約束してください、せんぱい
『ねぇ先輩。恋ってなんだと思いますか?』
萩原新菜の声は今にも泣き出しそうなほど震えていたが、その声は相変わらず透明で、覆しようもなく綺麗だった。
『私は、キラキラしてて、ふわふわで、甘くて、幸せで。そんなものが、恋だと思ってたんです』
『……だけど、違ったんですね』
相槌すら打たない自分に構わず、月のない夜の中で歌うように紡がれていた言葉がぴたりと止まる。電話越しに、彼女が深く息を吐く音を聞いた。
『先輩』
「なんだ」
『……私、夜久くんを殺しちゃいました』
そんな言葉も綺麗に響くのだから困った。
日下部夜久は、部活の後輩であり、そして萩原新菜の恋人だ。いや、『だった』と言う方が正しいのだろうか。
ドッキリでもなければ、日下部夜久は萩原新菜に殺され既に死んでいる。そして萩原新菜の動揺ぶりから、それはきっと事実であった。嘘か否かがわかるくらいの時間は彼女と共有していた。
頭の何処かで、いきなり差し込まれた非日常に即座に対応しようとしている事を自覚する。場違いにも笑ってしまいそうだった。後輩が死んだ事を知って、悲しいとは思っていない薄情さにも。この期に及んで、萩原新菜の声ばかり気にしている自分にも。
『どうしたらいいか、わからないんです』
切実さを滲ませ、萩原新菜は言う。
『……先輩、助けてください』
萩原新菜の声は一種の魔力を帯びている。その透明感のある声には、力があった。懇願の色に染まった声で囁かれてしまうと、何でもしようという気にさせられてしまう。電話越しでもその効力は健在していた。
羨ましいことに、萩原新菜は『声』という生まれながらの才を持っている。人を酔わせてしまうような、するりと入り込んでしまうような、そんな声を。
人を殺した、と聞いて衝撃を受けなかったと言ったら嘘になる。この萩原新菜は昨日までの犯罪を一つも犯したことのない萩原新菜ではなく、人を殺したことのある萩原新菜なのだ。
しかし、自分の後輩である萩原新菜でもあった。
透明感のある綺麗な声を持っていて、夢見がちで、精神構造が難解で、面倒くさい性格をした、自分の可愛い後輩だ。偏にその事実は変わらない。
「日本の年間失踪人数は」
口を開くと、思っていたよりも滑らかに動き出した。萩原新菜のような透明感のある声でも、日下部夜久のようなよく通るような声でもない。淡々とした、どこにでもあるような声。
「大体八万人らしい」
『今調べました?』
「調べた」
日本の年間失踪人数なんか、自分が知るはずもない。むしろ知っていたらなんで知っているのか、という話になるだろう。意外と多いな。
それもこれが届けが出てる分だけだというから驚きだ。つまりは年間一万人に六人程度は失踪するということなのである。
大体はすぐ見つかるらしいが、それでも日本の中だけで毎年数百~数千の人間が姿を消すらしい。
だったら、
「日下部も、その内の一人にしてしまえばいい」
『…………え?』
疑問の声に応えるよう、舌を回す。
「死体やら殺した跡やらを隠蔽すれば、日下部は失踪したとして処理される」
「何処にでもあるような、若者の失踪。家庭内不和での家出だとか、そういうもの。よくあるだろう」
「そして、真剣に探そうとし始めた頃にはもう、何も証拠は残っていないという寸法だ」
口を閉じる。彼女も黙っているため、沈黙が空間を支配した。生ぬるい風によってひらりとカーテンがはためき、開いた窓から蝉の鳴く声がする。まだ一応夏ではあるのに、今日は冷房の出番がないくらいには涼しかった。
『……どうやって』
静寂を破り、鈴のような声が空気を震わせる。
『どうやって、隠蔽すればいいんですか?』
なんとなく、部室にいた頃の彼女とダブった。後輩に甘い先輩は、そんな風に問われたら、己の頭を限界まで回してでも答えずにはいられない生き物である、ので。
「……そうだな。殺害現場は綺麗に掃除して。死体は、……例えば、海に投げ捨てるとか」
『……山に、埋めてしまう、……とか、ですか?』
「そうだ」
今の時期、海は人が多いから山の方がいいかもしれんな、なんて付け足すと、なるほど、と言って萩原新菜はまた口を閉じた。考えているようだったので、その間も沈黙を守る。
『だったら、先輩は、』
言葉を手繰るようにして、彼女の声に告白と見紛うような切実さが滲む。
『ズルいってわかってるんです』
『それでも、最初に思い浮かんだのが先輩で』
電話の向こう側から、彼女が自分の目を射ぬいた気がした。
『先輩は、私と一緒に……山に、死体を埋めに行って、くれますか?』
腹の底から笑い出したくなった。
