類まれな改革と終焉
「黒船のおかげで、政局は混乱したが、世に危機感が広まった。これで彼の望む改革を進めやすくなった。良いきっかけである。」
提督が去ったのち、阿部が主導し、西南雄藩(薩長土肥)と連携して行った安政の改革は見事であった。
洋学の強化や大砲建造の解禁、大型船の建造の許可など、強兵策を次々と実施した。人材育成の面でも講武所、藩書調所、長崎海運伝習所などを設置して、身分に捕らわれず、優秀な人材を登用。諸藩の改革にも協力し、薩摩藩・肥前藩・宇和島藩の近代化政策を後押しした。それまでの幕府の慣習を打ち破る斬新なものばかりである。
やはり、この人物は他と違う。彼がいる限り、日本の植民地化は実現しないだろう。逆に彼さえいなくなれば、改革は滞り、尊王攘夷派と佐幕派の対立に歯止めが効かなくなり、日本は分裂する。私は彼をキーマンと捉えた。
交易は避けられたとはいえ、いずれは、アメリカも再交渉に訪れるであろう。その時までに、この国を弱体化させねばならぬ。私は、彼を消すことを考えた。
改革は成果を出していたが、開国以降、交渉を求める外国船の増加や、大地震からの復旧と財政難、将軍継嗣問題などの難題もすべて阿部がこなしていた。常人であれば、過労で倒れてもおかしくない状態である。
開国から2年余りが過ぎた、安政5年(1858年)の暮れ頃から、阿部は体調を崩すことが増えていった。オランダ人医師の診断では、積年の心労によるものとされた。登城は続けていたが、顔色が悪いことは私にもわかった。翌年、5月には本格的に体調を崩し、病気療養に入った。幕府も彼の存在の大きさを感じていたため、6月から多くのオランダ人医師が彼を診断した。
オランダ人医師の通訳も兼ねて付き添っていた私はいつでも手を下すことができた。しかし、それを直ちに実行しなかったのは、内心、葛藤があったためだ。ペリー提督の期待に応えたい気持ちや日本の植民地化を実現するという使命感は強い。この国においても暗殺を使って世を治めてきた歴史がある。国益のために必要な手段ではないか。一方でこのような形で世の中を動かすことがフェアなのだろうか、と迷いもあった。
6月15日の夜、阿部の容態が急変した。私は、敢えて、オランダ人医師を呼ばなかった。明け方、持ち直した彼は私を呼んでかすれる声で言った。
「そなた、本当はアメリカ人なのじゃろう。何か企みがあるのじゃろうが、まあよい。これまでの奉公、ご苦労であった」
私は驚いた。何もかも見透かされていたのだ。
「わしはもう長くは生きられない。これも運命であろう。我が国が躍進するための基盤は作った。残った者たちが意志を継いでくれよう。そなたは日本の行く末を見届けて、祖国に真の革命の姿を伝えてくれ。」
私は、急いで医師を呼びに走った。医師が駆けつけた時には、阿部は息を引き取っていた。
安政4年(1857年)6月17日、享年38という若すぎる最期であった。
私は後悔に苦しんだ。あの夜、私が医師を呼んだとしても、彼の死は避けられなかったかもしれない。それでも、私に殺意があったことは確かなのだから、私が殺害したのだ。そう思うことにした。変に自分の罪を消すような御託を並べて納得するよりも、そのほうが楽なのだ。
こうして、重要人物を消す、という私の望みは達成された。
日米和親条約締結から3年あまり経過していた。その年、私は幕府を去った。日本の行く末を見届けるという、阿部から与えられた使命を果たすことがせめてもの罪滅ぼしと考えた。私は祖国に帰らず、外国語教師として、日本に残った。