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日本植民地化計画の末路  作者: 遠山枯野
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阿部正弘の才能

 私が日本を訪れた天保15年(1844年)の前年、極東の大国・清の運命を決定づける出来事があった。清国がイギリスにアヘン戦争で敗れ、南京条約を締結させられる。これにより清国は実質的にイギリスの支配下に置かれることとなったのだ。一方、鎖国をしている日本にも、度々、イギリス、フランス、アメリカなどの捕鯨船や商船が着岸し、時には通商を求めることがあったようである。その度に幕府はこれを断固拒絶した。

 国内においても、幕府による長年の統治体制が行き詰まりを見せており、老中・水野忠邦による天保の改革も失敗に終わろうとしていた。そんな中で国外からの脅威が迫っていた。さすがに幕府も外国との無用な戦いを避けるため、これまでの外国船打払令を廃止し、薪水給与令を発して、外国船への食料と燃料の補給を命じた。幕府内でも、清国の無残な有様についてオランダ商館を通じて聞いていため、危機感が高まっていたのだ。

 私は、対外政策を中心にこの国の歴史についても学んだ。古来、他国の支配下に置かれた歴史はないが、中華との交易は比較的盛んに行われていたようだ。13世紀には、一時、大陸を支配したモンゴル帝国が船団にて攻め込んできた際も追い払った歴史がある。16世紀、西洋国家による大航海時代には、ポルトガルがこの地を訪れ、鉄砲や洋菓子などの西洋文化をもたらした。彼らにはキリスト教の布教によりこの国を支配しようという目論見があったが、これを見抜いた幕府が、彼らを排除したのだろう。ここ300年近く鎖国政策を貫いてきた。布教の意志を持たないオランダと長崎の一部で貿易するのみであった。そんな独立性の強さから、外国を嫌う志向が強く、攘夷を唱える者が多かった。これは幕府による異国船打払令、外国からの交易要求の拒絶、といったところに見て取れるが、さすがにアヘン戦争後は考えを改める者も現れ、国を開き、まずは外国から学んで対等に渡り合える力を付けるべき、という開国派と、清国の二の舞になることを防ぐため、外国人を追い払うべきという攘夷派に分かれて、思想が対立していた。


 翌年の弘化2年(1845年)、阿部正弘が水野忠邦に変わり、老中首座となる。老中首座は、この国の事実上の最高権力者と言ってもいい。

 この国の政治体制は複雑で、最初は私も混乱したものだ。詳細は割愛するが、この国には二つの王がいるようだ。天皇と将軍である。古来、天皇を中心として貴族が政治を行っていたが、ある時から武士が権力を持ち、国を統治するようになった。その武士の頭領である将軍を任じるのが天皇である。上手い具合にバランスを保ちながら共存しているようだ。その幕府の頂点に位置するのが将軍なのだが、実質的に政治を行うのは、将軍を取り囲む老中たちであり、その老中を束ねるのが老中首座である。ちなみに、大老という役職もあるが、これを置くのは臨時の場合だけであり、老中首座の名前を変えたようなものだろう。

 そして、この阿部正弘という自分に私は興味を引かれた。この時代の日本にあっては、その柔軟なリーダーシップは異質なものであった。当時27歳という異例の若さで老中首座となったのもその才能と人望が高い証拠であろう。

 阿部はもともと福山藩主であり、幕政に入ると、八面六臂の活躍。政治主案に優れるだけでなく、人材育成にも注力した。藩校の講道館を廃止し、誠之館を創設、身分によらない教育を実施した。のちに歴史を動かすことになる才能ある若手を積極採用している。勝海舟を見出したのも彼である。さらに、誰もが手をこまねいていた、幕府内の不正を次々に正していった。例えば、老中首座に再任される予定だった水野忠邦の不正を暴き、免職している。

 特筆すべきは、幅広い、意見に耳を貸す姿勢であろう。江戸幕府は当時からの親藩、譜代を中心に政治を行っていたため、組織としての腐敗が進んでいた。そこに西南諸国の外様大名を積極的に採用していった。おかげで、朝廷と外様の発言権を大きくしてしまったこともあるが、それもこの国の行き詰まりを解消するには必要であったように思う。まさに先例に捕らわれない改革と言えよう。聞き上手であり、相手の話を聞くときは正座を崩さなかったという。自分たちと意見が異なる者の話も積極的に聞く、落としどころを見極める。その柔軟なリーダーシップと合理的な判断力。この時代の日本には珍しい人材であり、周囲からは優柔不断とか、意思がない、とも評されていたようだが、私はそうは思わない。彼はあえて自分の意志を前面に出さなかった。対外的にも難題だらけ、国内も対立が激化していた幕末の時期、日本という国がバランスを取っていられたのも彼の存在のおかげであろう。

 外国への備えも怠らなかった。外国船の情報に詳しい、薩摩の島津斉彬と連携して、列強の諸事情を把握し、これを全国の大名へ公布して、危機感を促した。水戸の徳川斉昭を海防の参与に任命し、外国船への備えを強化した。斉昭は御三家の水戸藩なのだが、過激な言動が原因で、謹慎処分にあった。海防の知識がある彼を復帰させたのだ。

「薩摩からの話で状況は理解しておる。いずれは、外国の艦隊が大軍を率いて日の本を訪れるであろう。国の力を結集してこれに備えるのじゃ。まあ、できることなら、こないで欲しいものだがな。」

 オランダ商館長ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーンからもたらされた清国敗戦の知らせを伝える私の隣で彼はつぶやいた。

 大奥の女房どもにも人気のあるそのハンサムな顔をこちらに向け、がっちりとした体躯を正座した足の上に乗せている。

 私が取り入った幕府重役というのが、まさにこの阿部正弘である。私は阿部の身近に使えながら、オランダ商館と幕府の橋渡し役を担った。阿部は私の話にも例外なく耳を貸した。

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