日下部夜久を選んだ癖に、日下部夜久を殺した後、ただの先輩である自分を一番最初に頼る萩原新菜は、どうしようもなく酷い。ズルいなんてもんじゃない。酷いのだ。
ただ頼れるから、というだけじゃない。自分が後輩として可愛がられている事を知っているからこそ、その自負が無意識にでも自分を頼ろうと選ばせたのだろう。
───ああしかし、たとえ知らずとも惚れた弱味につけこむ事が酷い以外になんと言えよう。
それでも、ハープのような声を震わせこちらをうかがう彼女に答える言葉は、はじめから決まっていた。
「ああ」
なぜならそれに嬉しさを感じてしまう自分が結局一番酷いのだから、もう、仕方がないのだ。
◇
初めて会った時から、萩原新菜はあの透明な声を持っていた。
うちの部活は幽霊部員が多く、実際に部活に来るのは自分と萩原新菜くらいだった。自分も、本が静かに読める部室という環境が自分に合っていただけであり、部活動というものはほとんどしていなかった。
同じ部活といっても、二人でただ部室にいるだけ。自分は本を読み、萩原新菜も彼女がやりたいことをやっていた。彼女は端末をいじってSNSをしたり、ぼんやりとただ外を眺めていたりした。何回か読書をするところも見かけたが、あまり合わなかったのかそんなには長続きはしていなかったように思う。
会話は、ぽつぽつと一日の内でたったの数回。ひどい時には最初と最後にしか口を開かない日すらあった。基本的に、本当にただ二人、同じ部屋にいただけ。
それが、大層居心地良かったのを覚えている。
「先輩」と、自分を呼ぶ声が、耳に気持ち良かった。するりと浸透していくようだった。ああ、綺麗だ、と思うのに、後味は残さず消えていくような声だった。
他人と空間を共有しているのに、なんと心休まることか。
自分が覚えている限りで、決定的な事はなにもなかった。緩やかに穏やかに日々は過ぎていった。
ただ、自分の感情だけが唐突に切り替わったのだ。
『恋』というものに。
日下部夜久が部室にいつから来るようになったのかも、自分は覚えていなかった。自分と萩原新菜が二人で過ごしてきた日々に、突然、自然と紛れ込んできた、ということはわかっている。
にぱっとした笑みを持つ、日向のような青年だった。軽薄さに、柔らかな静けさを混ぜ込んだような青年だった。
敬語を使っていても敬意なんぞまるで感じないような軽やかさで、しかしそれも愛嬌になるような人に好まれやすい性格をした男だったように思う。友人も多くいるようで、通る声で友人の名を呼ぶ姿を、よく見かけていた。
そんな日下部夜久は、騒がしさだけでなく静けさも好む男であった。意外にも読書家で、ミルクだけでなく砂糖一つすら入れないコーヒーを好んで飲んでいた。
いつのまにかふらりと部室にやって来るようになった日下部夜久は、部室に思っていたよりもずっとはやく馴染み、部室という空間は自分と萩原新菜と日下部夜久の三人になった。
最初は何故かむすりとしていた萩原新菜も、慣れればなんでもなかったらしい。またいつも通り、自分の好きなことをするようになった。
日下部夜久が自分の事を「先パイ」と、よく通る声で軽薄に呼ぶのも嫌いじゃなかった。なんのかんのいっても、後輩は可愛いのだ。
そうやって、三人で空間だけを共有して。
気がつけば、日下部夜久が萩原新菜を目線で追いかけていた。
あの誰にでも明るい青年が、萩原新菜の前だけでは萎れる横顔が未だ目に焼きついている。彼の目線の意味に気づいた瞬間、ああきっと、日下部夜久もあの声にやられてしまったのだ、なんて納得した。
「先パイ、二人っきりで新菜と会ったりしちゃダメですからね!」
浮気ですよ、浮気! だなんて冗談めかして、萩原新菜と交際することになったことを報告してきた日下部夜久の、あれ以上はないだろうという幸せそうな笑顔といったら。隣にいた萩原新菜は照れているのかいつもより無表情だったから、余計にその笑顔が輝いて見えた。
特に自分は行動せず、日下部夜久は行動に移した。ただ、それだけだ。そして自分と萩原新菜の関係は先輩後輩から動かず、日下部夜久と萩原新菜は恋人となった。本当にただ、それだけの話だった。
可愛い後輩はどちらも憎めなかった。幸せそうに笑い合う二人を眺めるのは存外嬉しかったのだ。
それでも、心からの祝福は贈れた癖に、自らの恋心を捨て切れなかった。
稚拙極まりないと思いつつ、未だにそれを抱え燻らせ続けている。
日下部夜久が死んだ事に衝撃を受けた癖に、萩原新菜に頼られたことに心の底から喜んでしまっている。
◇
電話で聞いた住所に車を滑らせ、言われた通り、空いた駐車スペースに己の車を止める。
