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日本植民地化計画の末路  作者: 遠山枯野
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冒険者マクドナルドの漂流

 阿部が老中首座となった2年後の嘉永元年(1848年)、外国への危機感が高まる最中で起きた、ラナルド・マクドナルドの事件についても触れておこう。これもまた幕末の外交において、多少なりとも影響のあった出来事と考えている。

 アメリカの冒険家、ラナルド・マクドナルドは、当時、情報の少なかったこの日本という国に好奇心を持っていた。日本を訪れたい一心で、捕鯨船に乗り込み、蝦夷地周辺、正確にいうと北端の島、利尻島に行き着いた。今でも利尻島にはマクドナルドの石碑が建てられている。

 不法入国すれば処刑されるが、漂流者なら悪くても本国送還だろうと考え、わざと小舟を転覆させて漂流者を装ったようだ。アイヌ人と10日ほど暮らした後、島内の別の場所で日本人にとらえられて拘留され、20日間に渡り、取り調べを受けたが、扱いは悪くなかったと述べている。次いで松前に送られ、さらに10月に長崎に送られた。長崎奉行の取り調べを受けると、詮議ののち、長崎西山郷にある大悲庵という寺に収監された。

 マクドナルドが日本文化に関心を持ち、聞き覚えた日本語を使うなど多少学問の素養もあると知った長崎奉行はオランダ語通訳者14名を彼につけて英語を学ばせることにした。それまでは直接に英語を教える教師はいなかったので、マクドナルドは初のネイティブ英語教師となる。教えた期間はわずかではあったが、生徒のなかでも、森山栄之助はひときわ熱心で、覚えが早く、マクドナルドが驚くほどの習得能力を示したという。

 嘉永2年(1849年)、漂流移民救出のため、長崎に入港したアメリカ軍艦プレブルに引き渡されたマクドナルドは、そのままアメリカに戻った。10か月間の滞在中、日本における態度は恭順であった。独房に監禁されても日本人には終始、丁寧に扱われたマクドナルドは、帰国後も、生涯、日本に好意的だったという。日本が未開社会ではなく高度な文明社会である点を合衆国内に広め、のちの対日政策に影響を与えたことであろう。

 

 長崎で英語教師をしていたマクドナルドに会う機会を得た私は、彼に言付けを頼んだ。日本とまともに戦っても損害は大きい。最新鋭の艦隊で軍事力の違いを見せつけ、不利な通商関係を結ばせて、経済的に徐々に支配してしまうのがよい、また、国内政治も過渡期を迎えており、内部分割の利用も効果的である、といった内容だ。

「ああ、確かに受け取ったよ。帰国後、ペリー提督に届けておく。でも、この国は他のアジア国家のようにはならないと思うけどな。」


 逆に日本側にとってアメリカを知るという意味では、嘉永4年(1851年)のジョン伴次郎帰国も大きかった。彼は漁に出た際に嵐に飲み込まれ、漂流したところをアメリカの捕鯨船に助けられて、そのままアメリカ本土に渡って生活したのだ。彼によって日本人はアメリカの情報を多く知ることができた。

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