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日本植民地化計画の末路  作者: 遠山枯野
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目覚めの蒸気船

 そして、3年後の嘉永6年(1853年)6月3日、ペリー提督がついに動かれたのだ。

ペリー提督は4隻からなる艦隊を率いて浦賀に来航して通商を要求、7日後に江戸湾に入り、上陸の気勢を示す。

 人々は浦賀に集まり、煙を吐きながら進む、この強大な黒い壁を見て何を感じただろうか。威嚇のために打ち鳴らす大砲の音を聞いて恐怖を感じただろうか。底知れぬ不安に襲われたに違いない。そして、鎖国している間に開いた、諸外国との圧倒的な文明の差を目の前にして、絶望したに違いない。下記のような歌を詠んだ者もいた。


「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」


 心構えができている阿部はこの状況でも慌てることはなかった。阿部の対応は適切であった。ここでもすぐれたバランス感覚を発揮したのだ。

 返事は翌年すると言って、時間稼ぎをする。艦隊は9日後に日本を離れた。その間、アメリカからの書簡を見せて、大名や幕臣に広く意見を求めた。勝海舟の海防意見書を受け入れ、砲術家・高島秋帆の禁固を解き、大砲50門の鋳造を佐賀藩に要請、品川沖台場の築造、大船建造の禁を廃止、など、アメリカの脅しに屈しないために、軍事強化を急いだ。その間、国内でも将軍徳川家慶の死去 、徳川家定の13代将軍就任などが重なり、尋常ならざる多忙を極めていた。

 約束通り、翌年の1月16日に、ペリー艦隊が浦賀に再来航する。今度は4隻から9隻に艦隊を増やしていた。軍圧により有利に交渉を進める狙いであろう。2月10日、幕府は横浜にてペリーとの談判を開始した。

「最初の国と結ぶ条約が肝心だ。清国の二の舞にはならぬ。欧米人はディベートに長けていると聞く。こちらも交渉術に優れた人物を送り込む。」

 阿部は儒教者の林術斎を交渉の場に送り込んだ。最高権力者はあえて交渉に臨まず、幕府の威厳を保つのは適切な処置であった。世界状況への理解があり、言語の扱いに堪能な人物として、儒教者の名門・林家のエリートに目をつけたのだ。これが功を制したことになる。

 通訳は、マクドナルドが育てた森山栄之助が務めた。私も参考人として談判に付き添うことができた。

 畳の上に置かれた椅子には、軍服を着たガタイの良いペリー提督が、昔と変わらぬ、威厳に満ちた形相で、林をにらんでいた。

 事前の情報集めを怠らなかった阿部と林は、アメリカの国情とペリー艦隊について理解していた。ペリー艦隊に運用能力は備わっているが、日本と継続して戦争をする能力はない。9隻の艦隊も脅しにすぎない。ただちに戦争に発展するわけではない。

 最初の来航で提示していたアメリカ側の要求は以下の3点であった。


  1. 日本に漂着した漂流民の保護

  2. 外国船への食糧及び燃料の補給

  3. アメリカとの交易


 1と2はアジア海域で捕鯨を続けるために不可欠な事項であったのだろう。しかし、3の交易は容認できるものではなかった。港は開く、しかし、清国の二の舞になる貿易は避けねばならない。

 林は全く動じずに交渉の場に臨んだ。

「遠路はるばるご苦労さん」

まずはジャブで切り出し、提督から話を始めさせることを阻止して、自分のペースにもっていった。

「1と2は依存がないが、3だけは絶対に受け入れない」と切り出した。

提督は激怒した。当然従うと読んでいた小国が要求を飲まないのだから、当然であろう。

「アメリカは人命尊重の考えがあるが、日本は難破船を助けず、漂流民を罪びと扱いしている。続けるのであれば、戦争もやむなし。」

「戦争ですか。別にかまいませんが、それはあなたが勘違いしているだけですよ。」

 今や異国船打払令は廃止され、薪水給与令が敷かれている。遭難した船は助けている。

 漂流民には殺人事件を起こす悪人も多いため一時的に拘束することはあっても、罪人扱いなど非道なことは絶対にしない。と説明した。それはマクドナルドの件を見ても事実であった。

 提督のい苛立ちは目に見えてわかった。机を叩いたり、腰のサーベルに手をかけたりと威嚇を始めている。それでも林は冷静沈着に事実を積み上げ論破していく。

 2回目の交渉では、脅しが通じないことが分かった提督が作戦を変更。交易の有用性を説いた。

「交易は国力強化のためにやらなければ損をするぞ。」

「日本は国産の産物だけで足りているので大丈夫です。そもそも今回の交渉の理由は人命尊重の件だと、先日、おっしゃっていましたよね。交易は関係ないのでこのあたりでお開きにしませんか。」

 ペリーは、せめて開港地を増やすことを要求。開港地を増やすことでいずれ交易につなげるためだ。

「だったら去年の時点で、そう言えば良かったじゃないですか。あなたは本当に開港地を増やしたいんですか?」

 提督は固まってしまった。やがて強引に命じた。

「開港地増設要請の回答を3日後に聞く。」

 林は7日後に無理やり変更。「函館」「下田」を開くことを解答。ペリーは5,6か所の開港を求めたが、林は無視して、完全に言いくるめた。4回目の交渉では、漂流民を十里四方まで行動できるように求められたが、林は七里に制限。やりたい放題である。提督はさぞ屈辱感を味わったであろう。

 そして嘉永7年(1854年)、3月3日、日米和親条約が締結され、日本の鎖国は終わりを迎えた。

 日本が弱腰外交で開国した、武力で気おされて開国した、と言われる原因となった条約と批判されているが、そう言われるようになったのは、明治維新後である。いつの時代も勝者によって歴史は印象操作される。少なくとも、この交渉においては日本側の勝利であった。 

 一方のアメリカは異国打払令が廃止されていることを知らなかったのは失態である。それは私のミスでもある。

 不機嫌な提督は去り際に私に目配せした。「お前、わかっておるな」という意識表示と捉えた。

 その年の10月には東海地震、南海地震が立て続けに起こり、津波により東海道筋、紀伊半島、四国に甚大な被害をもたらした。災異の多かったこの年の年号は「安政」と改元された。

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