チャイムを押そうか迷って履歴を残したら不味いかと思い直し、結局端末に手を伸ばした。電話帳の一番上にリダイアルするその前に、扉が開く。
「先輩」
夜の澄んだ音がした。
「こんばんは、でいいんでしょうか」
艶やかに街灯を反射する星空を溶かしたような黒髪が、耳からサラリと落ちる。やはり電話越しではない方が良い。声の響き方だけのことじゃなく、彼女の全てが。
「おひさしぶりです、先輩」
「……ああ」
久しぶりだな、と応えると、萩原新菜は安心したかのようにくしゃりと笑った。
◇
───記憶を、消されそうになったんです。
横たわる日下部夜久に、萩原新菜の声が落とされた。
「……【レテ】か」
「はい、」
先輩は物知りですね、なんてぽつりと溢された言葉に、偶々一度調べたことがあっただけだ、と返す。頭の中で、以前調べた時に見た情報を展開した。
十数年前、ある会社が、記憶を削除するための装置の開発に成功した。記憶なんて電気信号の一種なんだから、操作できるだろうと思ってやってみたらできた、というのが開発者達の言い分だ。
【レテ】と、ギリシア神話の神格で「忘却」の意味を持つものを由来に持つ、シンプル、それでいて不遜な名前を冠した記憶削除装置は、瞬く間に情報が広まり、多くの人間に認知されるようになっていった。
【レテ】が家庭用に小型化して久しい。
しかし、一介の学生が買うには少々高いそれを、日下部夜久は購入し、萩原新菜に使うよう強制した。そして萩原新菜はそれに抵抗し、日下部夜久を殺したそうだ。
まあ無理矢理記憶を消されそうになった人間は概ね抵抗するだろうな、とは思う。自分の連続性を損なわせてくるなんて、とんだ人権侵害だ。
記憶を消されそうになって刀傷沙汰まで発展したなどとは、よく聞く話である。
そのくらいで、とも思う。生きていれば、忘れていくものじゃないか。一ヶ月前の夕食に何を食べたか覚えているのか?
萩原新菜も抵抗する側の人間だった、というのは、少し違和感があったが、つまるところ彼女もただの人間であることには変わりがない。
そもそも自分は彼女と会うのは久しぶりだった。同じ部活で過ごした頃の印象しかないのだ。あの頃から、変わってしまっていても、自分はそれがわからない。人間は変化していく生き物であるし。
「怖かったんです」
「なにがだ?」
「そんな人だとは思ってなくて」
温度のない声で萩原新菜は言った。
家庭用に調整された【レテ】は、確かそれほど出力が高くないため、一度に一日分程度の記憶しか消せなかったはず。そして、人体への負荷を考えて、連続での使用は禁止されていたはずだ。機能的にも、同じ人間の記憶を消そうとする際は、ある程度の年月が経っていることなどの条件を満たさないと使用できないようになっていると見た覚えがある。
たった1日分しか消せない、娯楽のようなもの。
それでも、日下部夜久は萩原新菜に殺された。
優先順位の問題だ。1日の記憶消去と、日下部夜久の命を天秤にかけ、萩原新菜にとって前者の方が重かったわけだ。
日下部夜久には、後頭部をおもいっきり殴られたような痕が残っている。これはおそらく、記憶を消されそうになった萩原新菜が咄嗟に殴った痕なのだろう。
そうやって、彼女は彼を殺したのだ。
「そういえば」
「はい」
なんですか、先輩、と耳から甘やかな声が入ってくる。
「俺が通報する危険性は考えなかったのか?」
「……先輩は、後輩に甘いので」
「ああ、そうだな」
『私に』ではなく『後輩に』なのがよくわかってる。
「……先輩、たぶん夜久くんが私を殺して、そして先輩を頼ったとして。私と同じように助けたでしょう?」
頭の中でつぶやいた言葉を拾ってかそう萩原新菜は言った。
それはどうだろう。萩原新菜は知らないが、自分は萩原新菜に恋をしていた。前提条件が違うのだ。
「そんな先輩の甘さに、後輩権限で漬け込ませてもらったんです」
通報しようとする素振りを見せたら『冗談ですよ』なんて言って誤魔化してただろうによく言う奴だ。そして冗談なんて言葉じゃお前の先輩は誤魔化せない事も知っているだろうに。
つらっとそんな言葉を吐いた萩原新菜の顔を横目でチラリとだけ見て、また視線を前に戻す。
助手席に萩原新菜を乗せ、トランクに日下部夜久の死体とスコップを積んだ車は、日下部夜久を埋める為、山へ走っていた。
適当な、人気のない山でよかった。埋めてしまえば、見つかるはずもない。たった一人の人間が、広大な山の、それも深くに埋められてしまえば、見つかるのは奇跡に等しくなる。
