業をした帰り。電車に乗るための階段を降りている時、突然眩暈がした。
(あ、ヤバイ)
咄嗟に手すりを掴もうとしたけど、体が傾く方が早かった。
「っ!」
地面が迫り、ぶつかると思って目を閉じたのに――衝撃がこない。だけどその代わりに体がどこまでも深く、沈んでいくような感覚に陥った。
(私……死ぬのかな? こんなことになるなら、昨日のうちにゲームを終わらせておくんだった)
江角梨菜、三十歳。それが私の最期だった。
◇ ◇ ◇
「……様」
暗闇の中、そんな声が聞こえて。
「お嬢様」
(ふふ、お嬢様だって)
最初は自分のことだと思わなくて、無視していたんだけど。
「起きてください、お嬢様!」
「!?」
どうやら自分のことらしい、と気づいて私は慌てて目を開けた。
「ああ、リナお嬢様。おはようございます」
メイドの格好をした女の子は、恭しく私に頭を下げた。
「おは……よう?」
ひとまず挨拶を返すけど、私はお嬢様じゃないし、当然メイドなんて雇っていない。
(というか、うちじゃない!)
狭いながらも気に入っていた築三十年の我が家とは異なり、天蓋付きのベッドに肌触りが良すぎるネグリジェに……ともかく何もかもが違う!
(これは何? 私は階段から落ちて、それから……)
起き上がって頭の中を整理しようとした矢先、鏡に映る姿に私は声をあげそうになった。
(なっなっなっ……!)
色白の肌に、艶やかな黒髪に、パッチリとした二重に……ともかくあげていくとキリがないけど、それら全てで構成されている人物。そう、そこにはリナ・エスパーダがいた。
(……ゲームのしすぎで頭がおかしくなったのかな?)
現実とゲームの境目がわからなくなるとか、禁断症状だ。というか、これは夢か。うん、きっとそう。
「おやすみなさい」
「ええっ!? 二度寝なんてしないでくださいよ、リナお嬢様!」
再度横たわろうとしたら、阻止された。それどころか新たなメイドが入ってきて、私は着せ替え人形の如く、あれこれ身支度を整えられ——
(うわあああ〜!!)
ドレスで着飾ったリナの美しさはヤバかった。開いた口が塞がらない間抜け面をしても、綺麗なリナだと愛らしくなるから不思議だ。
「失礼します」
メイドと入れ替わる形で入ってきた執事服の人物を見て、私は更に腰を抜かしそうになった。
(セ、セラス・クレムリン!!)
さらさらの銀髪に、澄んだ青い目をした執事服の男。彼はヒロインであるアリシア・クレムリンの兄で、エスパーダ家で執事として働いている。ということは……。
(やっぱりここって『愛憎不落』の世界なの!?)
どうやら私は『愛憎不落』のリナ・エスパーダに転生してしまったらしい。
(いや、そんなことありえる!? 異世界転生ものじゃあるまいし……)
半信半疑で凝視している私の心中など知るよしもないセラスは、私の前まで来ると頭を下げた。
「おはようございます、お嬢様」
「あっ、う、うん……」
「どうかなさいましたか?」
「なっ、なんでもない……です」
「……なぜ敬語なのです?」
「えっ! あー」
事情を話すべきか一瞬迷ったけど、どこからどう見てもリナである以上、頭がおかしくなったと思われかねない。ひとまずここは公爵令嬢として、それらしくふるまうのがベストだろう。
「ちょっと……言ってみただけよ」
こちとら『愛憎不落』のヘビーユーザーだ。リナがどんな口調でどう振る舞うのか、データは全て頭の中に入っている。
(ここがゲームの世界だとして、私が今知るべき最も重要な情報は……)
「ところでセラス。今日の予定はどうなっているのかしら?」
今がゲームのどの時間軸に当てはまるのか。それを知らないことには今後の身の振り方も定まらない。
「本日の予定は……」
少し怪訝な顔をしながら、セラスは私を見た。
「ベイル様主催の舞踏会に出席することになっております。お召しになられているドレスも今日のためにお嬢様が選び抜かれたもの……ですよね?」
「そ、そうだったわね」
なんとか取り繕いつつ、私の心中は穏やかじゃなかった。
(このドレスといい、ゲームスタート時にヒロインと攻略キャラが集まるアレか!)
ちなみにベイルというのは、この国の皇帝ベイル・ステファノスのことだ。
(ゲームだとアリシアが好きになった相手をリナも好きになって、そこから女の戦いが始まるんだよね。それで張り合った結果……)
リナが辿る結末を思い出し、血の気が引いた。
(悪女だから死ぬなんて冗談じゃないわ。私は絶対生き抜いてみせる!)