これがれっきとした犯罪だという事なんか、最初からわかっていた。
殺した事を知りながら申告しない行為にだって立派な罪状があるのに、死体を隠蔽するのを手伝おうとしているのだから言うまでもない。
そもそも、自分の身だけが可愛いのならば、電話で『殺しちゃいました』という言葉を聞いてすぐ、警察にでも通報すべきだったのだ。それをしなかった時点で、既に手遅れだ。
不安と懇願が滲む声に『先輩なら助けてくれるんじゃないか』という希望が僅かに混じってるのだから、もう堪らない。
望むことはなんでもしてやりたかった。それが倫理や法に背くことだって構わない。
伸ばされた手を自分は取った。それが全てだった。
「先輩、そんなに甘くて大丈夫なんですか?」
「もうお前にだけだ」
「……それでも、ですよ」
自分からすがった癖に、萩原新菜は己の先輩を犯罪に巻き込んだ事に対して何かしら思うところがあるのだろう。
そんなの別に気にしなくていいのだ。自分が望んでいることでもあるから。
それでも気になるなら、
「これが終わったら一つ、やって欲しいことがある」
「……それが対価ですか?」
「お前がそう思うならそれでいい」
交換条件とした方が体面が良い。どうせ無理矢理にでもこれが終わったらやってもらうつもりだったことだ。進んでやってくれるなら、それに越したことはない。
「……良い、ですよ」
「何をするのか聞かなくて良いのか?」
「どうせ答えてくれないでしょう? そういう声色してますよ」
それくらいわかるんです、なんて拗ねたこどものように言う。
「私の先輩がこんなに甘やかしてくれるなら、後輩として応えなきゃなって」
笑いきれていない癖に、それだけは確かだと自信が伝わる声で萩原新菜は続けた。
「先輩が私の先輩なように、私は先輩の後輩ですから」
その声が酷く透明だった、ので。
ひとつ瞬きをして、日下部夜久に対する祈りを溶かして捨て去った。
エンジン音だけが車内に響いていた。
◇
山の中は思いの外涼しく、湿った土の匂いがする。
上を見上げると、星がずいぶん沢山瞬いていた。
ふたりで掘った穴に、既に日下部夜久は横たえられている。あとは、上から土をかけるだけで、もうきっと見つかることはない。
その顔は暗くて見えないが、前髪をあげればそこにきっと痣が見えるのだろう。
「もう、大丈夫か?」
殺した側といっても、萩原新菜は日下部夜久と恋人だった。共有した時間で言えば、おそらく自分と彼らよりはずっと長い。感傷などが入り用だろう。
「なにがですか?」
「こいつを埋めるのに支障はないか?」
「……ああ、少し待っててください」
得心した、といった様子で頷いた彼女は、日下部夜久と共に山に運んできたカバンを開き、何かを日下部夜久の入った穴に投げつけた。
「これも処分してください」
「それは?」
萩原新菜の喉から、低い唸り声が鳴る。
「【レテ】ですよ」
吐き捨てられた声は、憎しみとすら呼べるほど、真っ黒に染まりきっていた。
「……記憶を、消されそうになったんです」
彼女は、持っていたスコップを振り上げ、勢い良く【レテ】に向かって振り下ろした。ガキンッと、金属同士の不協和音が山中をつんざく。
「夜久くんは、私から先輩との大切な記憶を消そうとしたんです」
ゆらりと動いた萩原新菜は、再びスコップを振り上げ、
「───許せなかった」
勢いよく振り下ろされたそれが、日下部夜久の顔の横に刺さる。
「はい、はい、はい! そうです! 許せたことじゃありませんでした。だって私から、先輩との記憶を奪おうとしたんですよ!?」
こちらに振り向いたその表情は、闇に紛れ見えないが、いつものあのつんと澄ました顔じゃあないことくらい、自分にもわかった。
「怖かった。こんな、理解できない生き物がいるんだって」
その声の震えは、恐怖からなどではないのだろう。
「私がどれだけ先輩との時間を大切にしてたのかなんて、あんなに一緒に過ごしてたなら夜久くんにわからないはずがないのに」
おそらく、これは怒りだ。
そう、萩原新菜は恋人が死んだにしては凪いでいた。落ち着きすぎていた。
何処に隠していたんだ、それ。
漏れでた激情は、その水晶のように透明だった色を一瞬で塗り替えた。
「私は先輩の事を忘れたくなかった。一欠片だって、忘れたく、なかったんですよ」
「先輩と関わらないでくれ、までは許せました。だってそれは夜久くんにとって浮気ですもんね。私だって浮気は許容できません」
「だけど、私から先輩の記憶を奪おうとしたのは、許せなかった。赦せなかったんです! 赦せたことじゃありませんでした。恋人ですもん。夜久くんが言うなら、勿論記憶だって私は消しましたよ。それが、先輩のものじゃなかったら」
ああ、それでこそ萩原新菜だ。
我が儘で自分勝手。己の意に沿わないものには非常に苛烈。
「先輩が言うなら別にいいんです。でも、夜久くんが先輩の記憶を消せ、なんて言うのは、赦せなかった。特に、あの日の記憶だけは」
先輩なら当然わかりますよね? 告げられた日付には特に覚えがなかったが、恋人を殺してしまうくらいに萩原新菜にとっては大切な記憶だったのだろう。
ただわかることと言えば、二人っきりで部活をしていたうちの一日に違いなかった。
「私からあの記憶を奪おうとしたんですから、死ぬのも当然の報いですよね」
萩原新菜は嗤う。
「夜久くんと上手くやっていくなら、最適解だったのかもしれません。それでも、これを奪うのは許せなかった。忘れることなんてできそうにもありませんでした」
あの青年は、萩原新菜の本質を知っていたのだろうか。
この危うさを理解して、その上で記憶を消そうとしたんだろうか。
「だから、殺したんです」
その何処か笑みの滲んだ声が、酷く静かに響いた。
「他にやり残したことはないか?」
「……ないと、思いますよ」
彼女がある程度落ち着いたのを見て、先ほどから気になってた事項について口を開く。
「そうか。ではひとつだけ言いたいのだが」
「……はい」
興奮で暴れたせいか、肩で息をしながらもこちらにこたえる彼女を見ながら言う。
「【レテ】は別の場所に埋めた方が良い。動機が推測しやすくなる」
先ほどまで聞こえてこなかった蝉の鳴き声が、2人の間を通り抜けていった。
「先輩っ!」
「なんだ?」
「そういうっ! とこっ!!」
一瞬停止した萩原新菜が、いきなり地団駄を踏みだした意図がわからず首を傾げる。
「【レテ】も日下部夜久と同じ場所に埋めたいのか?」
「っ!」
感傷の一種だろうか? あまりおすすめはできないが、この後輩が望む我が儘なら、別にそうしても良いようにしようと思う。証拠はどうせすべて処分してある上に、こんな山奥だ。万一のことがない限りは掘り返されることすらないだろう。
「そういうっ! この!」
「なんだ?」
「先輩がっ、別の場所に埋めた方が良いって言うなら! 先輩が正しいと思うのでっ、別の場所に埋めます!!」
「そうか。……なんでそう興奮してるんだ?」
肩を先ほどより細かく揺らし始めた後輩が顔を上げる。
「先輩のせいじゃないですかぁ!」
「なにがだ?」
「そうだった、こういう人だった……」
ゴリッゴリにマイペースな癖に後輩にはデロ甘で、それでいて自分の考え自体は断固として譲らないし、大体それが『正しい』とこ。先輩何も変わってないんですね。
そう褒めてるんだか貶してるんだかわからない言葉を並び立てて、萩原新菜は笑った。
結局【レテ】は日下部夜久とは別の場所に穴を掘り、どちらにもきっちりと土をかけて見つからぬよう埋めた。先ほどの激情が霧散した後輩は、きっちりとそれを完遂し、笑った。星が瞬いて、彼女の髪に溶ける。暗闇に慣れてきた目に映ったその顔は、大層綺麗だと、そう思った。思って、しまった。
もう、会うつもりはなかったのだ。
日下部夜久との約束もあった。それでも今日の夜中に萩原新菜の電話を取ったのは、
……なにかを期待していなかったと言えば嘘になる。
◇
「ずっと考えてたんだが」
「……なにをですか?」
「『恋』とはなんなのか」
「先輩のそういう律儀なとこ、私は好きですよ」
運転しながらじゃあ、助手席に座っている人間がどんな表情をしてるかわからないのはアンフェアだな、と思う。何せ、相手からはこちらの顔がのぞける。
来た道を辿るように、助手席に萩原新菜を乗せ、人ひとりと機械ひとつ分は軽くなった車を走らせていた。
『恋』とはなんなのか。今日の発端である電話で、萩原新菜が言っていたことだ。わたがしのような甘っちょろい恋愛観を、声を震わせながら言っていた、その始めの疑問。
「正直調べてもよくわからなかった」
『恋慕うこと』だとか、『いつくしむこと』だとか。堂々巡りなことばかりで具体性もなく。
「また調べたんですか? 先輩ってネットサーファーだったんですか?」
「なんなんだそれは」
「ネットサーフィンばかりしてる人の事です」
「いちいち解説しなくていい」
そういう事を聞いた訳ではない。それに自分はいつもネットに頼っている訳ではなく、偶々今日は調べる事が複数あっただけだ。
先輩が聞いてきたんじゃないですか、と萩原新菜は拗ねるように言う。
「でも、先輩、調べなくても大体知ってますもんね。ほら、あの頃だって、」
あの頃の情景を見た。高校の頃、同じ部屋で共に時間を共有してたあの。
思い浮かべている情景は、細かい差異はあれど、手触りは同じだろう。
ふたりでただ部室にいた。居心地が大層良かったあの時間。
「『恋』がなんなのか、調べてもわからなかったんだが」
何故なら、日本の年間失踪人数よりずっと調べにくい題材だったので。はっきりとした数字で表すことができないものは随分調べにくいものだ。
「お前に向けるこの感情に名前をつけるなら、やはり恋だったんだな、とは思った」
恋とは、きっと、想いを捧げることだ。『特別』をつくる感情の名だ。
その声を聞けば耳を奪われた。何でも、望むことなら叶えてやりたくなった。共に過ごした時間が大層居心地が良かった。時たましか見せない笑みを見るのが、存外嫌いじゃあなかった。
たとえこの感情に世間一般において『恋』という名前がつけなくとも、部室で共にいた時間をいとおしいと思っていたのは、間違いなく嘘じゃなかった。
だからきっと、かつての自分はそれを『恋』と呼んだのだ。
世間一般で謳われるその感情に満たなかったかもしれなくとも。
ちょうど信号待ちだったので横を見ると、口を開けては閉じてを繰り返す後輩がいた。
「どうした?」
「どうしたもこうしたもっ!」
張り裂けたような声が車内に響く。
「そんなっ、今さらっ」
「そうだ、今さらでしかない」
こんなこと、本当に今さらだ。今さら言ってもどうにもならないことなのだ。
「少なくとも俺はお前がこの世で一番特別だったし、お前もそうなんだろうな、とは思っていたよ」
横で愕然としているのを肌で感じた。
「なんでそこまでわかってて」
「そうだな、言葉にした方が良かったかもしれない」
自分たちは言葉が足りなすぎたのだ。
あまりにも、ただ隣にいるだけの空間が居心地良かったから。
「誰かが教えてくれたら、こんなことにならなかったかもしれないのに」
それはもう、本当に今さらだ。恋人を殺して、あまつさえ埋めに行った後の帰りに言う言葉ではない。
「でも先輩もひどくないですか? それを知ってて、夜久くんに告白するよう言ったでしょう」
「聞いてたのか」
告白は別に、提案しただけで勧めた訳ではない。
随分と、自分とは色合いが違うのだな、と思ったのだ。溢れそうになったことも、あんな切実になったことも、それまで一度もなかった。ただ、自分にとって萩原新菜は唯一で、一等大切なだけであったから。告白なんてもっての他だ。思い当たることすらなかった。
それでも、素直に応援してやりたかった。それが先輩ってものだろう? 背中を押すなんて、やはり甘いと言われてしまうのだろうか?
「はい。だから私は、夜久くんからの告白を受けたんです」
「……別に強要するような意図はなかったんだが」
先輩という存在を盲信しすぎじゃないか?
「違います。先輩が言うなら、って。きっと拗ねてたんです」
彼女は口元に苦々しい笑みを浮かべる。
「めんどくさいですよね」
「ああ、めんどくさいな」
自分で同意を求めておいて、傷ついたような顔をするところもめんどくさい。
「だが、そういうところがお前だろう」
自分の目が細まったのを自覚した。
「お前は、めんどくさくて、精神構造が難解で、思い込みが激しく、夢見がちで、そして俺の後輩だ。そうだろ?」
萩原新菜が目を見開き、その口から声にならない息が数度出たり入ったりしているのを視界の片隅におさめた。非常に愉快だった。
「先輩、そんなこと思ってたんですか?」
我が儘で自分勝手で、己の意に沿わないものには非常に苛烈。恋にはふわふわした価値観を持ちつつ、気に食わないことがあれば恋人すら殺しかねない。
まあ、言ってしまえば、こいつは面倒くさい俺の後輩なのだ。その点は昔から何一つ変わらない。
「なにも間違ってないだろ」
「いや、酷くないですか?」
ぶつぶつと不満そうにつぶやく後輩に笑いを堪える。
「私は、先輩の思考回路の方が難解だと思いますけどね」
吐き捨てられた言葉は負け惜しみにしか聞こえず、それもまた笑みを誘った。
「だって、私の事が一番特別だって言う癖に、告白したらどうだ? なんて夜久くんに言いますし」
「先輩というものは、後輩に相談されたら己の頭を限界まで回してでも答えずにはいられない生き物なんだ」
いつの間にか後輩になってた奴に、でもな。
信号待ちで車が停止する。
「っ先輩、」
切羽詰まった声で呼ばれたと思ったら、いきなり助手席から身体ごとこちらに手を伸ばし、拳一つ分の距離まで彼女が近づいてきた。
注意する間もなく、ふわりと柔らかく、どこか蠱惑的な匂いで頭がやられる。
きっと今日、再会してからは一番近かった。
顔に甘やかな息がかかる。
その近さのまま、顔に細い指が触れ、
そのまま、萩原新菜は彼女が先輩と呼ぶ男の前髪を上げた。
───そこには、花のような形をした奇妙な痣があった。
「やっぱり」
先輩は、酷いです。忘れたんですね。あの日の事を、先輩は、忘れたんですね。
確信を持って放たれた言葉に、やっぱりこいつは、ガラスのような声だなと全く関係のない事を思った。
【レテ】には二つ、重大な問題がある。
一つは、記憶が消えた際、消えた隙間ごと馴染んでしまうから、どの日の記憶を消したのか、メモでもしておかない限りわからなくなること。
もう一つは、使った人間には、一つ痣が残ってしまうのだ。花のような痣が、頭に。
「先輩も、私みたいに夜久くんに言われたんでしょう。あの日の記憶を消してくれって」
『先パイ、記憶を消してください』とそう前でもない、つい最近の日下部夜久の顔を思い出す。
久しぶりに会ってすぐ、ひとつの約束とその要求を突きつけてきた彼を。
自分に向かって記憶を消して欲しいと頼んできた理由も、もっと言えば萩原新菜の記憶を消そうとしたその理由だってわかる。
あの男は、結局、この女の一番になりたかっただけなのだ。
恋人なんだから、そのくらいは許してやっても良いんじゃないか? とは思うのだが。浮気は禁止でも、恋人の一番になりたいという願いを叶えてやらないのはどうなんだろうか。
無理矢理ではなく頼み込むところにも日下部夜久の性格が出てる。強要をするような男ではないのだ。きっと萩原新菜にもそうしたのだろう。頼み込む、という行為だけで彼女にとっては赦してはならなかったことらしかったので、きっと彼は運が悪かった。
自分は先輩なので、頼み込まれたらどうしようもなくこたえてやりたくなってしまうものだ。それはもう仕方がないことなのである。そして、約束もあった。
「夜久くんがいつ後輩になったのかを、先輩が忘れるはずがないんですよ。だって、あの日は、夜久くんと私たちが初めて会った日でもあるじゃないですか」
「そうだったのか」
「っ、……そう、だったんですよ」
ぐしゃり、と萩原新菜の顔が歪んだ。
失言したな、と思う。さすがに同日だとは思ってなかった。
「先輩は、もう違うんだ」
自分が萩原新菜に向ける感情に『恋』という明確な名前がついたのはきっとその日なのだろう。【レテ】で記憶を消した直後からずっとわかっていたことを再び思った。
「先輩はあの日の事を覚えていないんでしょう?」
告げられた日付は、萩原新菜が日下部夜久に消されそうになったと言っていた日であった。
「おかしいと思ってたんですよ」
話が少し噛み合わない気がして。
「日下部を責めてやるな。最終的に消すと言ったのは俺だ」
慰めにもならないことを言う。こいつがその記憶を、恋人を殺してしまうくらいには失いたくないと思ってくれていたなどとは知らなかった。
「二つ、交換条件のようなものを出した。一つは、日下部も、あの日の記憶を消す事。やっぱり条件はイーブンじゃなきゃいけない。だから、日下部には頭に記憶を消した時の痣があっただろう?」
「っ、ならもう一つはなんだったんですか……?」
「もう一つは、そうだな、」
数瞬、頭の中で逡巡する。
「秘密としようか」
もう必要のないことだ。守ることを止めた男同士の約束なんて、墓まで持っていった方がいい。
約束を、したのだ。
自分が出した条件が2つなら、相手から出された条件も2つあった。
恋人に会わないで欲しい、だなんて、かわいらしくて酷い約束が。
これでも今日、萩原新菜から電話がかかったとき、少しは躊躇ったのだ。
それでも、萩原新菜にすがられた瞬間、そんな躊躇いは消え失せてしまった。
自分が大層酷い自覚はある。結んだ約束より、惚れた女を優先した、酷い男だ。後輩だった男より、今でも後輩である女を優先した酷い先輩なのだ。
結局、後輩に甘いと言っても、その程度なのである。
それから、萩原新菜の家につくまで一言も話さなかった。
◇
「そういえば、一緒に死体を埋めに行ってくれる代わりに私にやって欲しいことって、結局なんだったんですか?」
「ああ、そうだ」
先ほど、トランクから取り出し、この部屋に持ち込んだボストンバッグを開く。
「え? あの、これ、」
「ああ。見覚えがあるだろう?」
───【レテ】だ。
家庭用記憶削除装置【レテ】。萩原新菜が山で壊したものと同種のもの。
スコップで叩き壊されたあと埋められたアレは、日下部夜久が購入したものであったが、これは己が購入したものである。当然、別のものだ。
「え? だって先輩、あの時、夜久くんを殺したのは記憶を消されそうになったからだって、私言って、先輩もそれを聞いてたじゃないですか!」
「お前、良いって言っただろ」
「そんなのっ」
万一にも萩原新菜に疑いの目が向くようなことがないように、萩原新菜は、こんなこと忘れた方が良い。そして、自分は彼女と会わない方が安全なのだ。
車はわざわざ自動運転機能を切って運転していたし、移動中、周りにあった防犯カメラなどもすべてハック済みだ。衛星だって掌握しておいたので、余程の事がない限りは萩原新菜に繋がることも、ましてや死体の場所など知れるはずもないだろう。
証拠もひとつとしてなければ、警察も調べようがない。そして、今日の記憶を忘れた彼女が失言するはずもないのだ。
何故なら、【レテ】で消した記憶は、その瞬間ごと馴染むのだから。
「目が覚めたら、今日の事すべて。お前の家に日下部が来たとこから死体を埋めて、この家に帰ってきて記憶を消したとこまで全部忘れているだけだ」
そうして、久しぶりに己の先輩に会ったことも忘れ、恋人が失踪した理由もわからないまま、彼女は生きていく。
そして、きっともう一生、自分はこの女と会うことはないのだろう。
「条件を聞かない選択をしたのはお前だ。それに、消すのはお前の言う『あの日』でもないし、さっきは『先輩が言うなら別に先輩の記憶を消してもいい』だとかなんとか言ってただろ?」
会ってしまえば、疑われる可能性が上がるから。そのような可能性は、少しでも排除すべきなのだ。
自分と萩原新菜は、ずいぶんと会っていなかった。今日がイレギュラーなのだ。もう既にあの部室は自分たちのものではなく、そして道は別たれていた。
「……これ、嫌だって言っても無理矢理やるんですよね?」
察しが良い後輩である。伊達に自分の後輩をずっとやっているわけではないのだ。
「大体、人を殺すくらい記憶を消すのが嫌だって言ってる後輩に対して、記憶を消して欲しいなんて要求するの、デリカシーがないんじゃないですか!?」
「その方がお前が安全だ」
「……やっぱり先輩って本当に! マイペースな癖に後輩には甘くて! 自分の考えは譲らない頑固者で! でもその考えは『正しさ』でできてる。先輩、本っ当に何も変わってないんですね!!」
正しいことだけが良いことな訳じゃないのに。
「先輩は、なんでも要求できたんですよ? 犯罪の片棒担いで、それでいてやって欲しいことは私のためだって言いますし! それも私が本気で嫌なこと!!」
怒っている癖に、こいつはもう既に消す腹を決めてくれたらしい。それでこそ俺の後輩だ。
「では、ちゃんと大人しく消されてあげるので、」
【レテ】を装着して寝転がった彼女の目元は、既に装置に隠れて見えなかった。
「約束してください、先輩」
「なにをだ?」
「また、また会えたら、その時は、」
続いた言葉に、ひとつ瞬きをする。
難しい要求をしてくるやつだ。会わない方が良い、とこちらが考えているときにそんな約束を願うなんて。
「……ダメ、ですか?」
「記憶を消すのは一緒に死体を埋めに行く対価じゃなかったか?」
「暴れず大人しく消されてあげる代わり、ですよ」
トンデモ理論に笑いそうになる。
記憶を消したらまた会うもなにもないだろう。今だってあの部室から出てからは一度だって会ってなかったし、これから自分は去る予定だ。再び会えることすら保証できない。
それでもまあ、対価がなくたって良いのだ。
その約束に答える言葉は決まっていた。
「───ああ、わかった」
なにせ、
「もうお前だけだ」
どうしようもなく甘やかしてやりたくなるのは。
すでにたったひとりの後輩となった女は、約束を結べたことを理解して、泣きそうな顔で微笑んだ。
───そうして、彼女の世界は暗転する。
………………
…………
……
「なぁ、日下部」
「なんですか、先パイ」
「お前は、───萩原を一生笑わせ続けるって誓えるか?」
「……それが、二つ目の条件ですか?」
「そうだ」
「……一生は、誓えません。でも、彼女が幸せであって欲しいと願ってます。だから、それはオレの願いですから、言われずとも叶うよう尽力はしてますよ」
「そうか。……それなら俺は、あの日の記憶を消そう」
「いいんですか?」
「ああ。さっきの約束も、ちゃんと守ってやるよ」
恋人に会わないで欲しい、なんていうかわいらしい約束も、1日分の記憶を消して欲しいという懇願も、こんな条件を飲んでくれるなら叶えてやりたいと思う。
なんといっても、結ばされた約束ならすべからく守ってやりたいと思ってしまうくらいには、自分は後輩に甘いのだから。